根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME根本仏教講義→8.苦集滅道 (4)お釈迦様がおっしゃる道--生きる方法 (No41)
8.苦集滅道
(4)お釈迦様がおっしゃる道--生きる方法
A・スマナサーラ長老

 先月は、お釈迦様が悟られてから初めての説法でお話しされた「苦集滅道」のうち、「苦」についてのお話を始めたところでした。私は、お釈迦様のおっしゃる「苦」は、日本語では、「不満」に近いと思うというお話をしました。そしてその原因は「欲望」であり、欲望があれば不満が生まれる。欲望と不満はセットになって、苦しみは循環するということをお話していました。

■欲望とは何か■
 では、欲望とはどのようなものでしょうか。
たとえば我が子が何かちょっと悪いことをしたら、みなさん、神経質になってものすごく悩んだりしますね。それは自分の子供だからです。他の子が何かしても特に深く悩んだりはしないでしょう。自分の子供のことで悩むのは、そこに欲望があるからです。欲望があると不満が生れ、そこには苦しみが生まれてくる。

 たとえば、どこかの男の人が誰かと浮気をしたという話を聞いても、それは世の中にはよくあることだと冷静に言えますよね。ところが、実はあなたのダンナも浮気をしているんだよ、こういう証拠もあるんだよと言われたらどうですか。そのときは爆発してしまうんですね。そのときは苦しみを感じるのです。それはやっぱりそこに欲望があるからなのです。私の子供、私のお金、私の会社、私のダンナ、私の、私のというのだけれど、それは原子爆弾をカバンに入れて運ぶのと同じようなものです。いつ爆発してひどい目に遭うかもしれないのですから。

 そんなわけで、お釈迦さまは欲望が消えた状態は幸福な状態だとおっしゃるのです。不満は一切ない。苦しみは一切ない。この、欲望が消えた瞬間、消えた状態、それを「滅」というのです。滅というのは消えることですから、何が消えるのかというと、欲望が消えるのです。

■正見と正思のむずかしさ■
 では「苦集滅道」のその次に来る「道」とは何かというと、道、つまり方法のことです。今私たちが皆さんにお伝えしているヴイパッサナー冥想もーつの方法です。しかし仏道というのはヴイパッサナーだけのことではありません。
ちょっと冥想するという程度のことではないのです。「正見」という言葉がありますが、ものごとを正しく見る、偏見を捨てて見る、ということを意味しています。我々のものの見方は偏見だらけで、今人気があると聞けば、すぐそれに飛びつく。この歌が人気だと聞けば聴いてみる。聴いてみて、ああ、やっぱりすごい、いいなあと思ったりする。人間というのは、そのように言われるとおりにやる生き物なのです。自分で判断しようとしない。いつでも偏見を持っている。

 「正見」という立場からいうと、ものごとはもっと客観的に科学的に見て、的確な判断をくだす。もし事情が変わったら、自分の考え方も変わる。そういう自由な心を持たなくてはいけません。この正見というのは結構むずかしいのです。頭の中は、くだらない考え方、悪い考え方でいっぱいでしょう。仏教では、頭の中でも悪いことは考えるなと言うのです。頭の中からきれいにするのです。誰にも知られていないからと言っていろいろなことを考える、それはやめなければならない。心の中まできれいになれなければならないのです。

 もうひとつ「正思」という言葉があります。
普通に生きていれば、人間だれでもそれなりに立派に見えますが、心の中で何を考えているかというと、何もコントロールがないのです。人は何か頭にくることを言われても、実際にぶん殴ることはしませんが、ぶん殴ってやりたいと思ったりはするのです。上司に叱られたら、こいつは死んでしまった方がいいとか、いない方がいいとか、事故にでも遭ってくれないかとか心の中で思ったりする。また、ものすごく幸福な人を見れば、私もああいう風になりたいなど余計な欲を持ったりする。余計な欲を持ったり余計な怒りを持ったり、人に害を与えることを考えたりする。

特に最近は、映画を見ても小説を読んでも「暴力」(violence)がはびこっている。欲と怒り、それしか書かれていないこともしばしばです。それが現代文学。美しい人間の姿は書かれていない。それでもみんな実際には悪いことをしないのだからいいんじゃないかと思って許してしまう。でも結果はというと、あちらこちらでぽつぽつ悪い結果がでてくる。

 日本は平和な国といわれますが、心はやっぱり平和じゃない。心では相手と戦って倒したいという気持ちがある。一時流行っていた戦争ゲームは、心の戦いのひとつの現れです。武器を持って、山に入ったり森に入ったり、撃たれた人が本当に死ぬわけはないのですが、ゲームする人はとにかく、敵を倒そう、殺そうという気持ちで挑むわけです。これはゲームはゲームですが、やっぱり戦争なのです。大人の、立派に成人した男もやっている。平和な社会だとか幸せだとか言っていますが、ちょっと危ないんですね。いつ、どんな結果がでるかわかりません。ひとりでぼけっとしていろいろなくだらないことを考えていると、余計なことを考えるばかりです。

■犬があなたの足を噛んだら…■
 逆に、どうやれば人の役に立つか、というふうにものごとを考えるようにすると、智慧がわいてくるのです。我々のような出家者は、最初から、人のために生きることこそ正しいと思い込んでいますから、はっきりしています。自分が偉くなってやろうかなと思うにしても、それは自己高慢ではなくて、人の役に立つためにどうするべきかという観点からの考えなのです。
このような説法にしても、どのようにしゃべれば人々は理解してくれるだろうかということだけに神経を集中させるわけです。するとそうすることによって結構智慧がわき、頭が良くなってくるのです。また、ちょっとした不幸に遭っても冷静でいられるのです。人にいじめられても、その人をやっつけてやろうと思うよりは、情けない奴だと思うばかりです。いじめられるからといって、自分がまたやり返したら、自分の立場にもよくないと考えられるのです。仏教的な育ち方とはそのような育ちかたなのです。

 出家する前の小さい時は、私も男ですからよくケンカをしたのです。ケンカをして殴られ負けそうになると、殴られた方は、すぐ大人に言いますね。あいつに殴られたんだと。そうしたら大人は私に、どうして殴ったんだと聞きます。私が、彼が先に私を殴ったから殴ったと答えると、僕たちの国では「では犬があなたの足を噛んだら、あなたは犬の足を噛むのですか」と聞かれるのです。そう言われると子供は頭に思い描く。犬が来て私の足を噛む。そこで私も犬を噛んでやる…というと何となく格好悪い。
なるほど、それはいけない生き方だ、殴ったから殴り返すというのはよくない生き方だと、よく理解できるようになるのです。世の中には目には目をという教えもあるようですが、犬が吠えたらこちらも吠え返せというのと同じようなもので、ばかげた生き方だといわざるをえません。吠えるのは犬の仕事のようなものですから勝手に吠えさせておけばよいでしょう。もし犬が自分を噛んだなら、あっちへ行けと追い払って、自分の傷跡を手当てすればよいでしょう。
また別の機会に待ち伏せして、犬を捕まえ噛んでやる、痛めつけてやる、というのはちっとも立派な生き方ではありません。滑稽ですね。相手が人間であってもまったく同じことです。

■正語--汚い言葉を使う側の醜さ■
 ですから、我々は心の中からきれいになって悪いことは考えもしないということが必要なのです。
また、「正語」という言葉もあります。
しゃべるときも、みんな全然コントロールなしに水道管が破裂したかのように全部出してしゃべりますが、そんなことは誰にでもできることです。それは、仏教ではやはりやってはいけないことなのです。しゃべりたい気持ちが生まれたら、ちょっとしたフィルターをかけて汚いものは取り去ってきれいなものだけ出す。たとえば怒ったとき、言葉の巧みな人は、相手が傷つく言葉をずばずばと言いますよね。存分にしゃべって言ってやったとすっきりするでしょう。

でも、よく考えてみてください。自分の口からさんざん汚い言葉がでるということは、こちらが汚いということをみんなに発表しているわけです。相手を叱って相手に気付かせてやったなどと自分を正当化しているかもしれませんが、実は自分が汚いということを公に発表し宣伝したことにしかなりません。ですからお釈迦さまは言葉を話すときはちゃんとフィルターをとおしてからしゃべるようにとおっしゃるのです。

たとえば汚いものが混じった水でも土を通ればきれいな水になりますね。地中深くに掘られた井戸の水を我々は飲むことができる。でも井戸水ももともとは雨水だったり、きれいな水ではありません。でも土を通れば、土の中に悪いものはとどまり、きれいな水だけが残るのです。
そのように、言葉も自由に流しっぱなしにするのではなくて、汚いものはとどめるようにしなさいということです。人の傷つく言葉ではなく人の役に立つ言葉をしゃべるーーそういう習慣も必要なのです。そのためにはやっぱり心の中をきれいにしておかなければむずかしいのです。

行動も同じことです。怒ったらすぐ人をいじめてしまう。大人でも、いじめたりしますよね。
子供たちの間で、人を「臭い、汚い」などと、ひどい言葉を使っていじめることがあります。
自分の友だちにそんな言葉を使う人の方が実はよほど、汚くて臭い人間なのだと、先生や親達が教えてあげなくてはなりません。

 人をいじめたり嫌がらせをすることは相手を攻めたことにはなりません。ただ自分がどれほど醜い人間かということを、行動をもって世の中に発表しているのです。

■正命と正精進−どう生活し何に努力するか■
 「正命」という言葉でいう、生活することについても同じです。
お金さえ入ればいいと思って、何でもして生活する。またお金で何でも解決しようとして、どんな罪も金の力で消そうとする。悪いことをして金持ちになっても、たとえば暴力を振るって、また麻薬の仕事で金持ちになって高級車を乗り回しても、誰も羨むことはないのです。

 さらにお釈迦さまは、「正精進」についてもおっしゃいます。
我々はそこでとどまるのではなく常に努力しなければならない。以前、我々は不満を持っているからがんばるというお話をしました。では、不満が消えてしまったらがんばることもなく、つまらないのではないか、不満、欲望があるから仕事をするのではないか、不満があるから家庭の平和をなんとかしようと思っているのではないか、その不満が消えてしまったら危ないのではないか、生きがいもなくなってしまうのではないか…そんな反論も生まれますね。お釈迦さまが言うのは、また別のがんばりなのです。つまり良いことをしようというがんばりです。良いことをして、悪いことをやめようという努力、その新しい努力に向かうのです。(以下次号)
(スマナサーラ師講義より構成しました)

次の講義へ→
HOME根本仏教講義→8.苦集滅道 (4)お釈迦様がおっしゃる道--生きる方法 (No41)
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.