根本仏教講義
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15.もうひとつの生き方 II
(4)集中力の楽しみかた
A・スマナサーラ長老

 先月は、感情に支配された人間が、どれほど妄想の世界に引きずり込まれ、何も見えなくなってしまうかということについて、いろいろな事例をお話ししました。今月は、少し視点を変えて見ていきましょう。

■集中力は子供にもある■
 冥想指導をするときに、私はよく集中力の話をします。冥想する場合は集中力が必要ですよ、とお話しします。集中力というのは不思議なものではなく、誰にでもあるものなのです。わざわざ修行して育てなくても、もともと集中力はあるのです。

 たとえば、子供がコンピューターゲームをやっているときには、1時間でも2時間でも画面に向かっています。学校帰りにゲームセンターに行く中学生などは、塾さえなければ何時間でもゲーム機に夢中になっています。子供たちはゲームでなら、夜中の12時だろうが1時だろうが関係なく遊んでしまうんですね。そのときはまず気持ちがいいし楽しいし、疲れない。元気いっぱいです。こういう場合には3つの法則があるんですね。楽しい、疲れない、時間制限なくいつまででもできる、という3つです。このように、子供にもちゃんと集中力はあります。幼いよちよち歩きの子供でも、その子が好きなアニメを見せてあげれば、目を離さずにじーっと見ています。ミッキーマウスでもドラえもんでも、好きなアニメを見ているときにはイライラすることはない。お腹がすいたともいわないし、泣いたりもしない。それは正真正銘の集中力なんですね。

 その、もとからちゃんと備わっている集中力を、わざわざ冥想して育てるというのはどういうことなのでしょうか。問題はこのように集中できる場合のことではないのです。2歳くらいの子はドラえもんを見ると30分でもじーっとしているのですが、他のことをやる場合は1分以内で泣き出しちゃうんですね。イライラ、イライラとまったく落ち着かない。ゲームセンターで2時間でも3時間でもゲームをやっている子供たちに、勉強しなさいと言おうものなら、もうできない。勉強となると、眠いし、お腹が空くし、のどが渇くし、いろいろな問題が出てくる。そしてそのような子供に、我々大人はものすごく怒るんですね。勉強しなさい。テレビは見るな…。しかし、そう言う大人自身はできているのでしょうか。まったくできていないんですね。大人も子供と同様に好きなことをやる場合はいくらでも続けられますが、そうでない場合はまったく集中力がないのです。

■本来持つ集中力は人間を破壊する■
 私は、冥想指導をする場合、まず立ち禅をしてもらうんですね。皆さんには嫌われると思いますが、立ち禅をしてもらうのは、それによって皆さんの性格やあらゆることを読みとって、その人にどこまでできるかというプログラムを一応組んでおくためなんです。それには2,3分は必要なんですね。ですから5分ほど立ってもらいます。どうですかと聞いたら、「ぐるぐるする。倒れそうになって、なかなか難しい」という感想ですね。そのときには何もコメントしませんけれど、今日は一般論ですから、ちょっと分析してみましょう。

 5分でからだがグラグラしてくるというのは一体どういうことでしょうか。隣の奥さんと玄関先に立って誰かの悪口でも言う場合には、2時間でも3時間でも平気で立っているのにです。そのときにはからだがグラグラすることもなければ、腰が痛くなることもありません。ある人は、たった5分立っただけで、眠くなってしまったとおっしゃいます。その方は本当にいつでも、5分ごとに眠くなるのでしょうか。もしそうなら危なくて、もうとっくに命を落としているに違いありません。たとえば電車を待っているときに、5分立っていると眠くなるということでしたら、とても生きていられませんよね。5分で眠くなるというようなことは、日常生活ではないのです。冥想のときだけなんですね。大人も、まったく子供と同じですね。

 先月もお話ししましたが、この世の中に『大人』なんていないのです。未熟な生命が誕生して、肉体がどんどん大きくなって、衰えて死ぬ。中身はそのまま、未熟なまま、輪廻転生して、また未熟な一生を繰り返す。そこをなんとかしなさい、というのがお釈迦さまの言葉なんですね。成長しなさい、大人になりなさいと。

 我々大人も、テレビなら何時間でも見ていられる。仕事で疲れるんだという男連中は、酒を飲んで遊ぶときには何時間でも平気で遊ぶ。家で奥さんが、「ちょっとこれを手伝ってください」と頼むと、「ボクは疲れているんだから」と言って、ゴルフや何やに出かけて1日中遊んでくる。そしてそのときには、疲れたとも何とも言わないんですね。

 ここに見られるのは、我々は、おもしろいことなら集中力があるが、おもしろくなければ集中力がない、という状況ですね。もう一度子供に戻ってみましょう。子供はゲームをやらせておけば集中力があるのだから、1日中ゲームをやらせてあげましょう、遊んでいると楽しいのだから、24時間ずっと遊ぶことだけさせておきましょう、ということにしたら、どうなるのでしょうか。その子の人生はそれで終わってしまいますね。だから、子供はいやでも勉強しなくてはいけません。いくらいやでも、世の中の常識やしきたり、道徳を守らなくてはなりません。いくら好きだといっても、遊ぶ時間は減らさなくてはいけない。そうすると、その子は成長して幸せになれるでしょう。大人にとっても、それは同じ論理なんですね。

 そこで、こういうことを理解していただきたいのです。我々は、自分を不幸にする方向には集中力があるのです。たとえば酒に溺れることは簡単です。しかし酒をやめることは簡単ではない。タバコに依存することも簡単であって、やめることは難しい。世間話なら何時間でも話していられるが、大事なことを集中力をもって話すことはなかなか難しい。

 そのように、人間が本来持っている集中力は、人間を破壊してしまう。だから、違う方向へ持っていかなければならない。かといって、いやなことをやろうとしても集中力は生まれてこない。

■無理すると集中力は破壊される■
 たとえば子供が、テレビばかり見ていて勉強しない。だからといって母親が、テレビを箱の中に入れて隠してしまったからといって、子供は勉強するでしょうか。あるいは遊びに行ってしまうからといって、部屋に閉じこめて「勉強しなさい」と、鍵をかけておいても、子供は勉強するでしょうか。したくなければしないのです。逆に、余計に勉強嫌いになってしまうかもしれません。自分が見たいテレビを箱に入れてテープまで貼ってしまった母親のことまで、いやになっちゃうんですね。鬼だと言って、母親をぶん殴って殺すかもしれません。ですから、嫌がることを無理矢理強制しても、集中力を作らせようとするのもよくないのです。

■正しい集中力の育て方■
 そういうわけで、我々はいつも、「もうひとつの道」「もうひとつの生き方」という話をするんですね。ヴィパッサナーの世界で、歩くこと、座ること、ご飯を食べること、そういう普通のことに集中してみなさい、と言っているのです。いやなことでもないし、やりにくいことでもない。歩いてみる。ただそれだけです。それで人間に正しい集中力が生まれて、正しい智恵が生まれてくるのです。そして、その智恵を自由自在に使えるようになるんですね。そういう人には『いやなもの』は消えてしまうのです。特別に好きなものもなくなって、淡々とそれぞれの仕事ができるようになってくるんですね。物事が見えてくるのです。

 貪瞋痴の感情で生きている人間の道はよくない、危険だと、まず最初に言っておきたいと思います。貪瞋痴の感情からならば、いくらでも集中力があふれ出てくることは説明いたしました。

 そのうえで、違う方向からも考えてみましょう。まず、人間というのは、幸福に生きていきたいと思っています。それは別に悪いことではありません。冬に窓を開けて寒さに震える必要はないのです。きちんと窓を閉めて、カーテンがあればカーテンも閉めて、暖房があるなら暖房もつけてよいのです。気に入った相手がいるなら結婚すればいいし、寂しいと思うなら子供を作ってもよいのです。もっと美味しいご飯を食べたいから、仕事をがんばってお金を稼ぐ、それもよいのです。

 我々が言いたいのはそういうことではなく、幸せになるためにはどうすればよいのか、ということです。もっと具体的に言うなら、商売を軌道に乗せるためには、どうすればよいのでしょうか。そこで、貪瞋痴で商売をやったとします。儲かるぞと思って店を開いても、お客さんはぜんぜん来ないのです。自分が儲けることだけ考えていると、ぜんぜんうまくいかないはずです。

 もうひとつの道というのは、たとえば商売の場合は、人間と人間の関わりですから、『相互に助かる』ということで商売は成り立つはずです。私が何か品物を持っている。そこに買う人がいる。買う人はそれを必要としている。互いに必要があるということで、商売は成り立つわけです。それを買ってあなたは助かる。それを売って私は助かる。このように、商売の場合は、どうやればお互いに助かるのか、互いに幸福になるのかと、相手の気持ちも考えなくてはいけないのです。

 外交も同じですね。日本と中国の間の外交では、どうすれば中国の方も幸せになれるかと、日本側も考えなければなりません。中国側も、どうすれば日本にもよくて自分の国にもよいかと、その接点を見つければよいのです。パレスチナ人も、どうすればイスラエル人が幸せに安心して生活できるかと考えればよいのです。イスラエル人はどうすれば自分の民族、土地を成長させられるかだけを考え、パレスチナ人はどうすれば自分の宗教を守り、育っていけるのかということばかりを考える。すると、永久に対立するばかりです。どうしていろいろな会社が倒産するかというと、バランスを崩しているんですね。バランスが崩れると問題が起こるのです。ですから、世の中は、貪瞋痴の代わりに、共存すること、互いに幸せになることを考えるべきなのです。人生は短いのですから、楽しく、仲良く、幸せに生きた方がよいということを、忘れないでいて欲しいのです。(この項続く)

(スマナサーラ師講義より構成しました
             /文責:舟橋左斗子)

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