根本仏教講義
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14.因縁の話
(4)人間は自由か囚人か
A・スマナサーラ長老

 先月は、サーリプッタ尊者が教えられた、怒りをおさめる方法についてお話ししました。

 私たちは「怒り」に限らず、いろいろな自分自身の感情によって、自分の自由をなくしています。自分で自分の自由を破壊しているのです。

■「怒り」は強い束縛となる■
 たとえば「怒り」というのも、ひとつの「束縛」なのです。強い強い鎖のような束縛なんですね。もし私がどなたかに対して「怒り」を感じたら、あるいは恨みを持ったら、その感情を持つ限り、その人に「束縛されている」わけです。いつもその人が気になるのです。もし自分が気に入らない人、恨みを持っている人が5人も10人もいるところに行かなければならないとすると、本当に苦しくて仕方がないはずです。

 悲しいことは、もし自分がいつも誰かに怒っているとすると、必ずその人と一緒にいなければならないということです。つまり、怒りというのは「接する」チャンスがあるから起こるものであって、まったく会わない、まったく目にすることもない相手に怒りを持ち続けるなどということはあり得ないのです。

 ですから、実際のところ、私たちが「怒り」「嫌いだという感情」「いやな感じ」を持っているのは、自分に近い、自分のまわりの人に対してなのです。自分といっしょに生活している、また自分の仕事場、あるいは社会的な場で、常にいっしょにいるような人々に対してなんですね。そうすると、自分の人生は、本当に苦しくてしょうがないのです。自分のまわりにいる人々を自分が気に入らない場合は、強い鎖で自分を縛っているようなものです。束縛されている、つまり自由がないのです。人と話したいけれど、思う存分言いたいことが言えない。自由に動きたいけれど動けない。このように、怒りというのは束縛なのです。

 怒りだけではありません。たとえば「欲」も同じように束縛です。何か「もの」に欲を感じたら、あるいは誰か「ひと」に対して強烈な欲が生まれたら、自分が束縛されるんですね。

■「欲」も人間を束縛する■
 具体的な例を申し上げますと、たとえば自分のだんな様の場合。自分のだんな様が大変好きで、束縛されている。好きならば、だんな様と離れられないのです。ときどきでも自分で自由に遊びに行きたいとか、旅をして新しいもの、知らないことにであって、自分も人間として生きていきたいと思っても、もしだんな様に対して強烈な欲があって束縛されている場合には、やっぱりできなくなってしまうんですね。子供も同様です。子供が小さいからできないとかなんとか言って自分の自由をなくしてしまっている。それは仕方がない面もあるのですけれど。

 私がそういうことを言うと、子供を捨てなさい、だんな様を捨てなさい、と言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて事実を申し上げているのです。

 だんな様が好きだとか、だんな様に欲を持っている場合は、だんな様に束縛される。すると自分の自由がなくなる。子供の面倒を見なければならない、自分は子供を愛しているから、と思えば、自分の自由はなくなります。もし洋服がとても好きな人ならば、常に考え方がそのようになっていて、いろいろな新しいデザインを探したり、新しいお店を探したり、今流行っているものは何かと考えたり、他の人の着ている洋服と比べて喜んだりねたんだり、着ているものに束縛されて生きていると、やはり苦しくなるのです。単なる洋服でもそうなのです。音楽が好きで音楽に夢中になったら、音楽にきちんと束縛されているんですね。一般の人にとっては喜ばしい音楽でも、そのこだわりの人はちっとも幸せを感じられないかもしれません。あとはみなさま、ご自分で考えていただければわかりますよね。

 このように怒りだけではなく、「欲」を持っても人間は束縛され、自由というものがなくなる。さらに「無知」からも束縛されます。いつもどうしていいかわからない人、無知の中で生きている人は、あっちこっちで束縛されて自由にならないのです。いわゆる「智慧」がない場合ですね。  

■「無知」による束縛■
 無知といっても、いろいろな無知がありますね。たとえば私が病気になり、病気を治す方法を知らない。それは無知であり、お医者様のところへ行き、お医者様が智慧がある人だと信じて言うことをなんでもその通りにやってしまうのです。お医者様が病気を治す方法を知っている場合は問題がありませんし、治していただけるのですが、お医者様が知らない場合は大変なことになります。

 「無知の束縛」というのはそんなものなんですね。病気を治す方法について自分が無知だから、お医者様の言いなりにならなくてはならない。そのような方法しかないのです。ほかの無知の場合も同じなのです。たとえば子供がまだ小さいとき、知らないことが多いのですから、教えている先生の思うがままになってしまうのです。しかし患者が医者に束縛されたり、子供が先生に束縛されることは、基本的にはかまわないのです。なぜならお医者様や先生は解決方法を知っているからです。

 たとえば、私の国の人、あるいは私自身も、東京に来て間もないころは、道がわからない。何もわからなくて、電車の切符が買えない。字が読めないし、人にも聞けない。どこへも行けなくて、自分の住んでいるところからなかなか外へでられない。私や友達は、実際にそのようなことを体験してきたわけです。

 友達が国から到着して、どこかのホテルの部屋に入れてあげると、そこから出ることができなくなって、誰かが迎えに行って連れ出してあげないと、どこへも行けなくて、大変な束縛になってしまうのです。私自身も初めて日本に来たときは、大阪に着き、どこへも出ることができなくて、1ヶ月くらいは大変だったのです。ですから、無知、無明、物事がわからないということは、一番強烈な束縛なんですね。

 仏教では、単に道がわからないとか言葉がわからないとか、そういうことは気にしません。問題は、万物のありようがわからないことなのです。

 私たちが、本当は、万物のあり方も生命のあり方も、自分自身のことも、まわりの世界のこともよくわかっていないとすると、知らない国を訪れた外国人同様、それは強烈な束縛なのです。

 科学者もがんばってはいますが、科学者の考え方は実存的ではありませんので、生きるためには役にたたないのです。いわゆる「もの」「武器」を使って、生きる方法を考えているわけですから。  そして、束縛されているとということは、束縛されているものの思いのままなのです。だからそれは大変なことなのです。

 たとえば日本の社会を見ても、いろいろな社会問題とか、また個人的な悩みを抱える人々が、ある種の宗教にとらわれて、大変悲しいことになったんですね。

 人々が無知だから、あるいはさまざまな苦しみから逃れたくて、あるいは欲に束縛されて、どうしようもないと感じた途端、おかしな宗教にとらわれる。獲物のようなものです。  

■束縛の多い人間は「餌食」になる■
 お釈迦さまは「獲物」だとおっしゃっているのです。足かせ、束縛の多い人間は、魔神、死神、悪魔の「獲物」になってしまうのだと。動物が狩人の「罠」にかかる。罠にかかってしまえば、狩人の思うがままなんですね。やりたい放題にされてしまうし、殺されて食べられてしまったりもする。

 私たちの心は今、強烈に束縛されています。まず「欲」で束縛されています。自分の身体に対する欲もその一つです。自分の身体が大切で大切で、それで自由に生きていられない。2番目はだいたい、自分のまわりの人やもの。子供とかだんな様とか、父親とか母親とか、あるいは自分の家、住んでいる国、そういうものが好きで、離れられなくて、その欲に束縛されている。

 それから怒りにも束縛されている。いろいろなものに対して怒っていて、そのことによって自由がなくなる。さらに大きな束縛が「無知」。無知から生まれる怒りも束縛となります。

 病気を知らないとき、解決方法を知っているお医者様に束縛されることはかまわないと先程述べましたが、「人生」を知らない場合はどうなるでしょう。万物、生命のあり方、自分自身を知らない。その場合はその「無知」に強烈に束縛されてしまいます。現代の社会を見ていると、人々がいかに苦しんでいるかがわかると思いますが、これらは「無知から生まれた束縛」によって出てきたものなんですね。そういうふうに私たちは自由じゃない。自由ではないのだということを、よく理解して欲しいのです。

 お釈迦さまは、因縁の考え方をもって、その束縛から人が自由になる方法をおっしゃっているのです。以前に申し上げたように、音(人の声、悪口)によって怒りが現れた場合、怒りの原因となった「音」は一時のものであり、つまり「無常」ですよね。それなのに結果が無常でない。原因が消滅しても結果が消滅していかなかった場合、つまり無知によって「怒り」は増幅していきます。今度は「怒り」を原因にして「怒り」が生まれ、結果となった「怒り」をまた原因にして「怒り」を作るという悪循環を作り出すのです。そのことを理解して、怒りをおさめていくべきです。

 すべての万物は無常である。その無常であり、消滅していく万物、一瞬のものでしかない万物が、自分の束縛の原因となっていることに気付き、この束縛も、永久のものではない、不滅のものではないと知って、鎖のように強い束縛を破ってしまいなさいという教えが「因縁」の教えなのです。  来月は具体例を挙げながら、もう少し詳しく、このお話しをしましょう。 (この項続く)
(スマナサーラ師講義より構成しました)

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