根本仏教講義
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18.ありのままを観る智恵
(2)智恵を妨げるもの
A・スマナサーラ長老

 先月は、人間が陥りやすい妄想の世界についての例をお話ししました。妄想を現実と思いこむ仕組みについて、理解できましたか?

■人間の感覚はあてにならない■
 超音波というのは普通には聞こえないのですが、あまり静かになると、私の耳にも届くことがあります。そこら中に限りなくあるものなので、つまらない妄想でもしていなければ、耳について離れないくらい聞こえ続けるものです。耳を通って骨に到達して、痛くてたまらなくなってきます。ですから早めに別の音を出して、耳をそちらに切り替えないと、かなりの痛みを感じるのです。

 超音波などは、我々に聞こえないだけでものすごいエネルギーです。どんどん出していると、からだのいろいろな臓器にぶつかって反射してきます。ですから、全く危険がないと、どうして言えるでしょう。超音波で胎児を見たりしますが、何の危険もないとどうして言い切れるのでしょう。胎児のからだに音がぶつかって反射してきたもので映像をつくるわけですから、聞こえないから安全ということは言えないのではないでしょうか。

 このような例からもわかるように、我々がふだん感じる感覚というのは、非常に弱いものです。耳というのは、ちょっと音が変わっただけで倒れて死ぬくらいのことは十分あり得る話だし、目だって、ちょっと強力な光が入ったら見えなくなってしまうのです。

 その程度の頼りない、事実を伝達してくれないこの『感覚』に基づいて、人類がいろいろな概念をつくってきたということをわかっていただきたいのです。その概念のどちらが正しいか、どちらが間違っているかなんて、さほど気にするような問題ではないのです。世間の次元は、嘘、インチキの世界だと気づく方がよいのです。

■まんじゅうは美味いか不味いか■
 因果法則が身についてくると、日常生活は、とても楽に簡単におくることができるようになります。誰ともけんかする必要がなくなるはずです。それは相手に迎合して、「あなたの言うことはもっともです」と妥協するということではないのです。

 ある人がまんじゅうをもってきて、「これは最高においしい」と言う。もうひとりの人は「とんでもない。気分が悪くなるほどまずい」と言う。根性がない人は、おいしいと言われれば「そうですね」、まずいと言われればまた「それはそうです」と答える。美味い、不味い、とある人はけんかする。ある人はそれもできず「そういえばそうでしょうねえ」と迎合する。それはどちらも、曖昧な生き方でしょう?

 では、賢い人はどうするかというと、「このまんじゅうは最高においしい」と人が言うのを聞いて、その意味を、瞬時に理解するのです。この人はこれを食べて、ものすごい欲が生まれたのだと。まんじゅう自体がすごくおいしいのではなくて、この人に欲が生まれたということなのに、本人はそれを分かっていない。 もうひとりの人が食べて「ものすごくまずい」と言ったのは、怒りが生まれたのだということです。期待がはずれたのです。はじめからおいしいという妄想概念をつくって、それに当てはめて口に入れてみたところ、はずれてしまった。その怒りをまんじ ゅうのせいにしているだけのことだと、瞬時に、理解できるのです。

 ですから誰とも戦わない。だからといって賛成もしない。このまんじゅうがおいしい、おいしくないとけんかする人がいれば、それはまんじゅう自体のことではなくて、あなた方の主観なのだと話をするでしょう。その人によって、場合によって変わることであって、もうひとり別の人が食べれば別の感想を言うことでしょう。だから、そのことでけんかをするのはやめろ、いい加減にしろよと、正しい答えを出すはずです。

 このような人は、世の中で、いつも輝いて生きていられるのです。どんな問題も即座に解決できる知識、能力、才能というのが現れるはずです。賢い人というのは、因果法則を理解している人です。

■冥想も日常生活も同じ■
 ですから、ヴィパッサナーの経験というのも、日常の生き方とは正反対の世界だと思うのではなく、どこにいても生きているのだから同じだと知る方がよいのです。ヴィパッサナー冥想会では、呼吸をして、食べたり、見たり、からだを動かしたりしていますが、生きていれば、まったく同様に、呼吸をしたり、食べたり、見たり、からだを動かしたりしているのです。逆に、修行をしていると言っても、していることは日常とまったく同じなのです。

 冥想会でヴィパッサナー冥想をすることと、学校で先生として教えること、医者として患者に向かうこと、母親として子供の面倒を見ること‥‥が、まるっきり違う、天と地ほど違うと思ってしまったら、冥想なんてできない。会社に勤めに行って、何をしているのですか?

 見る、聞く、しゃべる、からだを動かす、歩く、触る‥‥ただそれだけでしょう?  どこにいても、我々はこの五感で情報を得て、意門(こころ)で妄想している。それだけなのです。智恵はどこででも通用します。そして、智恵のない人間は問題をつくる。智恵のある人は問題をつくりませんからね。だから、問題をつくって泥沼の中にいる人が、ちょっと助けてくれませんかと言ったら、「ああいいよ」と言って助けてあげることもできるのです。

 冥想がうまくいったかいかないかということは、冥想会から帰ってからの話なのです。冥想中はわからないのです。別に、超能力が現れてくるわけでもないし、神さまが降りてくるわけでもないのですから。そんなものがあったとしたらすべて幻覚です。超能力も幻覚です。お釈迦様の超能力というのは、実に科学的なものなのです。

 だんなさんとけんかする奥さんが冥想会に来て、冥想しているときはすごく気持ちよかった。しかし家に帰って2日で、またけんかを始めたとしたら、何もやっていないのと同じなのです。結果はなかったということです。半年くらい、けんかが起こらなくなったというなら、まあ冥想の成果があったのではないかなと思います。会社でよく失敗する人が、冥想して帰ってからは失敗しないでよい仕事ができるようになったというなら、冥想の結果が出たと考えればよいのです。

 気をつけて欲しいのは、無知の幻覚の世界に入るなということです。会社も、我々が生きている世界も、宗教も哲学も、すべて、妄想のかたまりの世界です。妄想で構成された幻覚の世界であって、真理の世界ではないのです。ですから、本当の世界とインチキの世界の線を、どこかでちゃんと引いておかなければなりません。その一線さえ引いておけば、誘惑されて堕落することはありません。 そうすると、我々は、ごくごく自然に、行儀のよい人になる。こころ豊かな人になる。もっと余裕のある人になる。といっても、格好だけ、がんばって余裕を見せているのではないのです。自然とそうなるのです。また、忍耐ある人になる。人の気持ちも理解できる。かといって、がんばって忍耐しても仕方がないのです。自然にそうなるということです。

■怒りませんと気合いを入れる■
 ときどき子供に怒る父親は、「怒ってはいけないよ」と言われてもやっぱりすぐ怒る。それで、それはいけない、怒っても子供は言うことを聞かないと諭されて「ああそうか」と思い、「じゃあ、怒りません」と気合いを入れる。怒りませんと気合いを入れて、怒らないようにする。ですが、それはすごくがんばっているのです。だから、その気合いがちょっと切れてしまったら、また怒鳴ってしまうのです。そのがんばりは、いわば偽善みたいなものなのです。

 性格のおおらかさとか素晴らしさというのは、ごく自然に、何の不思議もなく当たり前に身についているものなのです。「私はヴィパッサナー冥想をや っているのだから、やっぱり怒ってはいけません」と思うとそれは偽善なのです。なぜかというと、がんばって怒鳴らないようにしているから。別に悪いことをがんばっているわけではないのだけれど、偽善であることだけは確かなんですね。やっぱりストレスがたまってしまいます。

 何の意識もせず、何のがんばりもせず、みんなとすごくうまくいく。問題なく、誰ともぶつかることなくやっていけるとなったとき、ヴィパッサナーの成果があったということができるのです。そこで、誰かがちょっと間違った方向へ向かってしまうと、さりげなく、なんということもなく、直してあげられるのです。こころが本物になってくると、人はきちんと話を聞いてくれます。単なる理論は、あまり聞きたくないのです。でも、本当に論理的な人の話は、皆聞くのです。たとえば、自分が本当に怒らないのであれば、他人に「怒るな」と言えば聞いてくれるのです。

 誰かを犯罪者のように思っている人が、ものすごい怒りでふるえながらそれを訴える。その話を全部聞いても、まるっきり怒りを感じず、「ふうん、それでどうしたの?」と答えてあげると、それだけで怒りはすーっと引いちゃったりします。すごい問題や怒りを抱えてきた人であっても、話をした相手が真の意味でおだやかに受け止めたとしたら、「ああそうなの」という一言だけで、風船がぽーんとはじけたように、問題が解決してしまいます。

■瞬間瞬間、終わらせる■
 ヴィパッサナーというのはとにかく、我々が瞬間瞬間やっていることを、いつもしっかり言葉で確認しておくことです。言葉で確認することで、ものごとを一旦きれいにまとめた、終了した、ということになるのです。混乱のない生き方というのは、瞬間瞬間、整理していってしまう生き方です。人間が何か記憶しようとするときも、一番早く覚える方法はきちんと整理されていて、論理的なシステムがあること。それならば、覚えやすいのです。

 ですから、ひとつひとつ、瞬間瞬間、ちゃんと言葉でもって終了して終了していくと、余分な妄想が頭の中に溜まらなくなって記憶力もかなりよくなってきます。ものを覚えておくこともできるようになります。それが役に立つかどうかは別のことですけれど。

 とにかく、心が変わってきているかどうかは、我 々の実際の生き方でわかるものなのです。現実の生き方がしっかりとして、やるべきことができるならば、その分、冥想の成果があったといえるのです。ヴィパッサナー冥想とほかの冥想の違いは、そのあたりなんですね。いつ、どんな問題に出会っても、自分の能力できちんと乗り越えていくことができるようになるのです。それが、社会的な問題であろうと、個人的な家庭内の問題であろうと、こういうことだと理解できること、それはヴィパッサナーの成果だろうと思います。こうではないか、ああではないかと頭の中でさんざん考えるようであれば、智恵があるとはいえません。智恵というのは、問題に出会ったとき、瞬時に現れるものなのです。(この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;舟橋左斗子)

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