根本仏教講義
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18.ありのままを観る智恵
(3)人間関係とは苦しいものか
A・スマナサーラ長老

 冥想と日常生活がかけ離れたものではないこと、冥想の成果は日常生活の変化でわかるというお話を先月はしましたね。いろいろな問題に出会ったとき乗り越えていく能力、智恵が出てくれば、冥想の成果があったと考えてもよいと思います。逆に、いくら冥想がよかったと言っていても、日常生活がまったく変わらないのであれば、成果はなかったといわざるをえません。

■勉強しても智恵は生まれない■
 昔、お釈迦さまの弟子たちは、出家のお坊さまであろうと在家の信者さんであろうと、修行している人たちはかなり鋭い観察能力を持っていました。当時インドでは、女性の地位はすごく低かったのですが、仏門に入った女性の方々というのは、堂々と誰とでもきちんと対話ができ、ディスカッションできる能力を持っていました。どんな宗教者や哲学者の考え方でも、明確に分析して、いいところ、悪いところをズバリと言い当てることができたんですね。当時の女性は学問をしていたわけでもないし、ごくふつうの女性だけれども、修行によって鋭い智恵が現れてきたのです。

 つまり智恵とは、たくさん勉強しているということではないのです。問題が起きたときに、どう対処できるかということなのです。問題が起きたら「わかりません」というのでは、決して智恵といえるものではないのです。
 たとえば商売が上手な人というなら、たとえ経済状況が最悪のときでも、智恵を働かせて新しい方法を考え、商売を作っていくのです。智恵のない人は経済状況の悪さに飲み込まれてしまうのです。
 たとえば、洪水になったら求められていかだを売ってしまう。売ったのはいいけれど、乾季になって品物を運ぼうとしてもいかだがないから運べない。それで手も足も出なくなっちゃうんですね。
 何かできるということは、このような場で問題解決できるということで、智恵というのは、すぐその場で現れなくては意味がないのです。そのためにはこれまでいろいろ話してきましたように、我々の智恵を妨げている固定概念など邪魔になるものを、何とか解決しておかなくてはならないのです。

■智恵ある人の生き方■
 智恵のある立派な人というのは、いくつかのポイントから見ることができます。
 ひとつは戒律ですね。戒律というのは、生き方のことで、しゃべること、行動すること、それらが大変優れていなくてはいけません。

 たとえば、人をいじめてはいけないというのはからだの行動、言葉の行動。戒律でいえばたくさんありますが、からだでやっていること、言葉でやっていることのすべてです。品良く、他人にも迷惑をかけないし、自分にも迷惑をかけない。社会に迷惑をかけないというのはすごく基本的なことなのです。簡単なことのようですが、頭の悪い人は、自分自身をも破壊してしまうのです。自分にも他人にも何の害も与えないということ。
 そして、自分も他人も、どんどん成長して、幸せ豊かに、楽しくなれるような生き方。人生の自己コントロールですね。これがなかなか大変な仕事なのです。
 項目ごとに言うならば、殺生するなということ。こころからすべての問題が出てくるのです。怒りが出てくると殺生につながります。生命に対し、慈しみを育てなければなりません。
 そして「盗むな」という項目では、欲を小さくすることを推奨しているのです。限りなく何でも欲しいと思って苦しむのではなく、自分にとって適量のものをいただいて、生活しなければなりません。それ以上のものを手に入れようとしないということです。欲しいだけ、とりたい放題とって生きることは自己破壊につながります。できるだけ少量の資源で生きていくということを、実践しなければなりません。それは大変優れた生き方です。

 次に、人間は肉体でしか喜びを感じないと思っているのです。だから、死にたくないのです。からだというのは、ありったけの快楽を作ってくれる源泉みたいなものだと思いこんでいるのです。でも本当はそうではありません。
 ひどい風邪を引いたら、お醤油の味もわからないでしょう?
 何か変だな、このお醤油は悪くなっているのではないか、なんて思ってしまいます。醤油が悪いのではなくて、風邪のせいで自分の鼻が悪くなっているだけなのですが。
 肉体が与えてくれるものは、快楽よりも苦しみの方があまりにも多いのです。ほんのわずかなことでも、痛み苦しみは現れます。我々は無知のなかにいますから、からだの感覚は快楽のみだと勘違いしているのです。その勘違いは、一般の人々には「どうしようもない」のですが、やっぱりそのあたりには、気をつけなくてはいけません。自分にも他人にも迷惑をかけない、小さな楽しみならかまわないのですが、自分の時間もお金もすべてなくなるような快楽三昧や、限りなく他人に迷惑をかける快楽の追求はやめなければならないというのが、戒律の3番目です。

 嘘を言うなということは、自分に強い精神力があるかないかをチェックするポイントです。
 たとえば、仕事を何か頼んだら、しっかりやる人か、見張っておかなければやらない人か。見張っておかなければやらない人というのが『嘘つき』なのです。場があれば、嘘をついてしまうのです。人が見張っていてもいなくても、頼まれたことはしっかりやるという人は、精神的に根性の強い人ですし、嘘をつくというところまではいきにくいのです。だらしない性格の人とか、頭が悪くていろいろな感情に流されて、ただ生きている人は、すぐに嘘をつかなくてはならない状態に陥るのです。
 嘘をつかないんだというきまりを守ると、かなりしっかりした、強い性格が作れます。そのような人こそ信頼できるのです。

 戒律の5番目で、馬鹿にならずに健康に生きられます。麻薬や酒などを使わないでいると、ちゃんと健康で行儀良く、品ある人として生きていられるのです。
 戒律とは言いますが、要は「道徳的な生き方」ということです。智恵ある人は、少なくとも道徳的な生き方をしているでしょう。道徳的な生き方をしていないと、いくらがんばっても智恵も出てこないんですね。いくら冥想しても、生き方がだらしなければ、1日が終わればまた、元のだらしない生き方に戻りますからね。それではまったく効き目がないのです。一歩も進まないのです。
 智恵は、しっかりした正直者で、いい意味で大変プライドの高い人でなければ湧いてこないのです。嘘やごまかしで生きている、詐欺師みたいな性格ではだめなのです。しかし、正直者か詐欺師かは、他人にはなかなかわからないものなんですね。

■夏の涼しい風のような人■
 他人が本当に道徳的で信頼できる人かどうかを判断するのはなかなかむずかしいことです。それはこころのからくりのようなものですからね。他人に対して、「よくできている人」だとごまかして見せることはむずかしいことではありません。表面だけ磨いておけばよいのですから。表面だけ磨いて他人に良い顔を見せることは、誰もがやっている普通のことです。我々が特に親しくつきあう人を選びたいなら、このような格好で選んではいけません。本当に道徳のある人を選ばなければなりません。そういう意味でも、お釈迦さまは、とてもすばらしいことをおっしゃっていますよ。

 我々は、すぐに人を差別しますからね。あの人は格好悪いとか、日本人じゃないとか、だから追い出そうとか、そんな感じで、中に入れるか入れないかという判断は、大体そのようなものなんですね。そのような基準はまったく無意味なことで、人はなに人であろうが、男であろうが女であろうが、良い道徳観があって戒律を守っている人であるなら、その人と親密な人間関係を作った方が、自分のためにはなりますからね。自分が成長できるのですから。

 世の中の人間関係によって、多くの人が苦しんでいますね。なぜそれほど苦しいのか。それは、誰ひとり、道徳を持っていないからなのです。言葉は汚いし、人をけなし、侮辱し、自分は好き勝手に言いたい放題のことを言う。何の自己コントロールもないのです。食べるときも、電車に乗るときも日常のどんな場面でも、行儀の悪い人がいれば周りは大変な迷惑です。
 ですから、人間関係を作ることは、自分の性格を正す仕事なのです。性格を正すということは、戒律を守ることになるのです。戒律がなければ、人間関係がむずかしいのは当たり前のことです。一時的な人間関係でさえ、たいへんな苦しみを作ります。だからといって、人とまったくしゃべらないで生活ができるかといえば、それもできません。
 「ひとりで生活しなさい」というお釈迦さまの言葉がありますが、それはお釈迦さまの悟った弟子たちに言われたことであって、普通の人にできることではありません。

 それならば、誰かとつきあわなければならないというなら、信頼できる人がよいですし、それには戒律のある人を選んだ方がよいでしょう。その人は、おばあちゃんであろうがおじいちゃんであろうが、子供であろうが女性であろうが、男性であろうが外人であろうが、原始人であろうが、関係ないのです。性格だけを見て、仲良くされてみてはいかがでしょうか。
 そういう人を見つけて仲良くしてみてください。ものすごくリラックスできるのです。人間関係というのはすごく苦しいと思っていたのに、まったく正反対だと感じられることと思います。あまりにも素晴らしいと思うはずです。
 温泉に入ったような感じではだめなんです。温泉だと、ずーっとは入っていられませんからね。たとえて言うなら、夏の涼しい風に当たったような感じでしょうか。夏に涼しい風に何時間当たっても、気分が悪くはなりませんからね。24時間当たっていても。すごく身近で親しくする人には、そういう人を選ばなければなりません。

 そして自分自身に対しても問題は同じです。私たち自身も、そのような性格を作らなければなりません。自分ができていないと、そのような人はなかなか寄ってこないのです。行儀のできている人、品のある人が、品のない、だらしない人間を探し求めて行くでしょうか。そういうことはあり得ないのです。だから、だらしのない人間が、品のある友人をいくら探しても見つからないのです。

 もうひとつ人間に必要な道徳として、『忍耐』をお釈迦さまはあげておられます。『我慢』という言葉に入れ替えてはいけません。我慢というのは、嫌なことを強引に押さえることです。
 ではなぜ忍耐が必要かというと、世の中がどのように変わるかは誰にもわからない、わからないと言っても、世の中は瞬時さえも停止していない。ずーっと変わり続けていく。その変化のときには、我々は時々損をするし、また時にはほめられ、ある時はけなされ、非難される。またある時は大変楽しくある時はものすごく苦しい。今名誉があっても次にはすべてが消えて、社会から追い出される可能性もある。今幸福でも、次には不幸になるかもしれない。変化が止まらないことを理解する必要があるんですね。しかし無知な人は止まって欲しいと思ってしまうんですね。得だけ、楽だけ、幸福だけ、ほめてもらうことだけ欲しいと思うのです。悪いことは要らないと思うのです。しかしそれはあり得ない。だから幸福なときにも落ち着いて生き、不幸なときも落ち着いて対処できる忍耐が、必要であるのです。
(この項つづく)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;舟橋左斗子)

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