根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME根本仏教講義→17.人とのつきあい方 (1)エゴイストは後を絶たない (No83)
17.人とのつきあい方
(1)エゴイストは後を絶たない
A・スマナサーラ長老

■ブッダの説く人間関係■
 生きているということは、人間と死ぬまでつきあうことなのです。他人と上手くつきあう方法を知る人が、この世で幸福に生きていられるのです。人間関係を無視することは、誰であっても絶対にできることではありません。今月からお釈迦さまが語る人間関係について様々な角度で考えてみましょう。まず、なぜ人間関係がスムーズにいかないのかと見てみましょう。

■人間はみんなエゴイストです■
 スッタニパータという経典に、次のようなお釈迦さまの偈(詩句)があります。

『人は、何かの目的があって、つきあったり仲良くしたりしている。今の世の中では、自分が何か得をしようという目的のない友人はめったにいない。人間は自分のことしか考えないし、汚れている。だから(聖者は)独りで生活をする。犀の角のごとく孤独でいる』(スッタニパータ 75)

 この偈は二千五百年前の遠い昔から、修行をして心を清らかにしようとする行者たちの間で、ひとつの歌のように暗唱されてきた偈のひとつです。

 「人間はお互いに仲良くしているようですが、自分の都合を考えないで純粋な気持ちで仲良くつきあってくれる本物の友人というのは、まず世の中にはいません」と、お釈迦さまはおっしゃるのですね。

 犀という動物は当時のインドにはたくさんいました。犀は群を作らずに一匹だけで孤独に生活します。心を清らかにした人には独りでも生きていられるという真理を明示するために、犀がたとえに用いられたのです。犀をたとえに聖者の独立主義が語られているのです。

 上の偈によると、「人間はみんなわがままでエゴイストだ」と極端に決めつけていることになります。エゴイストというのは、自分中心で「自分さえよければいい」としか考えない人ですね。自分だけの小さな世界で生きている、すごく暗い人です。ですからエゴイストというのは、一般的に良く思われていません。我々は普通、自分自分、と考えているばかりの自己中心的で我の強い人とはつきあいたくありません。はっきり言って、エゴイストは嫌いです。自分もエゴイストのレッテルを貼られないように気をつけています。けれどもお釈迦さまの言葉によると、「人間はみんなエゴイストだ」ということになるのですね。それが事実であるならば他人事のように「エゴイストは嫌いだ」と言っていられないのです。自分もエゴイストで、人から嫌われる身分になるのです。「あなたとはつきあいたくない」と言ったら、「こちらこそごめんですよ」と言い返されることになります。

■全ての知識はエゴへ向かう■
 お釈迦さまに「あなたはエゴイストですよ」と言われても、嫌悪感を感じる必要はないのです。実は、悟らない限り、私たちはエゴイストになってしまうプロセスの中にいるのです。なぜならば、必ずエゴが成り立ってしまうメカニズムがこころの中にあるからです。それは認識のメカニズムです。“生きている”ということの意味は、外の世界を認識することです。見る、聞く、味わう、嗅ぐ、苦しみや楽しみなどを感じる、ものごとを考える、感情を抱く。これが「生きる」ということです。それを言い換えれば、「外の世界を認識する」ということになります。その認識システム自体が、極端に自己中心というか、自分だけの世界を作ってしまうのです。私たちは自分の目でものを見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で嗅いで、自分の舌で味わって、自分の身体で感じて、外の世界を認識しています。それ以外に外の世界を知る方法はないのです。

 この認識システムについて、もう少し詳しく見てみましょう。たとえば〈見る〉といっても、目に建物や花などが映るわけではありません。ただ、光が色々と変化しながら波動として目に触れるのみです。光の波動が目に触れて何を感じるかというと、変化を感じるのです。「変わった、変わった、変わった…」ということだけを、情報として受け取るのです。脳は、瞬間瞬間の変化の情報を、そのままでは認識しないのです。ある程度の情報量が脳に伝わってから、それに基づいて頭の中で適当なイメージを作るのです。いわゆるシミュレーションするのですね。目から入った光の変化という情報と、頭の中でシミュレーションしたイメージは一致しません。ですから、誰かと一緒に同じ絵を見ていても、それぞれが頭の中で作っている映像は同じものではないのです。同じ絵を見ても、人それぞれに感じるものは違うのです。

 人は自分の認識器官によって、見て、聞いて、味わって、嗅いで、身体で感じて、瞬時に頭の中でイメージを作って認識します。「知った」というのは、イメージを頭の中で組み立てたということなのです。私たちは、事実を知っていると思っていますが、それははっきり言って勘違いです。認識することは「頭の中で自分だけの幻覚を作ってしまった」ということなのです。私が「きれい」と言うものに、他の人は「きれいではない」と言う。人が「おいしい」というものに、私が「不味い」と思う。「落ち着く音楽だ」と私が思う音に対して、人が「イライラする音楽だ」言う。我々はこのような世界で生きているのです。「同感」なんか全く成り立たない世界なのです。

 しかし私たちは、自分が間違っているとは決して思えないのです。私が感動した音楽は、私にとって美しい音楽です。相手に「うるさい雑音だ」と言われると、相手のことを「変な人だなぁ」と思ってしまうのです。

 ですから、我々は自分のことしか知らない世界で生きているのです。この認識のシステムはどうしようもありません。いくら誰かに説教されても、私にとって美味しいものがたちまち不味く感じるはずはないのです。

 ですからすべての生命は、自分の世界以外は何も知らないのです。たとえば誰かと一緒におにぎりを食べて、「おいしいね」「そうだね」と互いにわかったような気持ちになったとしても、相手がどんな味を味わっているか本当に知っている人がいますか? いないと思います。他人が何を見ているか、何を聞いているか、何を味わっているか、それを知ることは不可能なのです。

 そのように、人は皆、自分のことしか知らないのです。自分の世界しか知らないのだから、自分中心にならざるを得ないのです。なぜかというと、他の人のことは何もわからないのだから。どうしても、自分の知っている世界から自分が判断して、考えたりしゃべったり行動したりするようになります。それは避けられません。

■人は孤独で泣いている■
 自分のこころで何かを認識してイメージを作ったら、そこに〈エゴ〉という物の怪がすでに現れているのです。その〈エゴ〉というものが生まれたら、「自分は独りだ」と感じて寂しくなります。そこで人は味方を作ろうと頑張るのです。自分の見解、自分の認識に賛成する人を捜す。そういう人を「仲間だ」と好んで、その人を守ろうとする。当然、自分の見解に反対する人もいるのですが、そういう反対者を「敵だ」と思って潰そうとするのですね。そこに執着の世界、欲と怒りの苦しみの世界が現れてきます。

 本当は、「この人は味方だ」と思うのも「敵だ」と思うのも錯覚です。とにかくエゴが現れた時点からは、コミュニケーションというものは全くありません。人と気持ちが通じたと思っても、それは言葉のカラクリで理解したつもりになっているだけなのです。たとえば「これはすばらしいことですね」「本当にすばらしいですね」という会話から「この人はわかってくれた」と思うのは大きな誤解で、その「すばらしい」という言葉の内容は、一人一人違うはずなのです。

 ですから、私たちが生きている世界はどんな世界か、落ち着いて厳密に考えてみた方がいいと思います。よく観察すると、「コミュニケーションなんか成り立つものなのだろうか」と疑問が生じるのです。

 そういうことだから、人間は本来、ひどく孤独なのです。家族がいる、友達がいる、と思っていても、本当のコミュニケーションは成り立っていません。その孤独感はかなりきついのです。よく「全然私の気持ちを分かってくれない」と文句を言うでしょう。「親はわかってくれない」「ダンナは理解してくれない」「本当の友達がいない」などと深刻に悩んでいる人が多いのではないですか。みんな「私の気持ちを理解してくれ」と希望しているのです。ところが、コミュニケーションなどは、これまでもずっとなかったし、今もないし、これからもない。人間は、自分のことしか知り得ない認識のメカニズムの被害者で、実は厳密に孤独なのです。これが「人間は皆エゴイストだ」という意味です。

■「私が正しい」という爆弾■
 そして悪いことに、私たちは他人に自分の考え方を押しつけようとします。それは大変な問題なんです。人々は自分の主観に、「正しい考え方だ」と、とんでもない錯覚をするのです。「これこそ正しい」と思うところから争いが生まれます。自分の主観を人に押しつけることだけは、決してしてはいけないことなのです。世の中にある殆どの問題の大本はこちらにあります。

 逆に、強引に誰かの価値観に合わせようとするのも間違っています。自分の正直な気持ちを無理矢理に殺すことも苦しいのです。誰かが「きれいだ」と言う絵を、無理に「やはりきれいな絵だ」と思う必要はないのです。もしも「変な絵だ」と思ったならば、「なるほど、私の脳のシミュレーションは『変な絵だ』と判断したけれども、あの人は『きれいだ』と言っている。どちらにしても、別に事実を見ているわけではなくて頭の中の妄想概念なのだから、両方とも別に正しくはないよ」と気楽にいればいいのです。

 何かを認識したら、頭の中でイメージ(幻覚)を組み立ててしまうのはしょうがないことです。目から情報が入ると、瞬時に頭の中で映像を作る。そこまでは自然の流れで、止めることはできません。けれども、そこからは自分でコントロールできるのです。「私にきれいに見えたからといって、万人にきれいだということはない。情報の入り方が変わるとまた変わってしまう。過去の経験や勉強したことによっても変わってしまう」と理解して落ち着いていると、よけいな苦しみを作りません。
 私たちの認識のすべてを、お釈迦さまは「逆さまだ」「歪曲している」(saññâ vipallâsa)とおっしゃっています。仏教用語で〈 顛倒(てんどう) 〉といいます。そこを理解しておいて、自分が認識したものはすべて、それなりに歪曲していることを知っておくことです。

 顛倒して歪んでいる認識を「正しい」と思ったら、必ず「正しい」「正しくない」と争うことになってしまいます。これが人間の社会にはよくあるのですね。だから人々は、大変苦しい、ストレスの多い、競争の激しい、嫉妬憎しみであふれている世界に住んでいます。その中で我々は、不安と恐怖感で怯えながら生きています。(この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:早川瑞生)

次の講義へ→
HOME根本仏教講義→17.人とのつきあい方 (1)エゴイストは後を絶たない (No83)
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.