根本仏教講義
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9.心の法則
(2)心とは具体的な働き
A・スマナサーラ長老

 先月は、人が、儀式や儀礼、うんちくが好きだというお話をしていました。結婚することひとつとっても、神の前、人の前で大変な約束をして夫婦になる。それはお互いが信用できないせいかも知れないとお話しました。逆に結婚式もせず、みんなの反対を押し切って、勘当されても駆け落ちして一緒になったような場合には長続きする場合が多いのだとお話しました。2人で元気いっぱいに生きていってしまうんですね。統計的に見てもそうですね。合理的な話をするなら、2人が互いに気に入って、一緒に生きたいと思うのなら、まわりにかまわず2人で勝手にがんばればいいのです。そうすればまたがんばる気持ちも出てきます。しかし現実は、2人の気持ちより儀礼やしきたりに包まれて、まわりのパワーの方が大きい。両家から大きな祝福をもらって、大きな結婚式をやってしまうと、あっけなく壊れてしまったりする。2人が努力しないんですね。

■お釈迦様がやるなと言われたこと■
 人間の社会というのは、いろいろとしきたりを作りたがるのです。意味があってもなくても何かのしきたりに、規則に、決まりに束縛されたいのです。しきたり、儀式、祭りなどが多ければ多いほど宗教にも惹かれるのです。人はこころの悩み、苦しみをなくして欲しいと思って活動を始めた仏教にも、そういうしきたりがどんどん入ってきました。「皆と仲良く、寛容的」と言う仏教の立場も大きな原因でした。又、大勢の人に仏教を知ってもらいたいと思うと、一般の人が好きなような飾りをつけなければなりません。それでそういうものをどんどんつけていったのです。大乗仏教でお世話になっている仏教徒の仲間たちが教えよりもそのしきたり、儀式、祭りなどを優先しているのではないかと思いたくなったりもします。

 御利益はあるし、祈祷はあるし、呪文や真言はあるし、儀式儀礼はたくさんあるし、いろいろと人が好むものがたくさんある。それらすべては、お釈迦様が「やるな」「そんな非科学的なことはもう捨てろ」とおっしゃったことなのです。でもお釈迦様が、やるな、やるな、と言われたことは全部見事に仏教の世界で揃ってしまいました。「もとの教えから脱線しているのでは?」という意見がでると、「我々は進歩的で保守的ではない大乗仏教だというネームプレートを立ててしまうのです。立派な名前をつければ、みんな、中身もいいと思ってしまいます。祭りに人生を委託したがる人々には名前は優れたカムフラージュになります。例えば「解脱供養」のようなことばも聞いたことがあります。気をつけてください。世の中では名前が大胆で立派な場合は中身がないことが多いのです。理性に頼らない社会ではネームプレートだけでも勝負できるみたいですね。また一つの例ですが「オウム真理教」という名前がありましたね。オウムといえばヒンドゥ教の大事な言葉です。大宇宙の創造を現す大事なマントラですがこの名で知られていた組織はインドの平和なヒンドゥ教ではなかったのです。このように、すごくいい名前をつけてカムフラージュすると危ない。

 釈迦尊は、儀式、儀礼、祭り、しきたりなどは宗教だと思っていた社会で、そういうものに迷信的に依存する人々を解放してあげるために、科学的にものごとについて語られたのです。皆様がたよくご存知の「科学」の世界がありますね。この科学というのは論理的に成り立っていて、それで人間にとっていい結果を出している。科学は物質との戦いです。仏教は科学的ですが科学とは違います。身体を支配している、また物質も支配しようとしているこころについて語るのです。心の動きについても、きちんとした論理的な法則があって、その法則に基づいて働きかければ、確実に望む結果が現れるということなのです。

宗教と言えば儀式、儀礼、しきたり、祭り、占い、祈祷、あの世のもの、神秘、超能力、霊-神などとの関わり、死後の幸福、安定を築くビジネスなどだと昔から今まで固く信じて来た人間にとっては、お釈迦さまの教えは異質として感じる可能性もあります。お釈迦様は、その時代にも大胆な宗教の革命者でした。それまであった迷信や非論理的なものを全部置いておいて、違う道を教えたのです。ですから最初はなかなか納得してもらえなかったわけです。固定概念というゴミで頭がいっぱいの状態でお釈迦様の話を聞くと、こころの中で激しい葛藤が現れる可能性もあります。または何一つも耳に入らないかもしれません。それは現代人にとって状態は変わらないと思います。ですから、お釈迦様の話を聞こうとするならば、心を元気に、何でも聞いてやるぞという気持ちで、また固定概念を一旦捨てて、はじめて全く新しい何かを聞くような気持ちで聞いた方が理解しやすいのです。他のものと混ぜないでまず一旦理解します。それから他の教えと混ぜるなり、比較するなり、あるいは批判するなり、何でもかまいません。てんぷらにするか刺身にするかは自由ですが先ずどのような材料かと理解しておかないと良くないのです。

■心とは霊魂や魂のことではない■
 このお話のテーマは「心の育て方」というようなことだと思います。話を始める前に、心とは何かということなのですが、これは誤解を生みやすい言葉だと思います。しかし、他の言葉はないし、使わざるを得ないので使っているのです。心というのは、人間の霊魂でも魂でもありません。しかし人間の文化が始まったときから霊魂や魂はあるといわれていて、人間は何となく信じているわけです。そういうものが本当にあるのかどうかと探しもしないのです。どんな研究をしても見つからないものは何かといえば、この魂なんです。どんな研究をしてもどんな修行をしても見つからないのは魂なのに宗教界では「見つからないそのものは魂ですよ」と堂々と結論を決定するのです。私は決して論理的な答えではないと思いますが。「魂があればいいなぁ」という人間の感情か「確実にある」と思ってきた固定概念の結果かでしょう。

 仏教では、どう頑張っても見つからないものは、否定肯定出来ないので一応置いておこうというのです。見つからないものについてがんばりなさいとか信じなさいとか言うならば、そこから論理は崩れてしまうのですね。論理的で具体的でない、妄想、感情などに基づいた思考、話などは仏教の中にはないのです。育つなり壊すなり、どっちにしても何かつかめるものでなければ話しにならないのです。分かりやすい例で言えば、生まれてもいない子供の結婚式の相談をしても仕方がないということと同じなのですね。生まれてもいないのですから、どうしようもないのです。実際につかめるものでなければ、釈迦尊の話のテーマにはならないのです。

 では心とは何かということですが、それは具体的に理解できるものでしょうか。簡単に考えると、心というのは、身体という物体とくらべて考えればより分かりやすくなります。身体というのは、この地球から借りたただの物質のかたまりなのです。とはいえ、その辺にある岩とか、池とか、道路などとくらべるとどこかで違うのですね。この岩と、自分の身体をくらべると、どちらも地球の一部だから同じだけれど、どこか違うところもあるのではないかと気が付くはずです。その違うところは「心」と見ましょう、「心」という言葉で一応確認しておきましょう。

 では何が違うのか探してみます。たとえば私はしゃべっている。岩はしゃべっていない。それで喋るということは「心」の働きとします。ではスピーカーも喋っているのですか。そうではありません。スピーカーは音というエネルギーを作っているだけで、決まった振動を送りだしているだけです。一方的で相互的ではないのです。反応はしません。「こんにちわ」といっても反応はありません。私は話をしていますが、皆さんがつまらないと言って出て行ったら、話す相手がいないのですから話をやめる。そのような動きをするのが「心」なのです。

 また、この部屋は涼しいとか暑いとか、私達は感じます。岩は感じません。暑さ寒さを感じるのも、心の働きのひとつなのです。ものを見る。それから面白いと思う、つまらないと思う、楽しいと思う。いろいろなことを感じます。岩を棒切れでたたけば、岩は割れるかも知れませんが、それ以上の反応はありません。しかし、人の身体が殴られたら、反応はまた違うのです。痛いと思ったり、あるいは気持ちいいと思ったり、また、何をするのだと怒ったり、いろいろな感情的な反応をするわけです。このように、物体と違うところ、それが心なのです。心は隠れているものではありません。ものすごく巨大な動きです。それが、この身体の中にあるのです。人と喋ったり、喋る相手がなければ頭の中でいろいろなことを考えたり、またいろいろなものを作ったり、さらに、自然を破壊したり、自然を破壊しながら自然を守っているのだと嘘をついたり、それらすべては「心」の働きです。(余談ですが、本当に自然を守っているのは自然そのものなのです。しかし自然はぜんぜん自慢しませんしね。植物も、石も山も雲も、川も海もちゃんと自然の循環を守っているのですが、海が自慢するのを、一度も聞いたことがありません。「私がいなければ地球はもうダメですよとは誰も言いません。」でも、人間だけは自然を守っていると自慢するのです。)自慢もこころです。また、動物も、生きるためにいくらかは自然破壊します。ですから、動物にも心はあるのです。動物も反応します。泣いたり、痛がったり、嫉妬したり、喧嘩したり、また子供を作ったりするすべての生き物は、人間と同じように「心」を持っているのです。

 違う言葉で言い換えると、心というのは生きているということでもあります。食事を摂る。身体が成長する、病気になる、治る、老いる、話す、考える、見る、聞く、味わう、嗅ぐ、感じる等が生きるという機能です。感情を作り出す、子孫を作る、育てる、戦う、競争する、死を恐れる、確実に死ぬなどの働きが「岩」とくらべると具体的に理解することが出来ます。多かれ少なかれ全ての生命にこれらの機能の幾つかでもあります。これらの複雑な、また互い違いの働きのすべてを一つの言葉に総合して「こころ」といっているのです。仏教は「そのこころ」生きていることの成長、完成を語っているのです。何かとはっきりしない何か隠れた魂、見えない心、仏心、如来蔵などを育てようとかというような話ではないのです。そういう宗教的な、神秘的な、形而上学的な話ではなくて、生きているということ、しゃべったり話したり他人といろいろなことをしたり、行動したりする、我々のこの生き方を育てる、完成する方法についての話なのです。

■身体は心の道具■
 ではこの身体は何なのかというと、ただの道具なのです。誰の道具かというと心の道具なのです。私は、のどを使って、肺を使ってしゃべっていますが、この音を作るシステムはただの道具なのです。目を使って見ていますが、目はただの道具なのです。皮膚を通じて外の世界を感じていますが、それもただの道具です。痛いとか冷たいとか、熱いとか、感じますが、この道具が故障してしまうと、それがわからなくなってしまいます。

 お医者さまが麻酔をうつと、身体は情報を受け取らなくなってしまいます。ですから身体の一部を切り取ってしまっても感じないのです。この場合、身体(道具)は故障しているわけですね。目は道具で、見るのは心、耳は道具で、聞くのは心。脳細胞も道具で、脳細胞を使っていろいろなことを考えたり作ったりするのが心。ですから身体は道具であって、この道具を使っているのが心なのです。

 ヨーロッパの思想は、主にこの道具が中心です。つまり身体やその機能的な部分が大事なのであって、心、つまり感情や感覚的な部分はあまり取り上げない。ですからヨーロッパの医学というのは機械的に身体をいじることしかできません。医学は大変発展しているようですが、身体を治すことは医学ではできないのです。けがをして医者に行くと、針かなんかで縫ってくれるかも知れません。また殺菌して包帯してくれるかも知れません。しかしそれだけです。そこから「治す」のは自分なのです。癌といえば、医者は平気でその細胞を切って捨ててしまいます。治せないのです。人の方は、胃を半分とっても、何とかして生きようと、自分でがんばって治すのです。そのような場面を見ればわかるように一番重要な医者というのは自分の心なのです。お医者さまではないのです。ある意味では、お医者さまが居れば居るほど人は病気を治す力を失います。医学が発展すればするほど、人間が自分で病気を治そうという気持ちがなくなって、堕落してしまうのです。ですからちょっとしたことで病気になるのです。ちょっとした病気で病院に行って、院内感染や、薬の使い過ぎで、別の病気がついてくることも少なくありません。発展が過ぎると、心の方が怠け始めるのです。(以下次号)
(スマナサーラ師講義より構成しました)

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