根本仏教講義

9.心の法則 1

心はうんちく好き

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今回から新しいテーマでお話を始めますが、本題に入る前に、お釈迦様の仏教が現代に至るまでに、どのような変遷を経てきたかということを簡単に見てみましょう。お釈迦様は人間でしたが、没後長い年月を重ねるうち、いつの間にか神様に祭り上げられ、ただただ信じるだけの「信仰対象」にされてしまいました。当初からすると、どんどん変化してきたわけです。

仏教は退化してきた

仏教における「変化」というのは残念ながら「進化」ではありませんでした。「退化」なんですね。古いものというのは大体、時代が変わればそれなりに進化していくものです。たとえば、日本の伝統的な文化、歌舞伎などをとってみても、歌舞伎が始まった当初の古い形を寸分違えずそのまま保とうとすると、誰も見ようとしないものです。ですからわずかであろうとも現代人に理解できるように、いろいろと進展があるわけです。私はあるとき、少しだけなんですが、歌舞伎を見たことがありまして、結構驚いたのです。歌舞伎は日本古来の伝統的な舞台芸術だと話にだけ聞いていたので、実際に目にしてみて、その新鮮で大胆な、現代人にアピールする迫力に大変驚いたわけです。ものすごく新しい感覚なんです。そこに来るまでには大きな変化があったわけですね。だからといって、古い伝統的な魅力が消えてしまったわけではありませんし、まったく新しく作ったわけでもないのです。そういうものを「進化」といい、素晴らしいことなんです。

一方、仏教はどうでしょうか。進化しているのでしょうか。ちょっと言いにくいのですが、私たちの判断で言えば、もう完全に退化してしまったんですね。それにはわけがあります。どういうことかというと、仏教は始まった瞬間に完全な形で現れたのです。その完全な形から変化して行くわけですから、法則的にいうと、もう徐々に退化するしかないわけです。そうやって退化してきました。そこで逆に考えると、実に素晴らしいことに、我々にはすべき仕事がたくさんあるのです。どういうことかと言いますと、錆とかカビとか、余計にはえた雑草とか、全部きれいに取って、また新しい状態にぴかぴかに磨いてやらなければなりません。つまり、このお釈迦様が伝えられた初期仏教を実践している人たちは、やっぱり命を懸けてやらなければなりません。だからといって大胆に、無理をしてやりすぎると、活動はすぐにできなくなりますから、まあ徐々に徐々に活動し、伝えていくことです。

なぜお坊さまは頭を剃るか

では、他の宗教とくらべて、一体どうして仏教は退化してきたのでしょうか。それは、仏教がいわゆる「信仰」ではなかったということなのです。他の宗教のようにただただ信じるべきもの、ただただ守るべきものというものは仏教にはありません。たとえば、決められた形でお祈りするとか、身につける決められたお守りがあるとか、あるいは特別な儀式、儀礼があったりね。そういうものは何もないのです。

我々出家しているものの姿形も、まあいえばお釈迦様が適当に決められたものなんですね。別にこうでなければいけませんという決まりはないんですね。

たまに僕に、なぜあなたがたは髪を剃るのですか、と聞く人がいます。大概、若者が聞くんですね。年配の人、人生の経験のある人は、そういう質問をしません。それはお坊さまだからだと、知っているふりをしているのです。でも若者は面白い。お坊さんだから、頭を剃っている。それでは納得がいかないのです。「どうしてお坊さまは髪の毛を剃るのですか」と聞かなくてはおれないのです。それで僕は正直に答えるわけです。仏教では、形を繕ったりカッコつけたりせず、正直に言っちゃうんですね。それはどういう答えかと言うと「面倒臭いから」。ただそれだけなんです。面倒臭いから、髪の毛もヒゲも剃る。それでそのうち伝統ができて、出家するものは髪を剃るようになっているのです。何が一体面倒臭いかというと、髪があればどんな髪型にすればいいのかとか、茶髪にするかどうかとか、いろいろ問題がでてくるのです。そしてパーマ屋さんに行こうと思うと、経済活動をしなければなりません。そうすると、出家は平等でなくなってしまいますね。

僕みたいにカッコ悪い人は、ますますカッコ悪くなって、人気がなくなっちゃいますし(笑)、堂々たるカッコいいお坊さんたちが派手に見えたり。そうすると一般の社会のようにいろいろなことが生まれてくるでしょう。差が、見えてきますからね。それなら皆まとめて剃ってしまえば、誰がカッコいいとか悪いとか、そういう差も消えてしまいますよね。これはとても、「簡単」なことですから、いろいろな「面倒臭い」ことを避けるために剃れというようなことなんです。

また、袈裟の色がなぜこのような茶色で、なぜどの僧侶も同じ色に染めるのかということについても、お釈迦様は同様に、一番簡単な色に決めてしまわれただけのことなのです。木の根とか、葉っぱとか、木の実なんかを煮出して染めると、こういう茶色になるのです。大体簡単につけられる色といえば茶色なのです。これを青い色にしようとすると、かなり難しいわけです。そういう色にするためには、そういう色の出る植物を探さなくてはいけないわけですからこれはまた大変なことになるのです。そこらにある木の葉とか、幹とか、なんでもいいので、切って適当にお湯に入れ、何時聞か沸騰する。そのままコトコト煮ると色が出る。ここに布を入れれば、我々の袈裟のような茶色になるのです。ですから、これは「色」ともいえないものなんですね。「汚れ」というようなものなのです。日本語の袈裟という言葉がありますが、パーリ語ではカーサーヤという言葉、サンスクリット語でカーシャーヤという言葉からきています。それは、「汚れ」というような意味なのです。いわゆるきれいな色ではなくて、何か悪くなった色というような意味です。服は古くなるとどんな色になりますか。黄色く、そして茶色くなりますよね。ですから「色」としてはこれ以上はもう汚れないのです。そんな意味で、簡単に、この色にしなさいということになって、そういう風に出家のやり方も一応いろいろと出てきたのですが、特に真剣に形而上的に、きめ細かく考えた未に決めたようなものではありません。ただ、お釈迦様のものすごい智慧で決めたことだけは確かなのです。お坊さんたちは、皆、平等なのです。衣で位を決めることはありません。あの色を着ているお坊さまは位が高くてこの色を着ているのは新米だとか、そのようなものは何もないのです。みんな、同じ色なのです。

人間は平等であって、人間の勝負は心の勝負である。心清らかな人は、どんなに貧しくても貴い人であり、心汚れている人は、どんなに美しい人であろうが王様であろうがつまらない人間であって、そんな連中には従うなとお釈迦様は伝えておられるのです。人の顔、形、家族、家柄、そんなものは関係ない、生命として皆、平等で、勝負は心にありとおっしゃっているのです。お坊さまの出家の場合はもちろんのこと皆平等であって、心清らかな人は誰もが尊敬する。もし年下のお坊さまが、心清らかにすることに成功しているならば、歳が上でも教えてもらう。何の遠慮もなく、何も恥ずかしいとも思わないで。このように、お釈迦様が決めたことの中には、大変な智慧があったことは確かなのです。だからといって、うるさい解釈などは何もないのです。

人間は、儀式、儀礼、うんちくが好き

聞いた話ですが、日本の葬式では、何かとてもきれいな大きな花を飾るそうですね。私自身は行ったことはないのです。呼ばれれば行くのですが、私は口が悪いものですから、誰も呼ぼうとしません。それは余談ですが、あるお葬式で、大きな丸いお花をものすごくカラフルに色とりどりに作ってあったそうです。それを見たある日本のお坊さんが、これはちゃんと決まった白い花で作らなければいけないのだと文句を言ったそうです。それは、お釈迦様が沙羅双樹という白い花の木の下で亡くなったのだから、それを尊重して白い花でなくてはいけないのだと言ったそうです。これはお祭りじゃないのだと。そう聞くと、日本の方々は、やっぱりそういう意味があったのかと納得するんですね。でも、仏教には、そんなややこしい意味はないのです。僕は、自分の国の葬式はよく見ていますが、ものすごく質素に、何のお飾りもなく、ただお坊さんを呼んで、火葬してそれで終わってしまうものですから、日本のお葬式は、まるで結婚式のようにはでやかな、大騒ぎのお祭りなので、私から見ると、ああ、これもカッコよくていいなあ、日本人は何でもきれいにやるんだなあ、くらいに見ていただけなのです。でも、お釈迦様が沙羅双樹の木の下で亡くなったからといって、それをまねして何の意味があるのでしょう。それよりは「これ、きれいでしょう」と言われた方が、納得できるのです。でも人間というのは宗教的な解釈が好きで、すぐに従ってしまうのです。もともとの仏教ではそんなものはなかったのです。大変「合理的」で、どうでもいいことはどうでもいい、馬鹿馬鹿しいことはするなと、言っていたのです。

ヒンドゥー教に、髪の毛を、まん中だけ残して剃る一派があります。どうして一部だけ残すのですかと、聞きたくなってしまいます。剃るなら全部剃るか、伸ばすなら全部伸ばすか、どちらかにしろよと言いたくなってしまいます。

人間はくだらないものが好きなんですね。お笑いの舞台は何ヵ月も前に前売り券を買って行くけれど、真面目な役に立つ講演会には人は集まらない。それと同じで、宗教も、インチキなものほど人が集まるんですね(笑)。ちょっとでも真面目な、必要な話をしてしまったら、イヤな坊主だと言って、逃げてしまう。そこで、一般人の人気を得るために、いろいろなものを仏教にアクセサリーとして、つけてきたんですね。衣を色分けしたり、金糸で模様を入れてみたり、いろいろなしきたりがいっぱい生まれ、たとえば葬式に行ったら数珠を左手で持つか右手で持つかまで決まっていて、各宗派の数珠の形まで決まっているのです。焼香は何回どのようにやるかとか、ものすごくしきたりがあるのです。教会の結婚式でもそうでしょう。歩きかたまで、前もって練習するわけでしょう。十字架というのは死刑台でしょう。死刑台の前で結婚の約束をするわけですから、僕からすれば歩き方はまあどうでもいいのです。でも人間というのは、そういった決まりが好きなんですね。

結婚というのは、男性と女性が、互いを好きになって、じゃあ一緒にがんばろうということなのですから、二人で決めれば十分じゃないかと思いますよ。なぜ神様や人の前で約束するのでしょう。自分を、お互いを信頼できないからではないでしょうか。ですからみんなの反対を押し切って駆け落ちする場合などは成功することが多いのです。(以下次号)