根本仏教講義
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16.無常について
(5)無常が幸福に転換する
A・スマナサーラ長老

 無常を理解すると幸福を得られると先月はお話ししました。しかし人間は、幸福になりたいと言いながら、不幸になる道を選んでばかりいるということもお話ししましたね。

■摩訶不思議なことは起こらない■
 科学は、電子顕微鏡まで発明し、宇宙の果てまで見える望遠鏡まであるというのに、生きる上で一番大切なことをどこまで発見してきたのでしょうか。

 結局、お釈迦さまがおっしゃった事実は今も事実であって、それほど難しく考える必要はないのです。
 ただ、我々の悩み苦しみ、精神的な問題が生まれるのは、私たちが自然の法則に逆らっているせいだということです。死ぬものは皆死ぬ、消えるものは皆消える、自分の若さも毎秒毎秒消えていくものだということ。すべては電流の流れ、光の流れと同じで、実体をつかまえられるものではなく、瞬間瞬間変わっていくものなのに、それに逆らって、光の実体を捕まえようとするから、苦しみが生まれるのです。

 川を見て、これは隅田川だと言ったとしても、「隅田川」という実体はないのです。瞬間瞬間新しい水が流れてくる。それを我々は、仮に「隅田川」と名付けて呼ぶだけです。「私」もそう。仮に名付けているだけです。

 すべては変化していくのです。だから落ち着きましょう、混乱する必要はない、悩む必要はない、リラックスしましょう、何があっても、あるべきことしかあり得ませんから、摩訶不思議なことは世の中には起こらない、非科学的なことは起こりません、因果法則に反することは何一つ起こりません…ということです。自分についても、他人についても、あるべきことが起こるだけ。だから、落ち着くこころをきちんと作っておけば大丈夫。それが、お釈迦さまのおっしゃる「悟りの境地」ということなんですね。

■私も他の人も幸福に■
 無常の理解、悟りの境地に関係する『慈悲の冥想』について、ここで少しお話ししましょう。

 人間というのはわがままで、本当は自分のことしか考えていません。他人のことを気にして泣いていても、本当は自分のことで泣いているのです。こころというのは、自分のことしか考えないようにできているのです。人はものごとを、いつでも自分中心に考えています。そのため、お互いが孤立してしまい、戦うようになってしまうのです。親子関係でも、母親は子供を自分のために動かそうとし、子供もやはり母親を自分のために動かそうとする。そこでやっぱり戦いが生まれてしまいます。ですから、世の中をスムーズに生きるということが難しくなってしまうのです。

 スムーズに生きるためには、慈しみの気持ちで生きて欲しいのです。私も幸福になりたい、そして他の人も幸福になって欲しいと。私だけ幸福に、というのではない。あるいは、私の幸福をさておいて、他人を幸福にしてあげようというのも、あまり合理的な話ではない。それでは相手にとっても、「あなたが不幸なのに、こちらの面倒を見られても」ということになってしまいますからね。

 我々のこころの中の『生命を愛する気持ち』『みんな一生懸命生きている、みんな同じだと感じる気持ち』を大切にして欲しいのです。

■個々の生命の違いを知ること■
 生命にはいろいろな違いがある。女性と男性は違う。一人一人も違う。動物と人間ではまた違う。虫と人間も違う。その『違う部分』で、我々は戦ってしまいます。相手が自分の言うとおりに、思うとおりに動いて欲しい。ですが、それはあり得ないことなのです。それぞれの個が、自分の目的を持って生きているのです。そのなかでまた、非論理的な『人間は平等なのだから、同じことをやりなさい』といった考え方を押しつけられて、またそこで戦いが生まれる。違うものは違うのです。
 犬は犬に相応しい生活をしたほうが楽かもしれません。犬に人間のような生活をさせて、人間は喜ぶかもしれませんが、犬にとっては大迷惑なのです。犬に服を着せたり、たびたび散髪してやったりしても、犬にとってはかえって迷惑ですね。どんなにきれいな檻を作って犬を入れてやっても、それがどんなに豪華で高価なものであっても、犬にとっては迷惑なんですね。鳥がきれいだから、きれいな籠に入れて飾りたいと思っても、鳥にとっては森の中、藪の中で自由に飛んでいた方が幸福なんですね。飼った鳥が飼い主をつついたり、飼い犬に噛まれたりして、とんでもないペットだと怒ったりしますが、それは人間のわがまま以外のなにものでもありません。

 仏教は、この事実をありのままに理解することを期待します。犬は犬である。人間は人間である。男は男である。女は女である。子供は子供である。私は別な人間である…それを理解した上でのみ『平等』という概念が成り立つのです。生命としては、皆それぞれ生きているのだと。この立場の上で、犬も幸福になって欲しいし、野生の動物も幸福になって欲しい、私も皆ともに幸福になりたい。このような理解の上で、慈悲の気持ちを育てなくてはいけないのです。

 そうすると、誰かの面倒を見ようとして大きなお世話になってしまうとか、誰かに迷惑をかけるようなことはないはずです。「あなたの為に言ってるんじゃないの!」と怒る場合もありますね。その時は『あなたの為』ではなく、自分の希望通りにことが進まなかったので、相手に対して怒っているのです。

 本当の慈悲の気持ちのある人は、そのような反応を示しません。その人は別の人なのだから、別の生き方を選んだということを理解するのです。ですから怒りは生まれてきません。自分の子供が悪いことをしても怒りません。子供もそれなりに別の人間で、自分で正しいと思ったことをやっただけです。

 では、子供が悪いことをしたときにはどうするのか。それを教えてあげるのは当然です。「あなたが悪い」という立場ではなくて、たとえば、「あなたがやっていることは、あなたにとって『迷惑』である。あなたが勉強しないでサボったら、あなたにデメリットがある」ということを伝えられれば、「ああ、私のことを本当に心配して言っているんだな」と感じることでしょう。「こらっ。何をやっているんだ。ちゃんと学校へ行け」などと言ってしまうと、自分の自由が奪われてしまう、というように感じるのです。

 我々に慈悲のこころがなければ、人を怒る権利もないし、人に教える権利もないのです。慈悲の心がなければ母親にも父親にも、子供を育てる権利もなくなってしまうのです。

■個々の生命の違いを知ること■
 必要なのは『慈悲』なのです。慈悲がある人は誰にでも正しいこと、間違っていることを教えてあげ、やさしく指導することができるんですね。そこには大きな調和の世界が生まれます。

 ですから人間には『慈悲』が必要です。慈悲といっても、宗教用語としての慈悲ではなくて、すべての生命に欠くことのできないものです。各自で必ず実行するべきものです。

 自分がご飯を食べたからといって、自分の家族が皆、満腹するわけではありません。我々は、生命の生きる権利をよく理解し、その上で自分にも同じ権利があることを知り、互いにそれぞれの権利を侵すことなく、生活していくべきなのです。自分の子供であっても同じです。子供をいじめることがなければ、子供も親をいじめることはありません。たとえば、家庭内暴力を振るっている場合は、子供が「いじめられてきた」と思っているからなのです。それを発散しているだけです。ですから、慈悲さえあれば、世の中のすべての争い、すべての戦いは、きれいさっぱり消えるはずです。

 これまでお話ししてきたように、我々がやらなければならないことは2つあります。1番目は、慈悲の気持ちを育てることです。生きているなら、世の中のすべての争いが消えて、平和に生きていられることが何よりなのです。それも、声高に人類に向かって発言しても仕方がないのです。個人個人が慈悲の気持ちを育てて、それぞれの個人が他人と戦わないことを実践すれば、問題は解決するのだということです。

 そして次にすべきことは、無常を体験し、智恵を発達させて、苦しみが完全に消える解脱のこころをつくることです。冥想の目的はこの2つなんですね。(この項終了)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:舟橋左斗子)

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