根本仏教講義
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17.人とのつきあい方
(7)善友選びから社会人へ
A・スマナサーラ長老

 前回は、真の善友には四つのタイプがあることをお話ししました。しかし、純粋に upakâra (兄のような友)の性格だけを持った人や、atthakkhâyî (先輩のような友)の性格だけを持った人は見つけにくい、と言われるかもしれません。また、一人の人に upakâra の性格が2つと atthakkhâyî の性格が1つあるなどと思ってしまうこともあるでしょう。そう思ってもかまいません。まとめて言えば、「善友」とはこころの中から信頼できる、どんなことがあっても決して見放さない、互いに相手のことを真に心配するような友人関係です。

■宝物は善友です■
 「善友」は仏教の専門用語です。言葉は世俗のものです。世間の言葉を借りて真理を語ると、どうしても少しずつ意味がずれるというか、ピッタリこないところがあります。「善友」の場合も同じです。世間では善友とは仲間のことですが、仏教では両親や先生方、釈尊や仏弟子たちも、皆「善友」なのです。「友」という言葉を使うのは、いくら目上であっても生命は皆平等であるという考え方に基づいているからです。実は、本当に自分のことをこころから考えてくれる存在は、同年輩よりも目上の人に多いのです。けれども私たちは、そういう「善友」には気づかず、かえって敬遠してしまいます。善友は相手のことをおだてませんし、心配して叱ったりするので、何となくうるさく感じてしまうのです。前回のタイトルが「善友は見逃しやすいもの」となっているのはそういうわけです。

 善友についての説明を読んだところで、そんな人はいないではないかと心配する必要はありません。どんな人にも両親や先生たちがいるでしょうし、両親はどんなことがあっても見放さず心配してくれるでしょう。ですから誰にでも善友がいないはずはないのです。けれどもやはり本当の善友は、そんなにたくさんはいないかもしれません。真の善友が一人だけでもいれば最高に幸せなのです。二人、三人もいれば、もう十分すぎるほどです。

 お釈迦さまも比丘たちに「私はあなた方の善き友ですよ」とおっしゃっているのです。もちろん、「お釈迦さまとは友達づきあいだ」などと失礼なことを考える弟子は一人もいません。比丘たちは、両親よりも自分たちの真の幸福を知って導いてくれる親として、お釈迦さまを尊敬していたのです。すごく親しみある慈悲のこころをもって師に接していたのです。

 普通の人間関係というのは、だいたいが表面的な関わりですみます。会社の皆と仲良くしていると言っても、それは表面的な仲の良さです。それから、世の中で言う「友達」はただ一緒にいる仲間というくらいのことなのです。真剣に気にしなければならない程の深い関係ではありません。ですから、もしも学校や会社でいじめられたとしても、こころに深く刻む必要はないのです。「今日はいじめられました」と、軽く流してしまってください。その人たちは善友ではないのだから、別にいじめられても気にする必要はないのです。「私が本当に人格に影響を受けるのは善友からだけです」と意識を持って気をつけていると、しっかりと生きられます。

 お釈迦さまは、「四種の善友こそが真の友人であると知って、こころからその友人に尽くしてください。母親が自分の子供を護るように、そのくらい真剣に、大事に善友を護ってください」とおっしゃるのです。善友は何よりも大切な財産で、宝物です。本当に善い友達がいるのであれば、自分の命と同じなのです。

 これまで悪友、善友について、述べてきました。それらの性格を理解して、自分も、誰かの善友になれるように努力してください。善友に親しく育てられた人は、その恩恵を他の誰かに与えるのです。自分も誰かの善友となって、その相手を真剣に心配して育てるのです。かなり難しいことかもしれませんが、恩恵を受けるだけの人生では良い人間にはなれないのです。

■「社会」はそれほど広くない■
 ここで、シンガーラの話に戻ります(4月号参照)。お父さんからの「六方を礼拝しなさい」という遺言を受けて、毎日毎日何もわからずに礼拝していたシンガーラはお釈迦さまから六方の意味を教えてもらうことになったのでしたね。お釈迦さまは、まず六方を礼拝する準備として「正しい生き方をしなさい、そのためには友達づきあいが大切ですよ」と説かれました。そして、どういう友人とつきあうべきか、善友と悪友について詳しく教えられたのでした。そしてお釈迦さまは、いよいよ六方の意味について語りはじめられたのです。

 ここで「六方」についてちょっと説明します。皆さんは、「六方」とは何のことだと思われますか。仏教で言う六方は、「東西南北上下」ではなく「社会」という意味なのです。私たちはふだん、あまり考えずに言葉を使っています。けれども言葉の定義が曖昧だと、何を語っても正しく相手に伝わらないのです。定義のはっきりしない言葉のことを、私は「浮いた言葉」と言っています。

 「社会」という言葉にしても、「社会とはいったい何なのか」ということをきちんと把握しておかないと、曖昧になります。お釈迦さまはシンガーラに立派な社会人になるための説法をなさっているのです。ですからここで「社会とは何なのか」ということを、きちんと説明なさったのです。

 たとえば、今ここに私がいます。そうすると、必ず「東・西・南・北・上・下」という六つの方向があります。私がどこにいたとしても、そこを中心にして必ず六つの方向があります。寝ていても、歩いていても、仕事をしていても、必ず六つの方向、六方の中にいなければならない。ですから六方とは、私たちにとって決して避けられない世界、無視できない世界、必ず自分に関係ある世界のことです。それが「社会」なのです。仏教で「世界」というと、それは「生命」を指します。生きている自分に必ず確実に関係がある人々、どう頑張っても関係を絶つことのできない人々。それが自分にとっての「社会」なのです。もし私に何か危険がもたらされるとすれば、それは六方のいずれかから来ます。攻撃されるにしろ、批判されるにしろ、必ず六方のどこかからなのです。

 方角については日本でも昔から、「鬼門を避ける」などさまざまな迷信がありますね。インドにも色々な迷信がありました。毎日毎日、方角を占って、「今日家を出るときには、この出口から出ないといけない」などと、まじめにやっていたのです。仏教は、そういう迷信には取り合わないのです。そんな非合理的な迷信によって日々の生き方を管理されるのは嫌がるのです。お釈迦さまは六方(方角)についての迷信を、論理的な話に置き換えたのです。

 お釈迦さまはシンガーラに、六つの方角を次のように説かれたのです。「在家の若者よ、東は両親、南は先生方、西は妻子、北は友人、下は使用人、上は聖職者たちだと知るべきですよ」と。

■東には親がいる■
 お釈迦さまはまず、「東の方向は両親です」とおっしゃるのです。つまり親子関係ですね。私たちはどこにいても、両親との関係をなくすことはできません。偉そうに「両親とは縁を切った」と言う人がいますが、その人は人生の失敗者です。人生がうまくいかなかったということなのです。両親とすごく仲がいいというのは、すばらしいことでしょう。皆、両親が自分のことを護ってくれるのは当たり前だと思っているのです。しかし、それは無責任な考え方です。両親だからといって、必ず無条件で護ってくれるわけではありません。両親との関係がうまくいかなければ、両親の意見にいつでも逆らうのであるならば、たとえ両親であっても邪魔をするのです。子供の行動や活動を壊そう、潰そうということにまでなる場合もあります。幸せに生きるためには、東の方向(親子関係)は大切に護らないといけないのです。

 お釈迦さまは、まず子が親になすべきことを五つ挙げられています。お釈迦さまは「親孝行」という言葉の意味を、五つの項目で具体的に教えられたのです。この五つの項目を実行しなさい、と。親孝行といえば何をすればよいか、とわからない場合もあります。その時は「親孝行」という言葉が浮いてしまうのです。そこでお釈迦さまが、親孝行という言葉の意味を定義されたのです。

 子が親になすべきことの第一は、親を養うことです。自分を育てて一人前にしてくれたのは、両親です。ですから老いた親を養うのは当たり前のことです。親のことを養わない、心配しない人間は、一人前の社会人ではないどころか、人間としても失格者です。仕事が忙しい、などと言って親の面倒を見ることをサボる人は、幸福な家庭を築くことができません。

 二番目は、親の義務や責務を代わりに果たしてあげること。両親は社会に対する義務・責務などを正しく果たして、家族を護ってきたのです。社会から信頼されないと、楽に生きていられないのです。社会に対する義務・責務などを果たすことによって信頼されるのです。親が歳をとったら、親の義務・責務を自分が代わりに果たすと、親の立場も自分の立場も安全なのです。親たちは長い人生の中で色々な社会活動に参加してきたのです。地域の環境を守る会、寺の檀家の総代、町内会、婦人会、神社の行事運営会などたくさんあります。親が歳をとったら、親の代わりにこれらの活動に参加することも、立派な親孝行です。

 三番目は、家の格を護ること。まあ仏教から見れば、家柄などよりも、その人がどのように生きているかということがいちばん大事ですが、俗世間では社会的な立場というのはやはり大切です。古い家柄だとか、代々続いたしきたりだとか、そういうことも両親にとってはとても意味があることです。家の伝統を守ることも親孝行です。現在意味のない伝統や、今さら成り立たない伝統的な商売などもあるでしょう。無意味であるのにそれらを護ろうとして、子供たちが不幸になってしまう恐れもあります。その時は伝統を断っても構いませんが、代わりに、親も誇りに思うほどの立派な生き方をしなくてはならないのです。決して自分の家に恥をかかせたり、迷惑をかけたりすることは良くないのです。

 四番目は、家の資産を護る。親から譲られた財産をちゃんと管理することです。

 五番目は、両親が亡くなったら、ちゃんと供養すること。やはりそれも両親は希望しているのですね。「正しい供養のしかたはお墓参りをすることなどよりも、云々…」という理屈は置いておいて、やはりその国その国の文化で色々な供養のやり方があるでしょう。日本人には日本人らしい供養の方法があるのですから、そこだけでもやらないといけないのです。仏教では、「親が死後も幸福でありますように」と回向するのです。それも大切な親孝行です。

 自分で勝手に「親孝行だ」と思って何かをしても、それが本当に親孝行になるかどうかはわかりません。逆に迷惑になることもあるのです。とにかくこの五つのことをきちんとすれば、ちゃんとした親孝行になります。

■尊敬できる親になるために■
 世の中で「親孝行は良いことだ」と一方的に言っていますが、親孝行をしてもらう資格が親になければ、親孝行をする気にはなれないと思います。孝行というのは一方的ではありません。子孝行もあります。次にお釈迦さまは、親が子供にしてあげるべきことを五つ挙げられました。

 まず一番目は、悪いことをやめさせること。悪いことをしない人間に育てることです。子供が悪事をしようとしたら、怒鳴ったり叱ったりして、決して悪事だけはやらないように育てる。二番目は、良いことをさせること。良いことを元気で頑張ってやれるような人間に育てる。子供を誉めたり叱ったりして、善行為をするような人にしてあげるのです。

 現代の親は、倫理観がムチャクチャで、何が良いことで何が悪いことかわかっていないようです。見栄を張ることは良いことだ、威張るのは良いことだと思って、そういうことを子供に教えるお母さんもいるのです。それを見ているとすごく悲しくなります。子供は親から逃げるわけにはいかないのですからかわいそうなのです。ですから親も勉強して、正しい善悪を子供に教える必要があります。

 三番目は、教育を受けさせること。

 四番目は、適齢期になったら結婚させることです。それも昔は親の仕事でした。現代でも、子供が結婚したら「やっと一人前だ、頑張って下さい」と、親は何となくホッとするのです。やはり結婚するまでは、親は子供のことを心配します。子供が結婚するときには、親が手を貸した方がうまくいくのです。子供には経験がないのだから、つい表面的に気に入った相手を選んでしまいます。そうすると結局うまくいかない。ですから、やはり結婚相手を決める場合は、親の意見も聞いて、親に助けてもらった方が安全です。何か問題があったときでも助けてもらえるのです。

 五番目は、財産の管理を任せてあげる。子供が結婚したら、家の財産を渡してあげるのです。

 このようにお互いに協力して、東の方角―親子関係を大切にするのです。現代では親を無視する傾向がありますが、一方的に子供が悪いとも言えないのです。親の育て方が悪ければ、子供のこころに感謝の念が根づかないのです。世間で言う子供の育て方よりも、釈尊がおっしゃるこの五つの項目を理解して実践することの方が立派な親になる秘訣だと思います。お釈迦さまのおっしゃることはすごく合理的で、ひとかけらも神秘的なことはありません。しかもやってみれば、想像できないほど人生を楽しく生きられます。(この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責:早川瑞生)

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