根本仏教講義
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8.苦集滅道
(1)仏陀のひらめき
A・スマナサーラ長老

 今月から「苦集滅道」という4つの言葉についてお話しします。仏教の有名な言葉ですが、できるだけわかりやすくお話ししたいと思っています。

■日本の仏教とお釈迦様の仏教■
 まず仏教というのはお釈迦様が発見して教えたものですから、もし仏教の真実の教えは何かを知りたいとするなら、お釈迦様の言葉を聞くことが正しい方法です。他の人に教えや解釈を求めるより、お釈迦様の教えを乞うことがいちばんでしょう。

 たとえば日本では、道元禅師がこう言っていますとか、日蓮聖人がこう言ってますとか、親鸞聖人がこう言ってますとか、そういう教えはたくさんありますが、そういうのはあくまでもその祖師がたの考え方で解釈したものです。特に、日本にある仏教というのは、中国、韓国を通ってきたもので、日本に入ってきたときから新しく作られたお経が伝わってきています。いわゆる釈迦尊の教えではなくて、釈迦尊が亡くなってから700年くらい経ってから、釈迦尊と話したことのない人が勝手に書いたお経なんですね。伝わってきたのは、法華経とか、維摩経とかそういうものです。中国では、天台智というかなりの大物学者がいて、その学者さんが自分の手元にあった経典を読んで、これこそ本当のお経だとか、これはたいしたことのないお経だとか、分析したんですね。その分析はどうも妙な分析で、お経の内容をよく読んだり研究した跡というのはまったくないわけです。いわば、この人の頭の中の固定観念ですね。それ一番偉いのが法華経だと決めてしまったわけです。そして自分という確かな人間が決めたのだから確実である、自分こそ一番偉いのだと言ったわけですね。

 自分で一番偉いと言っただけで、一番偉くなるわけはありません。私こそ世の中で一番美しい人間だと言っても、言うのは勝手ですが、それで、一番美しい人間になるわけではありません。しかしまあ、この天台智というお坊さんもかなりの人でしたから、その考え方が日本にまで伝わってきているのです。そういうわけでいろいろな教えがあるのです。

 しかもいろいろあるだけではなくて、言っていることがお互いずいぶんかけ離れているものですから、一体全体、何が仏教かとわからなくなってしまうのです。

 たとえば禅寺に行ったら坐禅を組みなさいと言うし、浄土宗系統のお寺に行ったら南無阿弥陀仏を唱えなさいと言うし、それぞれ行くところによって別のことを言われてしまう。では一体釈迦尊は何を言ったのか、仏教とは何なのかと、我々現代人は自由ですから、ちょっと問題になってくるのです。

 「仏」「教」というのは「仏陀」の「教え」ということですから、仏教が何かということを知りたいならば、仏陀が何を教えたかということを知った方がいいのです。仏陀といえば悟った人、目覚めた人という意味で、お釈迦様のことです。

■お釈迦様の仏教はどこが違うのか■
 それでお釈迦様のおっしゃったことを勉強すると、不思議なことに、すごく古くてわかりにくいとか、迷信ばかりだとか、拝みなさいとばかり書いてあるとかそういうことがまったくないのです。釈迦尊自身の言葉を聞くと、我々現代人にぴったり合う言葉を話し続けておられて、ものすごく光り輝いているのです。私は日本でもいろいろな人にお会いしましたが、多くの方から、お釈迦様が直接おっしゃっていることは日本語で読んでもものすごくびったりと自分の心に響くのだという言葉を聞きました。日本のような近代化した社会でもそうなのですから、とにかくお釈迦様の言葉はかなり現代的でもあると言えると思います。実際、とても合理的で科学的です。迷信とか、祈りや儀礼、宗教につきもののそういった形式的なものには一切出会わないのです。

 たとえば皆さんもお聞きになったことがあるでしょうが、NHKなどで、どこかの有名なお医者様を呼んで全国に向けて話をしてもらったりしますね。そういった話は誰にでも非常にわかりやすいし、どんな人間にとっても役に立つ。私のような外人が聞いても役に立つのです。高血圧はこういうものでこういう風にコントロールしてくださいといった事実に基づく科学的な話ですから、日本人だけじゃなくてアメリカ人であろうとタイ人であろうと、また昔の人であろうと未来の人であろうとその通りにすれば高血圧はコントロールできる。お釈迦様の話もそのような話なのです。

 私を信じなさい、私を信じなかったら、あなたはひどい目にあいますよ、地獄に落ちますよなどといった話はまったくない。ただ、真理はこういうことで、こうすればこうなる、こうなりたかったらこうしなさい、と教えるだけなんですね。

 ですから、私はよく、仏教は科学的な教えだというのです。科学的というのは、どんな人間にも当てはまり、なおかつそれを自分で確かめられる、証拠があって証拠に基づいた話ができる、そういうことが科学的ということです。科学的であるということは、固定概念や自分の好き嫌いとも関係がありません。真理は真理なのです。たとえば人に殴られたら痛い、自分の心の中に何か固定概念があってもなくても痛いものは痛い、そういうことが真理なのです。

 自分が誰かに悪口を言われたら良い気分はしない、心に苦しみを感じる、それも誰に言っても同じことなのです。犬や猫にさんざん悪口を言ったり叱ったりしても同じですよ。いやな顔をして怖がって逃げたりします。このような真理は誰にでもぴったり当てはまるものです。そういう立場で私は「科学的」という言葉を使っています。

 科学というのは、いろいろな学問がありますが、たとえば植物のことを研究する人は植物のことを知っていますが、その人は奥さんとけんかしたときは、どうやって仲直りできるかはわかりません。科学というのは、ある一つの分野について徹底的に研究する学問です。

 仏教の科学というのは心の科学で、生き物として人がいかに生きるぺきか、どのように生きれば苦しみがなく、楽に幸福に平和に生きられるか、そういう心の科学なのです。

 もう少し深く掘り下げると、その心の科学には生命の法則も、宇宙の法則も入っています。

 そんなわけで、仏教を理解する人が、あまり他の勉強をしようとしないという傾向もあります。それは、仏教を理解する人は上手に生きる術を身につけていますから、家庭でも社会でも学校でもうまく生きる技を知っているので、たとえば学生ならば、お釈迦様のおっしゃる心の法則を理解しているとどんどん記憶でき、いともかんたんに勉強ができる。、社会でも、人にまだ見えないような部分まで見えてくる、だから仏教を知る人ほそれで間に合ってしまうということがあるのです。それはもちろんお経を覚えている人のことではなくて、本当に仏教を理解している人です。

 我々僧侶は、出家として暮らしていますから普通の家庭の出来事には接したことがないし、世の中のことも知りません。ですが世の中を知らないものが、世の中で苦しんでいる人々にいくら話をしても意味がありませんよね、ですから知識は必要なんです。それでいろいろなものを見たり聞いたり読んだりする。いろいろな分野の勉強をします。自分に関係あるかないかは別にして、知る必要があるから学ぶわけですが特におもしろいことはないのです。でも、仏教の勉強は、学べば学ぶほどおもしろく、自分自身にも関係があって、すぐ気になるというか、勉強せざるを得ない状態になってしまうわけです。まあ、ここまでは序論ですが。

■お釈迦嫌が真理に出会うまで■
 さて、お釈迦様は真理を自分で発見したわけですが、これも急に発見したのではなくて、ありとあらゆることを試してみたわけです。一つの方法を試して、これは違う、次の方法を試して、これは違うと、次々と試したわけです。インドにあったいろいろな修行方法を自分で積極的に試し、しかも教える人が驚くほど徹底的にやってみたのです。先生の方も、私はそこまでやっていないよと言うくらいのところまでなさる。そうしなければ納得がいかない性格だったんですね。何かを中途半端にやってみて、これはあまりよくないと言っても、真実味がないしそんなことを言う権利はありません。充分にやり尽くしたうえで、これはあまり意味がありませんと言った方が科学的で、誰にでも理解できるのです。

 そんなわけで、お釈迦様が6年間苦行なさったという話は有名です。その6年間の苦行が終わったぎりぎりのところで、お釈迦様はこう考えられました。私ほど苦行を実践したものは他にはいない。人間が生きながらこれ以上の苦行はできない。これほどの苦行をしても、私は特に心が成長したということはまったくない。特に心が堕落したということもないが、成長したこともない。ここまでぎりぎりまでやってみて何も得られないなら、やめましょうということでやめたわけです。

 他の宗教についても同じことでした。お釈迦様にアーラーラカーラマとウッダカラーマという有名な仙人の先生がいて、2人ともものすごい瞑想達成者で、超能力があったのです。もしかすると、インドでその2人しかいなかったかもしれません。1人のところへ弟子入りしたらずいぶん教えてくれる。そして教えてもらえるものは、お釈迦様はすぐ覚えてしまう。お釈迦様はなんでも、1度聞いたらすぐに覚えてしまうことができました。そういう記憶力があったのです。それだけではなくて物事を自分で考える人でもありました。丸暗記するだけでなく、それをきめ細かく理解する。するとそれをきめ細かく説明できますから、先生の方が驚いてしまうんですね。

そのように教わって、その先生からは全部教えてもらうことが終わったところで、釈迦尊はこう考えました。この先生は、ただ頭だけで考えてこのような高度な話をされているわけではない。何かを自分で知っておられるのだ、超越した智恵を何か体験しておられるのだと。ヨーロッパの哲学者のように一生懸命考えて、それを書いたりしているのではないとわかったわけです。そうなれば、自分もやるしかないと思ったのです。先生も人間で自分も人間なら、先生にがんばれたことが、自分にがんばれないはずはない。先生に智慧があったというなら、自分にも智慧を持つことができるはず…と考え先生がなさった修行をやってみられました。実際に修行してみると、あっという間にその心の境地を達成してしまったのです。話を聞いた先生は驚きながらも、「それなら私の知るところを、あなたはすべてご存知です。今日限り、先生も弟子もありません。今日から2人でこの教えを皆に教えてあげましょう」とおっしゃいました。大変な名誉をいただきましたが、でもお釈迦様は、まだ、これでは完全ではないと思ったのでした。(以下次号)
(スマナサーラ師講義より構成しました)

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