根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 9

心はこんなに汚れている

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間には皆それぞれ目的がありそれは個人個人違ってはいるのですが、でも考えてみるとみな大同小異というか似たりよったりの内容になっています。同じ人間ですから、そうなって当然だともいえましょう。それら皆さんが目指している目的はヴィパッサナー瞑想法を実践することによって程度の差こそあれ達成することは容易です。ヴィパッサナー瞑想法を実践された方は皆さんその自分の変化(これまで成就されなかった目的が次々と達成されることによって起こる自分のなかの変革)を不思議に思われているようですが、これは不思議なことでも、いわんや奇蹟などでもなく、ごく当たり前の現象なのです。例えば、記憶力や集中力が乏しくて不自由している人はヴィパッサナー瞑想法で勉強できるようになり、集中力も増しどんどん仕事がはかどっていくといったことや、人との係わりで悩んでいる人は、次から次へと人と上手くつき合って、人間関係が大きく広がっていくようになります。すぐ風邪をひいたり、おなかを壊してしまうような病弱だった人もいつの間にか強靭な肉体に変わっていきます。いったいどうしてこんな一般の人たちからみれば奇蹟とでも言うべきような現象がヴィパッサナー瞑想法から起こるのでしょうか。

記憶力の低下も集中力の欠如も、また人に嫌われたり、病弱な体になるのも、みんな自分の心が原因なのです。私たち人間は、とくにこの現代社会において、人との競争や、欲望をかき立てる世の中でさまざまな物質や感情に執着し、その結果欲望に押しつぶされるように自分の心をどんどん傷つけて汚しているのです。人の心を弄んだり、お金や権力に執着したりしているうちに、心は知らぬ間に穢れていきます。そうしたよごれた心がいまの悩めるあなたをつくっているのです。ヴィパッサナー瞑想法はそうした穢れた心を清らかな心に変えていく働きをするのです。

例えば窓ガラスが汚れていて外の景色が見にくくなっていれば、だれでもすぐ窓を拭いて汚れを取るでしょう。机の上がきたなければティッシュなどで拭き取りますね。汗や垢で身体が汚れれば風呂に入って流し落とすでしょう。心も同じことなのです。心もやはり穢く汚れているのです。ただ、窓や机や自分の肉体の汚れは目で確かめられますからすぐ気がついて、汚れを落とすことができますが、心の汚れは目に見えないだけに気がつきにくいのです。でも、実は心こそイの一番にその汚れを落とさなければならない重要な人間の課題といっていいのです。

これまで多くの人々は自分の心の穢さに気がつくこともなく、また気がついたとしても、それを浄化する術を知らないままに、ただ手をこまねいているばかりでした。ヴィパッサナー瞑想法は心を清めるクリーナーなのです。心が清らかに働くようになると、肉体も健康で強靭な本来あるべきかたちに変わっていきますし、あなたを悩ませている記憶力や集中力の欠乏も本来あるべき鋭い働きを出すようになっていきます。心が清らかになれば、どんな人からも慕われ、またあなたのために労を厭わずいろいろな人々が何かと協力してくれることにもなってくるのです。

私たちがよく失敗するとか、後悔するといった事態を招くのは、みんなこの心の弱さ、心の穢れから起こっていることなのです。あなたの心の汚れはあなたの気がつかぬ長いあいだのさまざまな現象のなかで蓄積されてきたものですから、とにかく早く取っていくことが肝要です。

ところで、ヴィパッサナー瞑想法は人間のいろいろな目的を成就させると言いました。そういうふうに言うと、ふつう人はすぐに商売繁盛とか、会社の仕事がうまく行くようにとか、いい結婚が出来ますように等々、目先のと言うか、やはりそこには自分の欲望に照らしあわせた目的がどうしても出てきてしまいます。言ってみればそれらは大変世俗的な目的ということになりますが、はじめはそういう事になっても仕方がないことだと思います。しかし、この世俗的なことをよく考えてみてください。例えば、商売繁盛といったところで、どんなに商売が成功して大きくなったところで、それだけのことでしょう。人間は、永遠に生きつづけることは出来ないのですし、いやもっと現実的に言えばもしかしたら明日死んでしまうかもしれないのです。死んでしまったら、どんなにお金を儲けたところでお墓の中までお金を持っていくわけにはいかないでしょう。どんなに自分の子供をいい子に育てようと躾けや教育に頭を痛めても、子供は15、16歳ごろになれば親から巣立ってしまうのです。何のためにそこまで子供のことに一生懸命になるのでしょう。

私たちは本当の心のあり方を知って、心を清らかにしそのまま保っていくということの大切さを学んできました。そうであるなら、そこまで知ったのであるなら、ヴィパッサナー瞑想法の目的をそんな世俗的なちっぽけな目的などに置かず、もっと未来永劫えいごうの、これからを生きつづける一生を目的に置くべきです。

私たちはもうすでに、人間は輪廻転生によって生きつづけることを知っています。であるならば、いま心の修行を成すことは自分のこれからの“生”に重大な影響を与えることになるのです。自分のこれからのち未来の“生”のあり方を決定づけると言うことになるのです。世俗的な目的でヴィパッサナー瞑想法をやるなと否定しているわけではありません。しかし、世俗的な目的を置くと、もしその目的が成就してしまえばそれでおしまい。ヴィパッサナー瞑想法もそこで止まってしまいます。それでは余りにも刹那的というか、虚しいではありませんか。世俗的な目的は取りあえずそこにひとまず置いておきましょう。私たちにはずっと永遠に必要な目的、即ち自分の心を完全に清らかにしてしまおう、という大きな目的があるはずです。これまでにも幾度となく形を変えて述べてきましたが、人間の究極の目的は解脱”を得ることであるという釈迦尊の教えを実践するその大きな目的の前では、世俗的な小さな目的はどうでもいいんだというくらいの気持がなければ“解脱”への道はどんどん遠退いてしまいます。

しかしこう言うと、なかには何としても“解脱”するんだと頑張って、力んで、“解脱”修行のためには一切を犠牲にしてでもという人がいるのですが、それもまた困りものです。大きな目的ではあるが、そう神経質にならず、ストレスをためないように、解脱できなくたっていいじゃないかというくらいの気持で修行するほうがいいのです。解脱を得るために自分は修行するのだから、他の目的はぜんぶゴミみたいに捨てますという考え方は実は間違っているのです。

家庭内で奥さん一人さえ優しく愛せない夫が、社会で人を愛する資格がないというのと同じで、小さな心の曇りのある人に、大きな心の輝きである解脱はとても覚束おぼつかないことなのです。社会生活が満足にできもしない人は、まず社会人としての生き方から修行するべきです。学校の教師だったらきちんと勉強を教えるだけでなく、道徳や倫理の面でも生徒たちの見本であることを要求されるでしょう。家事や家の管理をきちんとやれない女の人は奥さんとして失格でしょう。そういうふうにいまの自分の本分を全うできていない人間に“解脱”なんかとても出来ません。

例えば欲は修行の妨げになるから捨てなさいと言われますが、この捨て方に二通りあります。この二通りの考え方を“出家”というテーマに当てはめて考えてみますが、一つは自分が余りにも精神的に弱くて俗世間ではうまく生きていけない、しかし自身は落ちついた心を持ちたいという願望のある人がいます。でもこの人は修行となると仕事もあるし家族を養いながらではとても出来そうにない、そこで出家という方法をとれば仕事も家族も捨てて修行できるという大義名分が成りたつ-と考えて、出家するタイプ。二つ目は自分は家族も大切にしきちんとした家庭を築いてきた、会社でも信頼され、部下もみんな優秀に育て上げた、一応のやるべきことは責任を持ってやった、やっと余裕も出てきたのでもう一股上の精神の向上を図りたい、会社の理解も家族の了解も得たので出家したい-というタイプです。

もうお分かりのように、前者は目の前の社会生活の辛い現実から逃れようとするタイプで、はたしてこの人が出家をして成功するかどうかは心もとない。ところが後者は社会生活でもきちんと責任を果たし、みんなに認められて出家を決意していますから、出家者となっても成功する確率はかなり高いのではないかと推測できます。このように、まず社会のなかで自分の問題をきちんと解決してはじめて“解脱”への道が開かれるのです。

私たちは最終的には“涅槃ねはん”と言う高い解脱への目的を持つべきであるということを知っています。しかし、その目的のために自分たちの日常生活の責任や義務を果たさなかったり、無視するようなことは仏教では教えていないということなのです。夫や妻を優しく愛せない人に、どうして慈悲の瞑想の実践が出来るでしょうか。妬みや恨み心を抱く人に、どうして人の歓びを共に分かち合う心が持てるでしょうか。私たちは、まず自分の身近なところ、自分の足元から正しく生きる方法を学ぶべきなのです。そこから徐々に、徐々に、成長していくのです。どんな人間も、いきなり聖人になる人などおりません。一歩一歩、しかし確実に成長し、心を清めていく、そのためのヴィパッサナー瞑想法なのです。

そのヴィパッサナー瞑想法ですが、座ってやることだけではないのです。何をやるにも、気づきということに徹底してください。台所で食器を洗っているときでも、掃除機で部屋を掃除しているときでも、買い物に出たときでも瞑想は出来ます。会社に行く道中でも、会社で仕事をしている合間にも、どこでも、いつでも出来るのがヴィパッサナー瞑想法の特徴であり、利点なのです。

そういう意味から言ってもヴィパッサナー瞑想法は実に合理的で、具体的で、実証性に富んでいる、これは宗教とは一線を画した一種の科学的方法なのです。この瞑想法をやれば、物忘れはなくなり、知識はすぐ記憶されて、必要なときにいい知恵がどんどん浮かんでくるようになります。人間として、本来歩くべき道を一直線に歩けるようになってきます。従って、人間として尊い存在になっていくのです。例えば、自分が正直で、嘘をつけないような人間に変わっていきます。そんなしっかりした人間に変わっていくと周囲も放って置かなくなり、人から騙されるようなこともなくなり、みんなから慕われるようにもなり、人間関係がどんどん開けていきます。殺生もしなくなりますから、あらゆる生きものとの共存が実感として味わえる素晴らしい生き方が出来るようになってきます。これが本当の聖者の道なのです。