根本仏教講義
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16.無常について
(1)科学の視点からこころを見る
A・スマナサーラ長老

 今月から新しい話題に入りましょう。

 お釈迦さまが私たちに教えてくださったのは、こころを清らかにする方法と生きることの目的、そしてそれを達成するための方法です。

 仏教は後の時代に、どんどん『宗教』となってしまったのですが、世の中にあるいわゆる『宗教』とはずいぶん違うということも理解していただきたいのです。現代的な立場で考えれば仏教というのは、宗教というより厳密な『科学』を教えているようなものなのです。ですから「信じるもの」というよりは「実行してみる」「実践してみる」方法であって、科学的なものなんですね。

■からだはなぜ動くか■
 しかし仏教は科学だと言ってみても、本当なのか、嘘ではないか、と言われる可能性があります。
なぜなら、現代科学は、主に物質を対象として取り扱っているんですね。医学も生物学も、物質の世界を扱っているのです。一方仏教では最初から、物質部分にいくら手をかけてみても、それほどの答えが出てくるわけではないという立場をとっています。

人間の様々な問題というのは他のところで生まれてくるのではないかという立場なのです。つまり『こころ』のことを考えているわけです。現代の諸々の科学とは、研究の分野が違うのです。現代科学で研究しているのは『物質』の部分で、お釈迦さまとしては『物質』部分はそちらに任せておいて、ご自身は『こころ』の研究を優先させたのです。

 お釈迦さまが『こころ』の科学を優先させたわけは、我々が生きているのも『こころ』という働きがあるからだと考えられたからなのです。ただからだがあるから生きているというわけではないのです。
ただからだがあるから生きているということならば、からだというのは完全な機械だということになってしまいます。もしそうならば、完壁な物理法則に則って、からだを生かしてあげることもできるはずなのです。しかし、どれはど世界が発展しても、からだという物体のひとつひとつの細胞に何の欠陥もなくても、あるときそれは壊れて機能しなくなってしまいます。停止してしまうんですね。

 このような命の働きを考えるには、まず『こころ』という働きを考えます。

 たとえば、私が手を上げるとします。手を上げるにはまず・「手を上げたい」という気持ち、自分の意志があって、それから手を上げるんですね。歩くときも同様で、ただ機械のように歩くのではなくて、ここには「歩きたい」というエネルギーが働いているのです。人間はそれによって生きているのです。
見たい、聞きたい、食べたい、歩きたい、生きていたい…。その意志を、からだという機械が実行しているのです。

 からだという機械を動かしている、機能させているエネルギー自体を、我々は『こころ』と呼びます。それは現代科学の世界では見つからないのです。なぜならば、現代科学は『物質』を見ていますからね。『こころ』は、物質をいくら見ても見つけられないのです。現代科学で説明できるのは、物理的な動きだけです。機械に電池を入れると、機械は動く。しかしもし、そのような物理的な動きだけが真実だとすれば、「からだを動かしてみてください」と言った時点で、説明ができなくなります。

 医学の世界でも、いろいろな処方で対処しますが、それも「その生命が生きている」という前提があってこそなんですね。その生命が生きているならば、この薬は効きます、その生命が生きているならば、この手術が効果的です、ということであって、死んでしまったらもうどうしようもありません。
「生きているなら」ということがまずあって、いろいろな物理的部分をいじったりする。それを『医学』というのです。

■からだの支配者を発見する■
 一方、仏教的な観点から簡単な話をすると、たとえばこころが暗くなることがあります。理由もよくわからないのだけれど、すごく暗くなったり悲観的になったりすることがあると、その人のからだの健康も、どんどん損なわれていってしまうのです。それは、現代科学的にいえば『非合理的』なんですね。細胞が、あるいはからだが、大変健康的であるというなら、ただ考え方が悲観的になっただけのことで、からだが破壊されていくということは非合理的ですし、あり得ない話なんです。ある人には、いくら薬を飲ませてもなかなか効かない。しかし別の人は、あまり気にもせず生活していて、それはど薬を飲まなくても健康でいられたりしますね。これらのことは、物理的な部分だけを研究しても、解明できないのです。

 ですから、我々の考え方、感情、つまり様々な『こころの働き』が、からだを支配し、管理しているということは、一般的に見ればわかるのです。それならば、その『支配者』のことをよく勉強して研究して、それによって人間の問題を解決しなくてはいけないのだと考えるのが仏教です。

 人間というのは、おいしいご飯を食べたいという気持ちがありますが、ただおいしいご飯を食べるだけでは人間は幸せにはなれないんですね。立派な家にも住みたい。しかしまた、立派な家に住んだだけで、充実感を得た、幸福になったとはいえないのです。健康でいたい、長生きしたい。次々と具体的なことを考えますが、やはりそれだけでは幸福は得られないのです。

 そこで「こころ」の働きを明確に知って、こころを清らかにして幸福を得る方法を、具体的に教えているのが、お釈迦さまの教えなのです。ですから本来の仏教では、「信じる」とか「信仰」といった言葉は使わないのです。「信じなさい」というのではなくて、「実証してみなさい」「自分で試してみなさい」と訴えるのです。それは、科学的なあり方だといえるのではないでしょうか。

 私の話も、坊主が言うのだからそのまま信じようとか、反発すれば罰が当たるのではとか、そのようなことは全くないのです。私が言うことにも間違いはいっぱいあるし、その場合は、それなりに理解するなり、反対の意見を言うなり、どちらでもかまいませんが、言っていることが本当かどうかは、ご自分で体験して、試してみるべきなのです。

■こころの科学の実験の仕方■
 ところで、科学とはいっても『こころ』の科学ですので、特徴の1つは、道具が要らないということですね。そしてもうひとつの特徴としては、客観的な実証がしにくいということです。人のこころはわかりにくいものですから、人のこころを清らかにして見せて、「かわりましたね」と一目でわかるような、客観的な実験はできないのです。いわゆる『科学』の世界では、ネズミに薬を与えて病気が治癒したという実験を通して実証し、今度は人間に応用するという方向へ持っていきますが、『こころの科学』ではそれができません。

 ですから、方法としては、自分のこころをもって実験するしかないのです。こころが変わっていくか、自分によい結果が得られるかどうか、自分にしか結果はわかりません。ですから他人に言えることも、「私はこういう風にやってみたところ、このようなよい結果がありました」という、ただそれだけです。自分によい結果が出たからといって、「あなたもきれいにしてあげますよ」と言えるような能力までついてくるわけではありません。ですから、そのような点では現代科学とは多少違いがありますが、基本的な考え方、方法というのは、それはど差がありません。

■事実に逆らう人間の気持ち■
 仏教の真理について少しお話ししたいのですが、人間というのは、物事を考えたりするときいつも、「ものはある」と考えて生活しています。すべてのものは「あるものだ」とアプリオリ(経験や認識に先立つ生得的なもの)ととらえているので、「自分もいる」と考えます。そこでいろいろなトラブルを起こしてしまうのです。たとえば、あると思っていたものが消えていく。だからこころが痛む。自分のものだと思っていたものが、やがて消えていってしまうと、こころに悩みが生まれる。

 病気になったとき悩んだりするのも、こころのどこかで病気にはならないと思っていたからなんですね。病気にはならないはずだったのに、というふうに感じるから、悩むわけです。だから、医者に行ったり、誰かに祈祷でもしてもらったり、何とかして治そうとします。そこに、ひとつの人間のこころのトラブルの形が見えてきます。

 人間は「ものごとはある」「私はいる」と思っている。そう思っているのですが、事実はそうではないのです。全部、消えていくのです。しかし私たちは、消えていくことを認めたくない。事実を認めたくないというのは、自分勝手です。こころというのは、まったく非科学的なのです。

 科学というのが『事実』を指し示すものであるならば、事実は認めるしか道がないのです。昔地球は平だということになっていました。神様がそうおっしゃったんだから平なのだといわれていましたね。
しかし、事実を発見してみたら、そうではなかった。そうすると当時の人々は、それに対して怒り、腹を立てて、いろいろととんでもないことをやったのですが、結局は事実なのですから、認めざるを得ないんですね。しかし、人間には認める勇気がないので、罰が当たるとか、聖書に反対するのはどうしたことかとか言いながら、認めようとしてこなかったんですね。

 現代でも、いろいろな場面で「認めたくない」「否定しようとする」ということが多々ありますね。DNAの研究や遺伝子工学に反対するのですが、おかしいのは「それは人間の立ち入るべき領域じゃない、神の領域だからやるべきじゃない」といった論理で否定する、遠い昔の古ぼけた考え方なんですね。それは非合理的、非科学的な考え方です。

 それを言うならば、人間というのは人の不幸になることばかりやって来たろくでもない存在で、信頼できないからやめておいた方がいい、と言った方が合理的なんですね。特に科学者は、人間を破壊することばかり続けてきて、人の役に立ったのはごくわずかな部分だけ。人間というのは欲張りで、金が儲かるなら何でもやろうとするから気をつけろ、という論理の方が科学的なのです。 (この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:舟橋左斗子)

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