根本仏教講義
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15.もうひとつの生き方 II
(2)『曖昧』から『明晰』へ
A・スマナサーラ長老

 先月は、「何のために生きるのか」という人類の大命題について考え始めたところでした。「何のために生きるのか」ということに対する答えのなかで、「人生の目的は楽しむこと」と答えた場合の問題点について、お話していました。その場合、欲を追い求める泥沼に陥り、楽しみからはほど遠いおびえのなかで生きることになる人、逆にそのような状態を否定して、神秘や迷信の宗教世界にはまりこんで、やはり苦しみのなかに人生を終える人もあるということを話しましたね。

■人間のこころは明確でない■
 どちらの道を選んでも、当初の目的であった『楽しみ』からはほど遠い人生を歩むことになってしまうのです。いくらご飯を食べても満足できないでいる人と、それなら断食しますと言う人。どうせ、いくら音楽を聴いても聴き足りないのだからと、すべての音楽を遮断してしまおうとする人。いずれも解決にはなりません。我々は、何か別の道を見つけなければならないということなんですね。では我々はいったい、どういう道を見つけることができるのかということについて、考えてみましょう。

 まず、人間というのはこころが明確じゃない、ものごとを厳密に考えることをしないものだということを認識しておく必要がありますね。いくら知識があるとか科学が発展しているとかいっても、そこらへんを走り回っている悪ガキと変わらないのではないかと思います。

 たとえば、現在、人類すべてがたったひとりの人間に支配されていますね。ビル・ゲイツというひとりの人に。しかし結局彼がやっていることを見ると、我々と何の違いもないんですね。他社をつぶしたり、他人のものを奪ったり、あれほど収入があるのに、さらに事業を拡大して「もっとしっかり儲けなくちゃならない」と、そればかりに邁進しているわけですから、あちこちで裁判沙汰になっているのも当然なんですね。ひとりの人、ひとつの会社に世界が支配されるということは、あまりよいことではありません。なぜよいことではないかというと、人間というのは信頼できないものですから、ちょっと危険なんですね。

 人間に不足しているのは『明晰さ』であり、その明晰さを妨げているのは『感情』です。人間は感情で生きています。仏教では、感情で生きることは無意味ですと教えています。感情には論理がなく、同じところをぐるぐる巡るだけで進歩がない。たとえば、好きか嫌いかということには論理はなく、科学性や客観性はないのです。

 別の言葉で言うと『エモーション』でしょうか。エモーションでいろいろなものを発見したり発明したりすることはできないと思います。そこには進歩も発展もありません。我々がよく話題にする貪瞋痴の生き方、つまり貪りと怒りと無知の生き方、それは人間が感情に操られる生き方なんですね。

 たとえば三角形の3つの角の角度を足せば180°になる、ということは論理的、科学的にきちんと説明できますね。しかしバラの花が好きな人がいたとして、「あなたはなぜバラの花が好きなのか、論理的に説明しなさい」と訊かれても説明できないですね。怒りも同じことで、なぜ怒るのですかと訊いても、答えられるだけの客観的論理的理由は、そこにはないのです。このような貪瞋痴の感情自体、我々が考え直さなければならない大問題なのですが、人類はまったくといってよいほどそれを考えていません。これが、人類が苦しんでいるあらゆる問題の原因です。自信がない、落ち込みやすい、悲観的である、あるいは鬱である、ストレスがたまっている…あれやこれやといろいろなことを言うわけです。いろいろなことで心配ばかりして、悩みばかりで、問題が多いから、からだの健康もどんどん崩れていって、どうすればよいのでしょうと相談に来られるのですね。

■ストレスは氷山の一角■
 ストレスがたまっているから何とかしてくれませんか、と言われれば、氷山の一角となって現れたストレスを消すことは簡単です。ですが、それはあくまでも氷山の一角なのであって、すべての問題は水面下に残っているわけです。ですから船は進めません。ちょっとした小さな氷の固まりでも見つけたら細心の注意を払って気をつけた方がいいのに、それだけを消そうとする人が多いんですね。ですから、その小さな氷の固まりを消しても問題はそのままであって、船が通ることはできないのです。

 たとえば落ち込んでいる人は、落ち込まないように何とかならないものかと相談に来られるし、悲観的に考えがちだという人は、その悲観的な思考が何とか治る方法はないものかと言って、その氷山の頂上の部分だけ削ってほしがるのです。

■『正直』は素晴らしいものではない■
 とにかく、感情の世界にとらわれない方がよいのです。私が『感情の世界』というときには、非合理的な根拠のない生き方を意味しています。たとえば「ただ何となく生きている」「みんなやっているからそうするのだ」「皆が青い服を着ているから、私も青い服を着る」「会社の同僚が嫌いだ。合わない。理由はともかく一緒に仕事したくないんだ」…そのような曖昧な生き方です。

 正直に、素直に…という言葉もくせものなんです。正直に生きていられればいい、などといくら言葉で言ってみても、それは単なる『言葉』でしかないはずです。また逆に、ほんとうに人間が正直に生きることほど、危険なこともないのです。人間の『正直』というのは、貪瞋痴の感情で生きていることにほかなりません。

 あなたのことが嫌いだから、顔も見たくない。あなたのことが好きだから一緒にいましょう。…そういう生き方になりかねないでしょう。結婚していても、妻とは別の女性を見て「この女性もかわいい」と感じたからといって、家に連れてくる。奥さんが怒れば、「私は自分の気持ちに正直に生きているだけなのだ」と言うかもしれません。

 この話は極端だとおっしゃるかもしれませんが、物事を考えるときに、問題を極端にして考えてみる、というのは方法論のひとつなのです。そうすると見えてくるものがあります。科学的な方法なんですね。皆さんが私の話を聞いて、それは言い過ぎでしょうとか、あり得ないことだろうとか思われることもあるかもしれませんが、それはわざと言っていることなんです。問題を極端なほど大きくして考えると、真実が見えてくる。この方法論からもわかるように『正直』という言葉に惑わされてはいけません。『正直』と言われただけで、それは素晴らしいと思ってしまいますが、本当はとんでもないことなのです。

 世の中のさまざまな『正直』を見ていただければよくわかります。泥棒だって正直な生き方でしょう。殺戮者も正直な生き方でしょう。やりたいからやっているのだと。イギリスのどこかで、大きな屋敷に住んでいた人が、何十人も人を殺した事件がありましたね。ただ単に、つかまえては殺す。子供や女性をつかまえては殺す。何とか話しかけて、どこかへ連れていっては殺す。殺しては、彼の大きな屋敷の中に埋めておくわけです。それだけの殺人を犯しても捕まらないので、「どうだい、私の生き方は。どんなもんだい」といった勢いです。最後に捕まって裁判になったときには「できればもっと殺したいものです」と言うんですね。彼は自分の「殺したい」という気持ちに正直に従ってきたまでなんですね。

 ですから、無責任に、ぼんやりと鈍いこころで「正直に生きることはいいことだ」などと言ってはいけません。それは仏教の基本です。何を言うにも無条件にしゃべってはいけないのです。慎重に、気をつけて話さなければなりません。そうでなければ人間に新しい道は発見できません。

■決まり文句は無意味■
 たとえば「がんばりましょう」というのもまったく無意味な言葉ですね。仏教では「しっかりしましょう」と言います。「がんばることは悪いことです」とは言いにくいのですけれど、「何を」「何のために」「どこまで」がんばるのか、というところまで明確にしないと、あまりにも大ざっぱでいい加減すぎて、いくらがんばっても満足が得られないような結果に終わってしまいます。

 たとえば若者や子供に「がんばりなさい」と言う場合も、ちゃんと枠組みを決めてあげた方がやりやすいのです。親であろうが先生であろうが、「あなたはここまでがんばってください」とガイドラインを示してあげれば、本人はそのガイドライン通りにがんばれたとき、満足感、充実感が得られるはずです。
 病気見舞いに行ったときも、「がんばってください」は何の役にもたちません。いったいどうやってがんばるのでしょう。看護婦さんをぶん殴ったり、ごはんを皿ごとぶちまけたり、そんなふうにがんばっても仕方ありません。ちゃんと薬を飲みなさいとか、ちゃんと注射を打ってもらいなさいなどと言うことは見舞客の仕事ではありません。それはお医者さんの仕事であって、大きなお世話なんですね。それでは家族や友人は何ができるかというと、その人を元気づけてあげることならできるんですね。病気になると、当然精神的には落ち込んでしまいます。あまりいい気持ちではないのです。それで私たちは、「気持ちを明るく持てよ」とか「くよくよ考えても仕方ないよ」とか、精神的な面で何らかの元気づけをしてあげられれば、「がんばってください」と言うよりは意味があると思います。

 しかし、精神が鈍いとなかなか言えないのです。「がんばってください」と言い、決まり文句やしきたりを腐るほど使って、まるでテープレコーダーのように繰り返すばかりなんですね。それは正しい生き方とは言えません。葬式に行ったらこう言う。結婚式ではこう言う。お見舞ならこうだと全部言葉が決まっていて、その言葉の中の大事な意味は、もうとっくに消えてしまっているのです。

 お見舞に行って「がんばって」と言うのは簡単ですが、その人の病気がどんな状態で、その人の精神がどうなっているのか、それを見極めて、かける言葉を選ぶためには智恵が必要なんです。なかなか難しいことなんです。だから多くの人がやろうとしない。そうすると苦しみが増える、という悪循環です。経済も政治も、鋭さがないという点では同様の問題なのです。

 感情の話に戻りますけれど、欲、怒り、そして説明してきましたように、鈍感さ、つまり無知、この3つが一番大きな問題で、これらが我々を精神的病人にしてしまっているんですね。(この項つづく)
(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;舟橋左斗子)

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