「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【100】 こころの裏表
Q: ヴィパッサナー冥想をしていて、いろいろと自分のことが見えてきました。それでひとつ驚いたことがあります。例えば会社の仕事などで、自分では一生懸命やっていたつもりだったのに、やる前から失敗することばかり考えていて、言い訳を考えたり、わざと失敗するようなことをしているのに気づいたのです。これはどういうことなのでしょうか。

A: 自分を観察して、自分には表だけではなく、裏のこころもあると気づいたのです。自分がまじめにやっていたつもりだったのに、裏のこころが自分がわざと失敗するようにカラクリをしていた。まったく自分で気づかずにやっていたことなので、驚いたのです。

 表面化していないこころの力は強力です。強い力を発揮するのは、こころの表面的な部分ではなく、自分のこころの裏に隠れている部分なのです。「ダメだ」と思っているのについ悪いことをやってしまうことが、よくあるのではないですか? それはそういうわけです。裏のこころの貪瞋痴が、実際の行動を決めているのです。人は「怒るのはよくない」と思いつつも怒ってしまう。ウソはダメだと知っているのにウソをついてしまう。それがなぜなのか、わからない。そこでどうにもならないと感じて、「運命だ、定めだ、業だ」などと言い訳しています。本当は、すべて自分のこころが原因なのです。

 表面的な貪瞋痴、例えば「これが好きだ、これが食べたい、そんなことしたらダメでしょう」など、簡単にわかる欲や怒りは、大したトラブルにはなりません。自分でなかなか気づくことができないところにも貪瞋痴が隠れています。それが問題なのです。そこをありのままに見ることができれば問題は解決します。しかし、それがなかなか難しいのです。

Q: そのためには、ヴィパッサナーの実践をするということになりますか。

A: そうです。今までもヴィパッサナーで、いろいろと発見したのでしょう。他の方法があるわけではないのです。ヴィパッサナーをもっとがんばると、いろんなこころのはたらきが見えてくると思います。

Q: ヴィパッサナーをやりながらも、ヴィパッサナーを失敗する方向にいくように自分のこころが自分をだますとか、そういうことはあるのでしょうか。

A: そういうことは、しょっちゅうあります。だから、一生懸命に冥想しているのに全然性格が直らない人は、いくらでもいるでしょう。

Q: それも自分で見つけていくのでしょうか。

A: 自分で見つけるしかありません。他に方法はないのです。もし私がそれを指摘したとしても、こころは直りません。それどころか、「こんなに真剣に修行しているのに人をけなしてばかりいる」と反発して、怒るのが目に見えています。だから自分で気づくしかないのです。

 人に言われて素直にこころが直るのであれば、人類は、もうとっくに完璧になっているはずでしょう。だって、どんな国の本を見てもいくらでも善いことが書いてある。けれども人格者というのはどこにもいません。人からいくら言われてもこころは直らないということは、はっきりしています。それは、こころの法則なのです。

 たとえ自分がだまされていることを発見できたとしても、一度発見してそれで終わりではありません。またすぐにだまされてしまうのです。ですからとにかく「常に淡々と自分を観ていく」という方法で観察を続けていくしかないのです。怒りが出たら「怒り」、眠気が出たら「眠気」などと確認しながら観察していくと、一つ一つちゃんと観えてきます。

Q: 最初から逃げる言い訳を作っているのは、挑戦することを避けようとする「怠け」が原因なのかと思うのですが、どうでしょうか。

A: それはケースバイケースです。「これは怠けだ」と、一つの原因で片づけようとしていますが、そう簡単ではありませんよ。そんなに単純に結論は出せません。もうちょっと複雑なのです。

Q: よくわかりません。

A: わからないでしょう。ですから、さらに観察してみてください。私が説明しても頭の表面的なところにしか入らないと思いますが、一応、説明することはできます。怠けだけでなく、怒りが原因になる場合もあるし、自己愛というか、自分をすごく大事に評価していることが原因になることもあります。裏のこころの場合は、なかなか純粋に「怒り」とか「自己愛」とか、はっきり見つけるのは難しいのです。自分でもわかりにくい形で出てくるので「これは怒りですよ」と指摘されたとしても、「本当にそうかな、違うのではないか」という気持ちになるのです。

 例えばある仕事を自分がやりたくないとします。でも表面的には、「これは自分の仕事なのだからやるのは当然だ。しっかりがんばろう」と思っているのです。そうやってまじめに仕事をしているのだから、「やりたくない」という自分の隠れたこころ(怒り)には気がつきません。けれども裏の怒りのこころは、「それを壊しなさい」と言っている。当然、一生懸命にやったのに結果は失敗ということになるのです。

Q: 裏のこころは本当の自分ですか。

A: 「本当の私」などはいません。自分を客観的に観察 して、「私」という感覚、その実感は何なのか、それはどのように現れるのかを研究していくと、真実の姿、いわゆる無我であることが発見できます。私たちが引っかかっている貪瞋痴の大本は「私がいる」という実感です。それがすべての問題の原因を作っています。「私がいる」から欲がある。「私がいる」から怒りがある。その「私がいる」と思うこと自体が痴であり、煩悩の土台になっている。

 無我であることが発見できると、こころの裏表は消えてしまいます。こころの裏表が消えても、やりたいとか、やりたくないという気持ちはあります。でもそれは表面的なレベルなので、たいしたことはありません。「やりたくないよ」と言いながら「まあいいや」と軽くやってしまうこともできます。もう裏でジャマすることはないからストレスもないし、成功することも簡単です。

 そのためにはとにかく、ヴィパッサナー冥想を続けるといいんじゃないかなと思います。

Q: 慈悲の冥想をすると「自分と他人」という区別がなくなると聞いたことがあるのですが、そのことと、ヴィパッサナー冥想をして自我がなくなるということは、近いというか、共通している部分もあるのですか。

A: 例えで言います。すごく苦い劇薬が小さじ一杯あ るとします。劇薬だから、飲んだら死ぬかもしれません。それをコップ一杯の水に溶かします。その水を小さじ一杯だけ飲むならば、毒性はかなり薄まっているから大丈夫でしょう。しかし、それでもやはり危険がないわけではありません。そのコップ一杯の水をかなり大量の水に薄めたならば、小さじ一杯ぐらい飲んだとしても、まったく危険はありません。もう毒でも何でもなくなっているのです。では、毒が完全に消えてゼロになったのかというと、そうではないでしょう? ごく微量にしろ、どこかに毒が含まれているはずです。ただ、もう人間に攻撃することはありません。それが慈悲の方法です。

 ヴィパッサナーでは「この劇薬は毒だから捨てましょう」と、毒を全部捨ててしまうのです。そうするともう完全に安全で、毒性はゼロです。

 慈悲の冥想を完成させた人は、自我がすごく薄くなっています。だから、もし毒性がゼロになりたいと思えば、ちょっだけヴィパッサナー冥想をすれば、とても簡単に成功します。すぐに完全に清らかなこころをつくれるのです。

Q: 慈悲の冥想で自分が変わったならば、それは自分ではっきりとわかるものなんですか。

A: それはいとも簡単にわかります。でも、いくら慈悲の冥想をしても、まじめにやらないと変わることはできませんよ。「まじめ」というのは、正直ということです。例えば、「親しい人々が幸せでありますように」と念じたら、裏のこころからそれを思わないと。表で思っただけでは、なんとなくその気になるだけで、錯覚で終わります。正直にこころの裏から思えたならば、すぐ、その瞬間にでも、自分が変わったことがわかるのです。

Q: 慈悲の言葉は、念じるといっても、あまりウンウンと力む感じでやるのではないということですか。どこか力が抜けた感じの時の方が、これが慈悲のこころなのかなと思えることがあるのですが。

A: とにかく「正直」ということが大切です。こころが正直に回転しているか、いないか、ということ。強くがんばって念じても、表面だけの気持ちであれば、上滑りする可能性はあります。だからリラックスして、正直に念じることをこころがけてください。

 なぜ「念じる」と言うのかというと、私たちは、つい、慈悲のこころを忘れがちなのです。一回だけ軽く唱えても、こころに石に彫ったみたいに慈悲が刻み込まれるのなら、それでいいのです。けれどもこころは無常だから、ものに触れるたびに変わります。優しい人でも、優しくない人に触れると怒りが出るのです。落ち着いている人でも、混乱している環境に入ったとたんに、混乱してしまうのです。人間のこころにある、怒りであろうが、欲であろうが、嫉妬であろうが、混乱であろうが、憎しみであろうが、永久的に持っているものではありません。その場その場で、起こる反応なのです。

 人は、こころに悪いクセがついていて、すぐ悪い方向に反応してしまいます。だから我々は、慈悲を念じることを奨めるのです。頭の中で繰り返し慈悲の言葉を念じていると、自然に慈しみの反応が出るように変われるのです。こころに「慈しみ」というクセをつけてもらうのです。

 「人は、生きとし生けるものが幸せでありますようにというポリシーで生きていかないといけない。皆がやらなくても、私がやろう。私はそういうポリシーで生きよう」と決めて、自分に言い聞かせるのです。それを朝晩、いつでもしょっちゅう思い出して、慈悲のポリシーを身につけておくのです。

 それで、たいへん立派な人間になれます。「悟ってから楽になるぞ」というのでは、それまではどうするのかという問題が出てくるのです。お釈迦さまは、仏教の修行は、はじめた瞬間から幸せでいなさいよとおっしゃるのです。修行中でも、気楽で、幸せで、明るく楽しくがんばってください、と。「将来の善い結果を目指して、今は苦労するぞ」というのは俗世間の話で、仏教の話ではありません。善い結果を目指すのであれば、そこへ行く過程も楽しいはずです。慈悲を育てて修行に励むと、悟りを得るまでの間も十分幸せに生きていけるのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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