根本仏教講義
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17.人とのつきあい方
(2)悪友は貧乏神
A・スマナサーラ長老

 前回は、どうしてもエゴイストになってしまう認識システムの中に我々が閉じこめられていることについて、お話ししました。

 生命の生きる衝動は「楽しみたい」ということです。人は、何を考えても、何をしても、『自分が楽しいか、楽しくないか』という尺度で判断して生きています。〈楽しみという感情が生まれると思えばやる、そうでなければやらない〉という単純な構造なのです。そこからも、我々がどうしても自己中心的になってしまうのは避けらない、ということがわかると思います。

 一見、多くの人々はエゴイストではないように見えます。それは、他人から「あなたはエゴイストだ」と非難されないように、自分のエゴを隠そうとしているからです。本心から他人のためを思って、おとなしくしているわけではありません。他人とぶつかるのを避けるために、嫌なことがあってもガマンしたり、欲しくても遠慮したり、自分の気持ちに逆らっても他人に行動を合わせたりして、なんとか協調的に生きているだけなのです。

■「だってそうでしょう」の世界■
 前回お話しした生命の認識システムによって、私たちは自分が認識したことを当然のように「正しい」と思ってしまいます。それは「正しい」というよりも、「だってそうでしょう」という感じに近いのですね。 例は何でもいいのですが、たとえばメガネケースを見ると「メガネケースだ」と自動的に思うでしょう?そこには「だってそうでしょう、これはメガネのケースじゃないですか」というニュアンスがあります。メガネケースに薬を入れて使用しようとする人がいると、その人を叱ったりします。

 その「だってそうでしょう」という気持ちを、パーリ語でmaññanâ(マンニャナー)といいます。この言葉は時々〈思う〉と訳されていますが、実際は〈思う〉以前のことで、〈感じる〉ということでもないし、〈感じる〉と〈思う〉の中間に位置する言葉なのです。何を見ても我々には「だってそうでしょう」という気持ちが常にあるのです。

 そこでお釈迦さまは、エゴをなくした悟りの立場から、次のようにおっしゃるのです。

『この人々を見よ。エゴが出て、私のもの、私の意見、私の考え方、などの主観で苦しんでいる。「私」「私」というエゴのせいで非常に揺れている。誰も精神的に安定していない。水が枯れかけた川で魚たちが苦しむように、ひどく苦しんでもがいている。

 世の中の諍い、喧嘩、戦争などが、「好き」という一言から生まれる。嘆き、悲しみ、憂いがそこについてくる。慢心、噂話、物惜しみ、論争や対立など、すべてがエゴから生まれてくる』と。

 私たちは〈エゴ〉という小さな世界に閉じこめられて、頭の中には厖大な概念が溜まっています。私はこう思う、こう考える、私の好きなものはこれ、嫌いなものはこれ、と苦しんでいます。
 〈エゴ〉という(もの)()が、スムーズな人間関係を壊すのです。

■八方美人で災難を呼ぶ■
 では、そういう世の中でどのように生きればいいかということについて考えてみましょう。

 「人間が幸せになるためにはどうすればいいですか」という問いに対するお釈迦さまの答えが載っている経典があります。そこは『愚か者とつきあうな』という言葉からはじまっているのですね。(Suttanipâta 259)

 「愚か者」はパーリ語でバーラ(bâla)といいます。バーラは「年下の者」という意味なのですが、仏教でいう年上・年下、目上・目下は、年齢によって決まるのではないのです。性格が良いかどうか、善悪の判断ができる人かどうか、ということで決めるのです。人格が優れた智慧のある人は、たとえ七歳であろうとも、年上なのです。

 人間は必ず他人から影響を受けます。誰とつきあうべきかということには、よく気をつけなければいけません。誰とでもつきあって片っ端から影響を受けて途方に暮れるのではなく、友人をしっかりと選ぶべきです。悪い友人とはつきあわないようにします。

 人間というのは他人の真似をして育つものなのです。私たちは物心がついてから死ぬまで人とつきあっています。ずっと他人の影響を受けているのです。ですから、自分の環境、周りの社会を、いつでも善い人間に囲まれるようにしておくと、幸せになれるのです。

 「誰とでも仲良くする」というのは、ちょっと無理な話なのです。理想主義っぽくて、実行は難しいのです。「誰とでもニコニコと仲良くしないといけない」とがんばりすぎると、つい気持ちが悪くなって落ち込んだりしてしまうでしょう。人と仲良くするためにもかなりの力がいります。人間にはそれほど能力があるわけではないのです。

 私たちに与えられている時間は限られています。一日は24時間しかありません。その中で人とつきあう時間はまた限られてしまうでしょうし、やはりどうしても、できるだけ人を選んでつきあうことになるのです。自分の身内として仲良くする人々としては善友を選ぶ。そうすると楽に生きていられます。

■二種の悪友■
 悪い友達というのは、二つの立場で考えることができます。

 一つ目は世俗的な悪友。いわゆる不親切な友人、自分に損を与える友人ですね。影で悪口を言ったり、よけいなことをして足を引っ張ったりするような、つきあいにくい人々です。その場合は自分でも「イヤだな」と思うでしょうから、結局は、自然と離れることになるでしょう。そういう人々とは、できるだけ気をつけてつきあうか、全くつきあわないようにするか、そのどちらかなんですね。

 仏教でいう「悪友」というのは、少し違います。仏教で「悪い友達」というのは、道徳的に自分にダメージを与える人々なのです。心から親切に優しくしてくれる人であっても、悪い方向へ、罪の方向へと自分を誘惑する友達は悪友です。

 わかりやすいたとえでいうと、ある友人があなたに麻薬を勧めて、麻薬を吸う仲間に入れようとする。そして、「もしもバレたら自分が罪をかぶってかばってあげるよ」と本気で言ってくれたとします。世間では悪いことがバレたら相手に罪をかぶせるのが普通なのに、「私があなたの罪もかぶってあげるよ」と言ってくれる。でも、そこまで言う人であろうとも、勧めるのが麻薬だったら、もうごめん、と。「あなたと仲良くすると、私は必ず悪くなるんだ」と、つきあわないことにするのです。

■悪友は罪への案内人■
 人間というのは、やはり罪を犯さないで、善行為をして生きていかないといけないのです。罪を犯して堕落してしまうと、もうどうにもならない。確実に不幸になるのです。

 いくらかお金を損したからといって、不幸にはなりません。仕事を首になったとしても、それくらいのことはなんでもない。他の仕事を捜せばいいのです。本当に不幸になるのは罪を犯した時なのです。罪を犯してしまうと、いくらお金があっても役に立ちません。悪いことをすると悪い結果を得るというのは、確かな事実です。

 ですから「人は罪を犯してはいけない」ということは、仏教では、はっきりしています。善行為をする人は、社会から認められても認められなくても、しっかりと堂々と生きていられるということも、はっきりしているのです。

 経典には、酒を勧める人、賭事(かけごと)を勧める人、夜遊びを勧める人、殺生や盗みなどの不善行為を勧める人、これらの四種類の人々が悪友だと書いてあります。そういう人々は友達ではないんだ、と。そういう人々とつきあうと、暴力を振るう人間になったり、アル中や麻薬中毒になったり、悪事をはたらく人になったり、ずるい人間になったり、詐欺師(さぎし)のような人間になったり、ろくな結果にならないのだというのです。

■嫌な人でも善友かも■
 いくら好きな人であっても、自分を悪い方向に引っ張ろう引っ張ろうとするならば、「この人は友人ではない」とカットした方がいいのです。

 〈嫌いな人〉と〈悪友〉というのは別です。自分が嫌いだと思う人が〈悪友〉だとは限りません。また自分が気に入っているからといって〈善友〉とも言えないのです。悪友は、意外と、よく気に入っている人に多いのです。ですから、皆、いとも簡単に悪友たちの仲間に入ってしまうのです。

 「親のことは嫌い」「先生は嫌い」と言っている人も少なくありません。しかし両親や先生などは、自分のことを本気で心配してくれる善友なのです。善友と悪友を区別する時には、決して感情的な好き嫌いを規準にしてはいけません。人のことを気に入ったり嫌になったりするのは、ただの感情です。理性に基づいた結論ではないのです。感情なのだから、嫌いな人を好きになることも、好きな人を嫌いになることも、できることではないと思います。 友達を選ぶときには「好きか、嫌いか」という主観的な感情は、そのまま置いておいた方がいいのです。「その人と仲良くするべきだろうか、つきあうべきだろうか」と、理性に基づいて判断するべきだと思います。そうすると、「好きな人だが、つきあいはしません」「嫌いな人だけれども、色々と教えてくれたり導いたりしてくれるので、しっかりとつきあいます」と決められるのです。自分の感情を無理に殺すよりは、この方が実行しやすいのです。

 気に入らない人と仲良くするとストレスがたまって苦しくなるのではないか、と思われるかもしれません。その心配は無用です。理性的な判断で行動すると、ストレスはたまらないのです。また、善い友人とつきあっていると、相手が自分のことを真に心配してくれるという実感が生まれてくるので、嫌な気持ちは跡形もなく消えてしまうはずです。 短い人生を、感情に振り回されて悪友とつきあう羽目に陥って不幸になることは、よくないのです。たとえ好きな人であろうとも、その人が悪に誘惑するならば、罪を犯させようとするならば、気をつけた方がいい…というより、縁を切った方がいいのですね。

 それは、気に入って今までつきあっていた人々と喧嘩をしろということではありません。知恵を絞ればなんとかなるのです。どうしても社会的な立場上つきあわなくてはならない状態にいるならば、きちんとわきまえてつきあうことです。精神的に影響を受けないようにすればいいのです。「社会的な立場では知人だが、心の善友とは違う」と決めるのです。それは自分のプライバシーをきちんと守るということです。心の清らかさ、心の平安こそ、守るべき自分のプライバシーなのです。

 仏教を理解すると、しっかりと生きていられる技が身につきます。自分の身をちゃんと守ることができます。つい悪に誘惑されてしまうのは、自分の中にきちんとした理性を持っていないからです。正しい理性を持っているならば、そう簡単には誘惑されません。

 それは頑固さではないのです。理性的に生きることです。優柔不断ではない、ということです。仏教的にいえば、「因果関係を理解して智恵に基づいて生きる」ということなのです。(この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:早川瑞生)

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