根本仏教講義
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9.心の法則
(3)からだという道具を運転する心
A・スマナサーラ長老

 先々月、先月と、「心の法則」についてお話をしていました。からだという道具を使って、心は動いているのだということをお話ししました。ですから、病気になって、いくら良いお医者さまにかかって癌細胞を切り取ってもらっても、そこから先、治す力は自分の心にあるのだという話でしたね。逆に、医学が発達すればするほど、人は病気を治す力を失い、ちょっとしたことで病気にかかるようになるのです。

■道具の手入ればかりする人間■
 お医者さまもいない田舎では、病気にも十分気をつけますよね。救急車も呼べないわけですから、自分で何とかがんばるのです。また。山に登って遭難した場合も見つけられるまで、何とか自分の力でがんばるんですね。ものすごい雪の中でも、頭もクリアに働いて、何とか生きようと努力し、険しい山道を歩いて降りてきたりする。ところがそこで、誰かに出会ったら、その途端に力がなくなってしまうんですね。歩けないし、しゃべれないし、担架で運ばなくてはならないことになるんですね。点滴しなければならないし、注射しなければならないし…。
人に出会った瞬間に心は怠けてしまうのです。そういう人がもしかすると、見つけられずに山の中にいると、1カ月、もしかすると3カ月でもがんばっていたりするのです。もちろん雪崩や、いろいろな気候条件で命を落としてしまうことはあるとしても、そうでなければ、なんとか少しのものでも口に入れて、1日でも2日でもと、命をつないで行くんですね。

 これらは一例ですが、そういうことで、結局からだは道具であって、その道具の持ち主、支配者が心であると覚えておいてください。仏教の教えというのは、この支配者を育てる具体的な方法であるということです。お医者さまの話は、道具をいじる話で、どこに油をさすか、どんなネジを巻くか、そういった「道具」の話であって、それを使う人のことは教えてくれません。いくら車がちゃんと修理され整備されて、きちんと磨いてワックスまでかけてあっても、運転が下手だったらなんの意味もありませんよね。逆に運転が大変上手な人は、車が多少機能しなくても、十分運転できるのです。

 運転のできない人が、高価な車を買って毎日手入れしている、そのようなものに我々はなりかかっていないでしょうか。健康食品を食べたり、エアロビクスをしたり、毎月お医者さまのところへいって身体を診てもらったり…。私はこの15年間、診てもらったことがありません。
私は別に元気というわけでもありませんし、皆さんと同じに病気にもなりますし、それでも薬は飲まないで治してきました。身体の方が勝手に病気になったわけだから自分で治せよと、私は何もしませんという態度でいると、向う(身体)が、まあしょうがないなあ、自分で治しましょうと、自分で治してしまうんですね。

 機械のことは知っていた方がいいには決まっていますが、その方が、安全でより信頼できますけれど、仮に車のことを何も知らなくても、運転が上手であればそれで安全なんです。車のことを全部知っているけれど、運転はまったくできないという場合は、もう、命がないわけです。ギアについて3時間でも講義ができる、エンジンについて、あるいは電気系統について大学で講義できるくらい知識があっても、エンジンをかけてアクセルを踏んで、ハンドルを回して動かすことができないなら、何もできないのです。

 そのように、必要なのはこの身体という「道具」の「運転」なんですね。それにプラスアルファで身体のしくみを知っていればよりいいわけですが、人間は、このプラスアルファの部分だけをやっていたりするのです。そこで、ここでは、そのプラスアルファはちょっとおいておいて、からだの支配者である心のことを勉強しようということなのです。

■心と輪廻の話■
 心というのは、すごく偉いのです。からだという「機械」が壊れたらどうしますか。皆さんが乗っている車は、5〜6年経って調子が悪くなってきたら、どうしますか。廃車にするか買い換えるか、どちらかですよね。老化現象というのは、絶対的なもので、止めることはできません。ですが、からだが死んでしまっても、心は他の形をとって、別のところで、他の道具を使って、また、やり始めるのです。また、新たに見たり聞いたり感じたりを始めます。道具によって見るものや聞くものは変わるのです。

仏教では、そのように輪廻の話がでてきますが、それもなかなか、今の我々の知識では理解できませんが、もっともっと深く、仏教を勉強していくと、この輪廻という話も、きちんと論理的で、非常に科学的な話であることがわかるのです。つまり、人間が死んでも、また何か別の形で再び現れるのだということ、しかし、それは魂でも霊魂でもなんでもないのだと、そういうことがわかってくるのです。輪廻転生というのは、人間が死んだら、また人間となって生まれ変わりますとか、どこかで成仏しますとか、そういう単純な話ではないのです。輪廻転生はすべて「生命」の話です。エネルギーの話であって、エネルギーは消えないという話なのです。からだというのはただの物体ですが、心という働きが、ものすごい力を持っているのです。それが、エネルギーです。エネルギーは消えないですから、違う形をとって発現するのです。違う形をとって違うからだという、機械を作ったとすると、そのからだに、「目」がなければ見えることはない。「耳」がなければ聞こえることはないわけです。古いからだが死んでエネルギーの行く先の世界に、目や耳がなければ、認識世界はこれまでの世界とまったく違うこともあるのです。

たとえば、「目」で見なくてはならないと思っているのは人間だからなんですね。コウモリもフクロウも、目で見るのではなく、耳で見ます。テレビで見たのですが、フクロウが枝に止まっているのですが、フクロウの後ろにいる小さなネズミが、枯れ葉の中でちょっと動いたんですね。すると、フクロウはさっと飛んできて捕まえてしまったのです。音で見ているわけですね。距離も大きさも、全部見ているのです。動いたからといって、飛んでいってみたらイノシシだったりしたら大変でしょう?そんな風に目で見ようとするのは、人間ならではの特性なんですね。外のエネルギーをどんな形で認識するかは、存在の次元によってまったく違うのです。次元というのは、我々が今、知っている生命体に限りません。このような話は大変複雑で、今日のメインテーマではありません。ちょっと刺激のために、ほんの少し触れてみただけです。

■我々の認識次元は世界のごく一部■
 認識次元の話を、もう少しだけしておきますが、たとえば、今日は静かだな、このあたりは静かだなと思っていますよね。ですがもし、皆さんが電波を音として認識できたなら、どうでしょうか。この静かに見える空間の中に、数えきれないほどの電波が24時間絶え間なく流れているわけですからそれが音として聞こえてくるわけです。それはすごい状態でしょうね。もう死んじゃいますよね。また、もし電波が見えたらどうでしょう。電波は多次元的に拡がるものですから、誰かが携帯電話をかけようとする度に電波が走って、我々は一歩も歩けなくなってしまうかも知れません。

 犬の世界は、今度は、耳や鼻がものすごく発達した認識世界です。言葉は「匂い語」になってしまいます。私たちは、あの人は背が高いとか、背の低いのは山田さんとか、目から入る情報を言葉にして認識していますが、犬には背が高いも低いも、山田さんも田中さんもどうでもいいわけです。こんな匂い、あんな匂い、と匂いで区別しているのです。ですから、犬同士でしゃべると、なんとか匂いさん、かんとか匂いさん、と言わなければなりません。人間が感じる匂いの幅はとても狭くて、そのための言葉もありません。犬の匂いの世界は、人間には想像もできないのです。また、牛は味が強烈によくわかる。

そのように考えていくと、一体、誰の認識世界が偉いのでしょう。非常に弱い人間の認識世界、感覚の鋭い動物の認識世界。とにかくいろいろな世界があるということですから、我々の認識世界も動物の認識世界も、大して気にするほどのものではありません。人間には、作ってきた哲学がある、歴史があると言われるかも知れませんが、ただ、人間の脳細胞が余計に働いて余計なことをしているだけで、たいしたことはないのです。歴史も事実でないものがほとんどですよね。大体は、この世に現れた一番恐ろしい人々のことを書いてあるだけなのです。いわば支配者の歴史です。ある一部の人間のことだけを歴史と呼んでいるわけですから、まったく意味がないのではないかと私は思います。勉強する必要もないのではないかと。また犬や猫は、哲学も、芸術も、作りませんが、だからといって人間が偉いわけではなくて、人間というのはただ楽しみがないからわざわざ道具を作って楽しもうとしているだけなんです。地震の研究にしても医学の研究にしても、大切なことではありますが、ある意味ではなくてもよいものなのです。

 覚えておきたいことは、私たちの知っているのは、世の中のあらゆる存在の、ごく一部だけだということです。それを気にしすぎる必要もない変わりに、私たちの知っている世界がすべてだ、この世界こそ正しいと思うのはおかしいということくらいは覚えておいてください。

■心はどこにある■
 話をもとに戻しますが、この我々の次元で、見たり聞いたり考えたり、味わったり感じたりすること、また呼吸したりご飯を食べたり消化したり、そして喧嘩したり嫉妬したり人を愛したりまた憎むことも、すべて「心」の働きなんですね。その心を育てれば、すべてがうまく行くのです。なぜならば、すべては心がやっていることですから。

 もうひとつ、心はどこにあるかという問題ですが、これは少しややこしい話なんです。では別の質問をしましょう。人間は生きていますよね。一体からだのどのあたりで生きているというのでしょうか。その質問がおかしな質問であるように、「心」がどのあたりにあるかというのも答えのない質問なのです。心というのはただの「働き」であって、場所を捜そうと思うと非合理的な話になってしまうものなのです。

宗教では心に場所を作ります。ヒンドゥー教では心臓の中に魂があるといいます。ヨーガでは尾てい骨のところにある。そして瞑想しているとそれがどんどん上へ上がっていって、頭の真ん中から出て行ったら、それが解脱だ、凡我一如だといっています。ヨーガ瞑想をなさっている方々は、そのような思考に基づいてがんばっているのです。ヨーガ瞑想でも、からだのどこかに意識を集中させると、そのへんはどんどん見えてくるのです。そして心は、その集中した場所にとどまっていると解釈をつけてしまうのです。試しに皆さん、ボールペンでも持って1時間ぐらいじーつと見てみてください。ボールペンからもあらゆるものが見えてきますよ。
(以下次号)

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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