根本仏教講義
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16.無常について
(3)無常に逆らうから苦悩は生まれる
A・スマナサーラ長老

 先月は、「無常のことはよくわかる」と言う日本人が、自分のことについての無常は理解しようとしていない、という話をしました。「花は散るのだ」という外の世界のことではなく、自分が消えていく存在であること、自分が瞬間、瞬間、止まらず、変化していくのだということを理解すること、それが無常を理解することなのです。

■神を体験する必要はない■
 私が消えていく。瞬間瞬間、止まることなく、死に近付いていく。その点を理解することが、諸行無常を理解することなのです。ですから、諸行無常、つまりすべての物事が無常であることがわかれば、そこに悟りがある、究極的な幸福がある、すべての苦しみの終了があるのだと、お釈迦さまはおっしゃるのです。すべての物事が無常であると『智恵』で理解すると、一切の苦しみが終わる。『頭』で理解するのではなく、『智恵』で理解するということです。

 神様を体験する必要も、阿弥陀様に出会う必要もないのです。ただ、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、そしてこのからだ自体、こころ自体が変化していくのだということ、電球が発する光とまったく同じように、流れては消えてゆくものだということ。これ、とつかまえられるものは何もないのだという事実、真理を納得して理解する、認める、それで問題は終わるのです。

 具体的な人間の問題はたくさんありますけれど、これを理解すれば解決することなのです。たとえば夫婦間の仲が悪いと問題を起こす人、会社の仕事がうまくいかないと問題を起こす人、学校でうまく教えられない、自信がないと困っている先生たち、学校へ行きたくないという子供たち、アル中から逃れられない人、借金を払えなくて困っている人…問題はそれぞれに抱えているのに、それを明確にしないのが現代人の問題です。

 昔の人々は、何とかしようと、それなりにがんばったのです。現代人のなかには、お祈りして何とかしてもらえないだろうかと思ってしまう人も多い。なぜなら、いくらかの知識があるので、会社の調子が悪いし、このままではよくなる見込みがないということが見えるのです。そこで、自殺したり、あるいはお祈りしたり、ということになるのです。
ですから、現代社会では、カルト的な宗教というのがいとも簡単に流行るのです。カビみたいなものです。状況が揃えば、すっと生えてくる。いくら拭いても、また生えてくる。

■後でではなく、今体験する■
 それに比べて仏教は科学的なのです。お釈迦さまが悟ったときには、知識人を呼んで、試してみてください、結果は今すぐに得られます、とおっしゃったのです。死んでからのことではありません。この冥想をすれば死んでから極楽に行けますよ、という話は、初期仏教にはないのです。

 たとえば、今日の料理がおいしいという場合は、材料からおいしいのです。材料がすごく臭いとか、ものすごくいやな味がするのなら、料理したあとでもその味はするのです。使った材料に身体に害になるものが入っているならば、できあがった結果の料理も、やはり害あるものなんですね。

 なぜそのような話をするかというと、「今は苦しいばかりだが、死んでから良い結果がある」ということは成り立たないということをお話ししたいからです。今、良い結果を体験しなくてはいけないのです。ですから皆さんも、冥想をしたら、今の瞬間に『落ち着き』を体験しなくてはいけないのです。その瞬間瞬間に、落ち着き、悩まないこころ、困らないこころ…それを体験していくと、すべてが無常であることが理解できるようになってきます。

 一週間冥想してから何かを体験するぞと思ったら、残念ですけど、結果は延びるんですね。「あとでやります」という考え方は、結局、あとでもやらない考え方なのです。それは、こころの思考パターンのひとつであって、やるべきことは、今すぐやらなくてはならないんですね。

 冥想でいえば、こころの安らぎ、こころの幸福、こころの楽しみ、こころの落ち着き…これらは今すぐやらなくちゃならない、というぐらいの気持ちでやらないと、なかなか結果が出てこないんですね。

 『無常』というのは、たとえば建物が地震で倒れた、だから無常だ、というようなことではないのです。もし、地震があって建物が倒れたというなら、今までは無常ではなかった、たまたま地震があったから無常でしたという話になってしまいます。家にあった皿が割れた、やっぱり無常だというようなことだけではないのです。ある時は無常ではなかったが、あとで無常でした、ということではないのです。人が死んだとき、「無常だから死んだ」というのは、それほど正しい言い方ではありません。もしそう言うなら、人は今まで無常ではなかった、その瞬間に無常だから死んでしまった、そんな話は成り立たない。無常であるならば、ずっと、無常なのです。ずっと、変化し続けているのです。

■変化は止まらない■
 無常の速さは、どんな現象を観るかによって、違って感じられます。たとえば、ここに鈴があります。鈴というのはそんなに簡単に変化しないものですね。20年も30年もそのままでいる可能性もあります。一方、こちらにある線香は、火を灯して立てておくと、30分でなくなってしまう。2度と戻らない。30分で無常がわかるんですね。

 ですから、観る現象によって、我々が認識できる無常の速さは変わってくるのです。花は一目で散るかもしれないし、地球はかなり長い年月をかけて消えていくかもしれない。虫なら1週間で死んでしまうし、犬なら20年で、人間なら80年くらいで死んでしまう。現象によって、無常の見え方はまちまちなんですね。人間という現象を観ると、80年くらいは生きているだろうと仮定する。それはひとつの無常の見方なんです。

 でも、ものごとが、瞬間瞬間変化しなければ、無常というのは成り立ちません。

 ここに温かいご飯を持ってきたとして、12時間経った途端に食べられなくなるわけではありません。コンビニエンス・ストアでは、食べ物に「何時まで」と書かれていて、店の人はその時間になったら捨てて、新しいものに入れ替えますが、何もその時間を過ぎた途端に食べられなくなるわけではないのです。

 無常というのはそうではなくて、その料理を作った瞬間からもう変化は始まっていて、徐々に食べられなくなっていくのです。止まることはない。しかし、「止まることはない」ということを理解するためには、大変な自信と勇気が必要なのです。

■こころとはばかばかしいものである■
 こころはいつも、「嘘でいい」と、だましてごまかしているのです。からだに悪いことは皆やりたがるし、食べ物でもからだに悪いものは美味しくて、食べたくてしょうがない。からだにいい食べ物の場合は、どうかなあと後回しにする。からだに悪い酒やタバコや麻薬は、やめなさいと言っても内緒でやろうとする。法律で厳しく取り締まっても、やる。
こころというのは、そのようなものなのです。その一方で、同じこころが、元気に幸福に、明るく生きていきたいと願っている。死にたくはない、と思いながら、早死にすることばかりする。『こころ』というものがいかにばかばかしいものかということです。それを仏教では『無明』といいます。

 科学者はときに非常に厳しいですね。でも科学的に厳しいのではないのです。新しい意見を誰かが言い出すと、すぐ批判して追い出そうとしてしまうのです。いままでの決まりとは違う、前例がない…平気でそんなことをいうのです。いままでの学会にそんな話はなかった、だからといって正しいわけではないでしょうにね。

 どういうことかというと、やはりこころが「事実には反対だ」「嘘だったら賛成だ」と捉えたがっているのです。

 ある人がお釈迦さまに、「世の中の人々は超能力や神通力を賛美する、だからお釈迦さまもあちこちで超能力のデモンストレーションを行えば、多くの人が仏教徒になるのではないか」と提言したそうです。でもお釈迦さまは、そのような連中は仏教には関係がありません、とおっしゃったそうです。しかし、私にはひとつの「見せられる超能力」があるとおっしゃったそうです。

 それは、こういう話です。お釈迦さまがしゃべり、それを聞いた人のこころがすっかり変わる。すべての苦しみがなくなって、解脱を体験する。それに勝る超能力はない。そうおっしゃって、いわゆる超能力のデモンストレーションはやらなかったのです。その代わりに、お釈迦さまの説法を聞いた人の多くが悟りを開きました。

 ですから愚かなこころのもとで、無常であることを理解するのはなかなか大変ですね。たとえば仲間の誰かが亡くなったということを思うたびに悲しくなる。それは無常を否定していることです。当たり前のことですから、どうということもないはずでしょうに。

 たとえば、いま現在、空気はあたたかい。しかし、夜になると冷えてきますね。ですが、誰ひとり、それを嘆き、涙する人はいません。さらに11月、12月になりますと、どんどん寒くなってきますが、誰も泣きませんね。理由は、「そんなことは当たり前」だからです。でも、知人が死んだことに対しては、泣く。当たり前のことに泣く必要はないし、無常が本当に理解できているなら、平気でいられるはずなのです。

 今朝のニュースで、子供2人が釣りに行ったところ、雷が落ちてひとりが重体だということです。母親たちは大変混乱しているようです。

 母親にとっては無理な話かもしれませんが、もしその母が仏教の真理を悟っていたとすれば、こころの安らぎは変わらぬまま、対応できるはずです。偶然といっても、ちゃんとした因果関係があって起きた事実で、何も不思議なことが起きたわけではありません。ここでたとえば、これはご先祖さまの怨念で…などといった『言い訳』を探すことは、事実から逃げることになるのです。

 今、この場から誰かが「飲み物を買ってきます」と出ていって、二度と帰ってこない可能性もあります。つまり、無常というのは、一瞬先のことさえもわからないものなのです。 (この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:舟橋左斗子)

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