根本仏教講義
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15.もうひとつの生き方 II
(5)衰えた身体の中、幼児の心
A・スマナサーラ長老

 先月は、人間は自分を不幸にする方向には集中力があるというお話をしました。人間が本来持っている集中力は、人間を破壌するのです。だからといって、いやなことをやろうとしても集中力は生まれてきません。そのどちらでもない、第3の道についてお話ししていました。

 同様に、幸福についても第3の道があるんですね。貪瞋痴に流される生き方はよくない生き方であるけれども、人間が幸福に生きていきたいと思うことはごく普通のことであり、悪いことではありません。ただ、他人を不幸にして自分が幸福になるという考え方は、それ自体に論理の間違いがあることに気づいて、正しい幸福を探すべきなのです。

■1日も無駄にしないで■
 人生は短いのですから、その短い時間を、楽しく幸せに、仲良く生きればよいのです。短い人生のなかの10年も20年も、お嫁さんやお姑さんと喧嘩して過ごすほど、馬鹿な生き方があるでしょうか。10年も20年も苦しみながら生きるのは、無知な生き方といえるのではないでしょうか。

 人間なんて、いつ死ぬかわからないのです。どんな瞬間にでも死が訪れる可能性はあるのです。

 私の国では、12歳くらいの小さな子供が母親から引き離され、テロリストとして訓練させられて戦場に向かいます。子供ですから、鉄砲の撃ち方、爆弾の使い方を教えられれば、素直に学んで、迷いもなく戦い、簡単に死んでいくのです。また、それが女性であれば、自分の身体に大量の爆弾をつけて敵の中に飛び込み、相手を殺して自分も死ぬ。それが幸福な生き方といえるでしょうか。いろいろな宗教で、このように死ねば天国に行くのだと、非合理的な、証拠のない論理を教えて死を正当化します。
「聖戦」という言葉もありますが、戦争に「聖なるもの」なんてありえません。どんな言葉を使っても、戦争は「人を殺すこと」なのです。たとえば犬に噛まれたとしても、犬を殴り返すことは良いことではありません。どうせ犬のやったことなのだからと、許してあげるのが正しい道でしょう。

 先日私の国の新聞で、動物に関する世界各国の様子を書いた記事を読みました。昔のヨーロッパには、もしも動物が人を襲ったら、きちんと裁判にかけて死刑にした国があったそうです。ちゃんと弁護士もたてて話し合ったのだそうです。我々の国ならば、それら昔のヨーロッパの国々のような複雑なことはしないで、もし人を噛む犬がいれば、捕まえて檻にでも入れて問題を解決しておしまいだと思いますが。

 とにかく人間というのは短い時間しか生きていません。その短い時間を、1日でも損してはいけないのです。1日でも悩んだり、無駄にしてはいけません。

■敵を抱きしめる生き方■
 人に対して怒ったら、その怒りにまず苦しむのは誰でしょうか。怒りは自分への毒だ、殺教者だ、敵だとお釈迦さまはおっしゃっていますね。敵は外部ではなく、自分の心の中にいるのです。なぜ、敵を抱きしめて、大切にお腹のなかに入れておくのでしょうか。そうなれば、敵はやりたい放題です。

我々が30分でも何かに対して怒りの気持ちを持てば、そのぶん、人生を損しているのです。幸福からはまた遠くなります。そしてまた、心にその癖がついて、次から次へと怒りが生まれてきます。慣れてしまうのですね。たとえば悪口ひとつとっても、最初は恥ずかしいのだけれど、1,2度言ってしまえば何の抵抗もなく言えるようになってしまうのです。人というのは、悪いことをするときは、1回目はものすごく怖いのです。会社のお金でも、たとえば最初は1,000円でも横領するのは怖いのです。しかし1度やってしまえば次から次へと続けるようになり、取り返しがつかないところまでやってしまうのです。そして最後には破綻して、人生を無茶苦茶にして終わりになってしまう。

 怒りも同じなんですよ。1度怒ってみたら、どうということもなく2度目も怒ることができる。3度目も同じ。どんどん慣れてくるんですね。そして一生、怒りの人間になってしまうわけです。そうすると、自分の大切な幸福は消えてしまうのです。

■子供の貪瞋痴に向き合う■
 このようなわけで、貪瞋痴の世界には幸福な道がないのです。商売繁盛の道もない。欲だけで、商売を繁盛させることはできません。平安な家庭を作ることも、自分自身が平安に生きることも、貪瞋痴では不可能なのです。子供は生まれつき、貪瞋痴を持っています。わがまま、怒り…。ぞれは叩き直して、新しい道を教えてあげなければなりません。調和はいいことだ、仲良くすることはもっといいことだと、楽な道より難しい道の方がいいのだと。

 子供は楽な道を選びます。人が喧嘩をしたら、自分も喧嘩する。私の国の子供たちもよく喧嘩をします。向こうは仏教の影響もありますから、誰も逃げません。たとえば、いじめられて泣きっぱなし、そのようなことははとんどありません。いじめられたら、とにかくやり返すのです。

 ある男の子が、いつも私のところに遊びに来ていたのですが、ものすごく怒るんですね。頭のいい子でしたけれど、ちょっとしたことで怒って、人を殴ったり蹴ったりするのです。親にもものすごく汚い言葉で罵ったりする。親戚たちもどうしようもなくて、社会のなかでも誰もどうしようもなくて、みんな聞いていないふりをするのです。自分勝手に生きてきたその子は、私のところで出家したいと言っていたのですが、私は賛成しなかったのです。まずその性格を直さなければならないという話をしていました。

 あるとき、その子と私でいろいろな話をしていました。科学の話など、なかなかおもしろい話をしていたのです。ところが、そこへ来たもう1人の男の子と、また喧嘩を始めてしまったのです。この子も私と遊ぼうとして話しかけて来たわけですから、もしかしたら嫉妬したのかもしれません。私はこの瞬間に言わなければ、と思って言ったのです。「あなたはそれでも自分のことを『頭がいい』と思っているんですか? そんなことで喧嘩するなんて、犬に噛まれたから犬の足を噛んでやるというようなもので、そんなやりかたは頭のいい人のやることじゃないでしょう。何か言われてもどうということなく落ち着いていられることが、頭がいいということでしょう」。その言葉を言った途端、それが彼の心の中にすっと入って、そこからすっかり性格が変わってしまったのです。今ではものすごく真面目な大人になって、今度はちょっと極端すぎるほどで、それも逆の意味でちょっと直した方がいいと思うくらいですが(笑)。

■We are the world■
 このように、怒りや欲による行動、欲しいから取るのだという生き方は、あまり大人っぽい生き方だとは言えません。しかし我々は、この子供のようなやり方であらゆる行動を行っていて、大きな銀行だろうが会社だろうが経営しているわけですから、3割4割が倒産するのは当然といえるでしょう。

 もうひとつの人生というのは、それとはまったく違う生き方です。共存することで、私が助け、あなたにも助けられる、お互いに助かるのだという生き方です。そうすると世の中は、ものすごくうまくいくのです。私が怒ったら、相手の人も気分が悪いし、私も気分が悪いのです。人が何か失敗しても「まあいいじゃないか」と許してあげれば、たまたま失敗した人も助かるし、「ああ心の広い人だ」と信頼してくれるようになり、この人の言うことを聞こうと思うようになるのではないでしょうか。そこで怒らなかったことで、自分に対して自信もつくし、後で思い出しても楽しいはずです。

 もうひとつの生き方というのは、貪瞋痴の代わりに、鋭さや智恵に基づいて生きることなのです。貪りや怒りの代わりに、もっと育てなければならない素晴らしい感情が、人間にはあるのです。たとえば、生命は皆兄弟だと感じ取る気持ち。自分の子だけがかわいいのではなくて、人間皆、誰であろうと母の子供なのだと。動物を見ても、この子のお母さんが、一生懸命おっぱいをあげて、身体をなめて育てたのだろうと思うと、嫌悪する気持ちではなく、もっと清らかな感情が生まれてくるのです。そういう感情はいくら増やしてもいいのです。

 世の中にある歌は、泣く歌がほとんどですね。欲を持ってすると、泣く歌になっちゃうんですね。恋の歌や失恋の歌、別れの歌、なぜあなたはあの人のもとに行ってしまったのとか、そのような気持ちも怒りでしょう。私にとっては気持ち悪いばかりです。せっかく歌を聴いて楽しもうと思っても、気持ちが暗くなるばかりです。

 「We are the world…」という歌がありましたよね。あの歌を聴くと、私も、ああきれいな歌だなあと、気分良くなります。苦しんでいる人たちを助けるために、素晴らしい歌手たちが集まって、1行1行、歌っている歌。「We are the world,We are the children…」。歌詞もその通りだと感じられて、1行1行歌うのですが、心に響くのです。ですから、多くの人たちの心に残っているのです。

 文学でもそうだと思います。貪瞋痴ではなくて、怒りの代わりに優しさを、欲でなくて共存を、互いに助け合うことを大切にするなら、もっと偉大な文学がたくさん生まれているはずです。そして、美しく生きていられるはずです。

 このように、もうひとつの生き方を作らなくてはいけませんが、それは個人個人が作らなければなりません。子供のまま死ぬのではなく、大人にならなくてはいけません。子供はかわいいし、若者もかわいいのだけれど、大人になってくると気持ち悪いのです。衰えた身体の中に幼児が入っていて、身体と心が一致しないのです。小さいときは心と身体が合っているのです。バランスを保っているのです。身体も心も子供でOK、かわいいのです。身体が歳をとって行くのと同時に心も成長していくのであればかわいらしさは消えません。そういうわけで、仏教の世界で悟った方々というのは、見ただけで誰もがびっくりするのです。なぜならば、立派な大人になっていて、頼りになって、その人がいるだけで周りが落ち着くからなのです。(この項続く)

(スマナサーラ師講義より構成しました
             /文責:舟橋左斗子)

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