根本仏教講義
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19.お受験で知識をはかれるか
(1)人生はいつもお受験
A・スマナサーラ長老

 試験というのは、自分のことをはかる方法のひとつです。ですから、受験するということは、他人に評価してもらうことになるのです。今回から、「お受験」ではかれるものは何かといったことを話題にして、新しい根本仏教講義をスタートしたいと思います。

■毎日が試験の連続■
 受験するということは、他人に評価してもらうことです。ですから、試験をする側は何か尺度を持っているはずです。「これで人をはかってみよう」というものを持っていないとはかれないのです。ですから『試験』の意味は、他人がその人の勝手な尺度を持っていて、それによってこちらの能力をはかるということです。

 つまり、そこに自分の自由はなくなってしまうのです。「私はこういうものです」ということは成り立たないのです。「あなたが何者であるかは私が決めます」と、人の尺度ではかられることなのです。

 我々は一生、死ぬまで試験にさらされていますね。学校の試験だけが試験ではありません。人生ずっと試験なのです。人が自分のことを評価する、はかることになっているということです。尺度は他人が持っていて、人生は、自分の自由、自分の思考通りにはいかないということを、まず考えておかなければなりません。

 この世の中に生きている間は、自由に、自分の意見や思考通り、自分の思う通りにはいかないのです。とにかく誰かが何かを言うのです。「これは違います。こういうふうにしなさい」と。「こういうふうにしゃべりなさい」「こういうふうに歩きなさい」と、何でも言われるんです。それに合わせないと、なかなか人間の世界では生きていられないのです。

 「私は自由だ」といくら言ってみても、実際は生まれたときから死ぬまで、自由にはなれないのです。いつでも試される、評価されるということになっています。ですから、この世の中で成功する人というのは、それに対して準備しておくのです。『自分の自由』ではなくて、いつでも人が勝手に判断して評価するのだからということで、どういうふうに判断しても、自分が合格点を得られるように準備しておけば、死ぬまでどこにも失敗はないと思います。

 まず考えてほしいのは、その点です。子供たちだけではなく、みんながいつも受験しているのだということです。毎日、何か試験があるのだと。人に会うたびに、人は自分のことをはかろうとする。その場合は悪い点数を出さないようにしなければなりません。『人間関係が悪くなった』というのはそういうこと、つまり他人が自分に悪い点数をつけたということなのです。

 人間関係というのは、結局のところ互いに思いやってコミュニケーションをとっているわけではないのです。相手を試してみよう、はかってみようということなのです。話しているときでも、ずっと心では、判断、判断、判断を続けているのです。そこで自分が相手から良い点数をもらえなかったら、人間関係がまずくなったということになるのです。

 結局、人間関係というのは『試験』し合う関係なのです。そこを忘れちゃうと、みんな失敗してしまいます。夫婦関係でも、親子関係でも、嫁と姑の関係でも、結局は互いにはかっていますよ。親は子供をはかっているし、子供は親をはかっているし、いい点数をとらなかった人は大変な目に合う。親が子供にいじめられるときでも、子供の試験に親が合格しなかったということでいじめるのです。親が子供をいじめるときも同じことです。

 この世の中で平和に生きていたいなら、成功して生きていたいなら、合格して生きていたいなら、「一生が試験だ、一人一人の人間が試験官である、私は受験者である」と思って生きていれば、何ということなくすごく気楽に生きていられると思います。

■すべての試験に合格すべきか■
 「人間は自由だ」「自分のアイデンティティを持って生きるべきだ」とか、「現代人はちゃんと自分のアイデンティティを持って、自分の意見を持って生活すべきです」と言うときは言うのですが、自分の意見を出してしまうとえらく叩かれるのです。自分の意見、アイデンティティ、個性を持って生きてみようと思ったら、親に叩かれるし、先生に叩かれるし、会社から叩かれるしで、きりがないのです。

 「人間は自由だ」と言ったではないですか?「人は自分の個性を持って、アイデンティティを持って生きていればいい」と言ったではないですか? といくら言っても、現実の場面になると聞いてもらえないのです。だから、人間が言うことはあまり当てにしない方がいいのです。誰も真剣にしゃべっているわけではないのです。自分でも何をしゃべっているかわからないのです。

 仮の倉庫を作って、天井がない場合、アルミのシートを貼ったりしますね。それに雨が降るとどうなりますか?

 すごくうるさいでしょう。中にいることができないくらいです。世界とはそんなものです。しゃべるわ、しゃべるわ、しゃべるわ。説教をし、あーしなさい、こうしなさいと言う。結局は誰も真剣ではないし、ものごとをわかっているわけではないのです。

 『個性』ということを考えても、結局は個性を認めない。それならなぜ「人間はアイデンティティとか個性を持って生活しなくちゃいけない」と、偉そうに言うのでしょう? それは自分のアイディアが出てこないので、人から新しいアイディアを出して欲しがっているのです。それで「個性を持たなくてはいけない」と言うのです。結局、人間はわがままなのです。だからといって、アイデアを出しても、きれいさっぱり否定されてしまうのです。そういう世界で、我々は生きているのです。

 我々が自分なりの論理で、「人は自由である」とか「自分の好きなことをやればいいじゃないか」と思っても、世界はいつでも我々を試しています。試す場合は必ず『尺度』というものがあるのです。

 そこで、試験を受けることにします。人にはかってもらって「いい点数を出そう」と。学校に評価してもらおう、大学から評価してもらおうと、いろいろな試験に合わせる。ということは、相手の尺度に自分を合わせることになるのです。「この会社には英語ができなければ入れません」と言われれば、入社したい人は英語を勉強するでしょう。勉強して英語をしゃべることができる人間になるでしょう。ですから、受験することは自分の人格が変わるということです。そこを覚えてほしい。人は一生、受験するし、受験するたびに、自分の人格が変わるのです。相手に合わせますからね。それも大変大事なポイントなのです。無視できるものではないのです。

 問題は、どんな試験でも受ける必要があるのかということです。たとえば相手がとんでもない尺度を持っている場合は、その試験を受けようとすれば、自分の人格がとんでもないことになります。たとえば暴力団に入りたいならば、その尺度があり、試験があります。誰でも入れてくれるわけではないのです。暴走族に入りたければ、そちらにも試験があるのです。いろいろと調べるのです。そこでもし暴走族に入れたならば、自分の人格はそのような人格になっているのです。暴力団に入団を認められたならば、自分の人格も暴力的になっているはずです。でなければ合格はできません。

 大切なことは、我々は死ぬまで人に試されていますが、みんなに認められなくてもいいのだということです。落第すべき試験もあります。合格したらダメだという試験もあるのです。どんな試験にも合格する必要はないのです。「こういう試験だったら堂々と落第するぞ!」という試験もこの世の中にあります。それは相手の持つ『尺度』の問題です。相手が危険な尺度、とんでもない尺度を持っている場合は、その試験は受けない方がいいのです。  たとえば学校の中でも、みんな仲間をつくります。そのグループの試験に合格しないと、グループには入れてくれません。とにかく学校では、仲間を作らなくちゃという人の話にのせられて、わざわざどこかのグループに入ろうとするのがいい、とは限りません。そのグループがどんな尺度を持っているかが大切です。とんでもない、ろくでもない尺度を持っているグループの試験を受けるくらいなら、一人でいればいいのです。学校では友達がいなくてもいいのです。「仲間はずれになっている」とか、「友達がいない」とか言われるかもしれません。でもその場合は落第してもいいのです。これが尺度について覚えてほしいポイントです。

 それから、尺度が、よい尺度であるなら問題はありません。たとえば学校の試験は、知識をはかるのです。知識の尺度です。だから学校の試験に合格すればするほど、知識人になっているのです。知識のある、よく物事を覚えている人間になるのです。  数学の試験に合格したら、数学の知識がある人として認められる。大学でも知識をはかるのです。学校という世界は、単純に知識だけはかる世界ですから、それには合格したほうがいいのではないかと思います。合格するならば、一番上のレベルで合格した方がいいのです。その受験にちょっと苦労してもたいしたことはありません。

 「学校で、自分の人格がわかるわけない」とか、「あの先生は数学しか分からないのではないか」「あの先生は音楽しかわからないのではないか」とか、屁理屈を並べる必要はありません。音楽を教える先生は、音楽の試験をする。それでこちらの音楽能力のみをはかるのです。数学の先生は、数学の能力のみをはかるのです。だから「その先生は音楽しかわからない」といって我々が馬鹿にする必要はないのです。わからなくてもいいのです。ひとつの試験が、人の人格をすべてはかるわけではないのです。

 教育の世界では、あらゆる試験があるのですが、はかるのは能力のほんのわずか、一部なんですよ。  私の知っている人で、落第した人が何人かいます。私は本当はそれは好きじゃないんですね。学問や知識の評価はあまりしないのですが、やっぱり誰であれ、試験には落第してほしくないのです。情けないと思います。その場合、よく聞いてみると、単純に試験を受けるのではなくて、余計なことを考えているのです。

 たとえば、弁護士になろうと思って法律の受験をすると、「法律というのはいい加減でよくない」とか「それで人を助けられるのだろうか」とか考える。そんなことはどうでもいいのです。試験というのは、法律的なテクニック、ノウハウを持っているかいないか、ただそれだけを見るのですから。自分はその能力が身についているかどうか、ただそれだけを試験されればいいのです。踊りの受験なら、踊ればそれで終わりなのです。踊りはあまりよいことではないなどと言っても、試験する側には関係がないのです。試験で測ることができるのは、能力のごく一部なのです。
(この項つづく)  

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;舟橋左斗子)

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