根本仏教講義

16.無常について 2

『無常』は誤解されている

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は仏教の視点の合理性をお話ししていました。
現代科学が『からだ』を科学するように、ブッダは『こころ』を科学する方法を説いたのですね。
科学というのは『事実』であり、事実は認める勇気を持たなければなりません。『こころ』の分野に限らず、現代でも、科学が解明した事実を「神の領域」などといった非合理的な論理で避けようとする人々も少なくないことなどをお話ししました。

条件を変えれば事実も変わる

お釈迦さまは、事実を認める勇気を持ちましょうとお話しされ、最初に真理を語っておられます。つまり、すべてのものごとは無常であるという真理です。皆さんは『諸行無常』という言葉をご存知ですね。パーリ語で「sabbe saṅkhārā aniccā」といい、『諸行無常』の『行』は、日本語ではわかりにくいですが、パーリ語の「saṅkhāra」にあたります。

パーリ語の「saṅkhāra」という言葉は、やはり大変難しい言葉なんです。直訳すれば「つくられたもの」「できあがったもの」というような意味です。
現代日本語では「現象」ということになります。ですから全文の意味は「すべての現象は無常である」ということになりますね。
では、「現象」とは何かということになりますが、「現象」でないものは何もないのです。現象とは、その瞬間の状況を指す言葉であって、「本来の姿」というようなものではなく、いつでもできて、またいつでも壊れるものなのです。

たとえばここに電灯の光があります。電気の光というものは絶対的なものではありません。電子がせっせと流れて、やっと光るものなんですね。しかも、電子を流すためにさまざまな機能を動かし、すべてが絶えないように頑張り続けなければ光は出続けません。電気の供給がストップすれば光は消えるし、電球の中の電線が切れてしまえば光は消えるし、さまざまに働く機能のうち一つの原因でもなくなれば、光はさっと消えてしまうのです。ですから、今実際に我々が見ている『光』のようなものも現象です。

何を見ても、そうなのです。原子一個も、ただやっと原子でいるくらいのことで、ほんのちょっとのことで違う方向に変わってしまう。原子さえも、条件がそろっていなければ原子でいられないのです。科学者たちは様々な道筋をたどり、ようやく素粒子まで分解して考えられるようになったのですが、大変複雑で、みなさんはそこまで考える必要はないのです。

仏教というのは、万人にわかる教えなのです。
ちょっとしたことを見ても、現象が無常であることは見えてくるのです。

たとえば『ご飯』ですが、「ご飯があります、食べられますよ」と言っても、ご飯はある条件の中でご飯なのであって、その条件を変えてしまったらご飯ではなくなってしまうのです。ここに誰かがご飯を一杯持ってきて、「炊き立てのご飯ですよ、これは食べられますよ、とてもおいしいですよ」と言ったとして、10時間、20時間置いておいたら、どうでしょう。食べられないんですね。でもその人が言ったことは、その瞬間には事実だったのです。だからといって、「そうですか、おいしいご飯ですか、では食べましょう」と3日後に食べたとしたら、そのときにはもうおいしいご飯ではなくなってしまっているのです。すでに毒になってしまっていて、もしも食べたらお腹を壊してしまうのです。

おいしいご飯というのは、ある瞬間にだけ成り立つ仮の事実であって、条件を変えてしまえば、異なる事実が生まれてくるのです。

元には戻せない

現象というものは瞬時に消えていくのです。できてくるものだから、消えていくのです。わざわざ作るものもありますよ。たとえば家族というのは、わざわざ作る、人間の作品なんですね。だから壊れるのです。その中には何も、神秘的なもの、宗教的なものはないのです。

ある宗教では、家族、夫婦というのは、神に定められたものであって、男と女が一緒になるということも、神様の定めた真理である、と考えますね。しかしそこには、証明されていない非科学的な概念が混じっていますね。証拠が出せないことなのです。
もし神に定められたものであるならば、いったん男と女が結婚したら、離婚になるはずはないのです。
二つのからだが一つになるはずなのです。しかし、全然そうはならないのです。2週間か、まあ3ヵ月くらいは「ぴったりだなあ」なんて思っているかもしれませんけれど(笑)。

ですから、死ぬまで一緒にいるとしても、やっぱり互いに喧嘩もしながら生きているのです。合わない、と感じる気持ちはたくさんあるのです。男か女、どちらかが抑えないと、夫婦生活は成り立たないのです。

家族というものは、「できたもの」というよりは「人間が作ったもの」。そこにもやはり、『無常』はあるのです。では、自分が産んだ子は自分のものかというと、そうではありません。それは「できたもの」であって、自分のものでもなんでもありません。小さいとき、子供はひとりで何もできませんから、母親や父親の言うことを聞くのですが、自分でものごとができるようになれば出ていってしまいます。そこで両親が泣いても悲しんでも、しょうがないんですね。消えるものなんですね。それなのに、自分の子供が出ていったと、悩んだり悲しんだりしている人を多く見かけます。なぜ悩むかというと、自分の子供だから変化すべきじゃない、と思いこんでいるわけです。

ある女性が、私に言うのです。「昔はすごく可愛かったのに、今はものすごい暴力を振るって」。そこで私が「それはよかった」と言うと、みんな「何を言うのですか」と怒ったりするのです。しかし、間違っているのは母親で、昔の可愛い子供に戻って欲しがっているのです。非合理的に、非科学的に、事実を否定しているのです。我が子の状況も変わるものであって、元には戻れません。世の中に万にひとつも、暴力を振るう息子が、可愛い幼い息子に戻ったということはありません。それなのに、もとに戻って欲しいというのは、ばかばかしいことではないでしょうか。

ですから、こころにあるこのばかばかしさを、何とかしなくてはなりません。それを我々は『智慧』と呼ぶのです。こころというのは、ものすごくばかばかしいものなのです。

日本の経済状況を見てみると、一時は活発に動いているように見えたのですが、バブルがはじけて壊れてしまいましたね。そこでみんな、なんとか元に戻せないかと考えるのですが、元には戻せないのです。いずれにせよ、前を向いて進化させなければならないのに、いつまでも過去の腐った遺体みたいなものから何か新しいシステムを作ろうと考えているのですから、誰にも新しい考えが浮かばないのです。腐ったもので作ったものは、できあがりも腐っているのですから、役に立たないでしょう。毒の入った材料で料理を作っても、作った料理は食べられないのです。同様に、懐れた過去から考え始めた新しいシステムは使えない。いったん倒れたものは二度と戻ってきません。

智慧がないと『過去』で考える

こころに智慧がないと、何を考えても『過去』で物事を考える。ですからお釈迦さまは、こころは基本的に無知であって無明であると、おっしゃっているんですね。こころが我々を生かしているのに、その大元のこころが一番ばかばかしい。だから智慧が必要なんですね。

私たちが病気になったらなぜ困るのでしょうか。
医者にとっては、壊れた身体を治すことはいとも簡単なんです。壊れた箇所が見えれば、ちょこちょこっと修理すれば、それで済むのです。しかし実際には、そう簡単には治せない。からだ以外の何かがおかしいのです。つまり、こころのほうがおかしいので、治しても治しても治らず、また壊れたりするのです。

こころのおかしさというのは、ものすごいものです。ある人がものすごく混乱して私に聞いたのです。「どうして私に限ってガンになったのですか」と。私は、「人間は誰でもガンになりますよ」と答えました。すると彼は「それはわかっていますが、なぜ私に限って」と言うのです。本当に悩んでいるので、それ以上何も言えなかったのですが、本人は自分を何ものと考えているのでしょうか。人間なのに、石だとでも思っているのでしょうか。石だとしても、それなりに壊れてしまいますが。

自分が絶対的で終わらないものだと思うことほど、おかしな考え方はないのです。頭では、「いいえ、自分が不死身だなんて思っていませんよ。世の中、無常ですから」と考えているのですが、頭だけで「理解している」と思いこんでいることはさらにおかしなことなのです。

そのような人に限って、実際に病気になったときに冷静な顔をしていられないのです。
もし、自分の子供が亡くなったときに、冷静な顔をしていられるでしょうか。自分の夫が亡くなったときに、冷静でいられるでしょうか。そういう人はなかなかいないのです。泣いたりわめいたり、叫んだり、ときには人のせいにしたり、他人の悪口も言ったりします。子供が死ねば、医者が悪い、車が悪い、日本の制度が悪い…どこかになんとか悲しみのはけ口を見つけようとしてしまうくらい、混乱しちやうんですね。

これには二つの原因があります。ひとつは、自分の子供に対するものすごい執着です。それも大きな間違いです。そしてもうひとつは、「私の子供は死なないのだ」と思い込んでいる愚かな考え。それでも、このような人に聞くと、「ものは無常だとわかっています」と言うのです。それほど矛盾していてばかばかしい『こころ』のもとで、我々は生きているわけです。

日本人は『無常』はよくわかる、と言います。日本文化の中で、古来言われ続けてきたことだと多くの人から聞きました。しかし、桜の花が散るのを見て「無常だなあ」と喜んでいながら、自分のことになった途端に「そんなはずはない」と混乱する。仏教で、花は散る、生まれるものは消えていくというとき、それは客観的な外の世界のことではなく、自分自身のことを言っているのだということに気づかなければなりません。(この項続く)