「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【102】 「無価値」は真理のキーワード
Q: 「一切の現象には価値がない」という無価値論についてお訊きします。人は何かに価値があると思って、そのためにがんばるのだと思います。何にも価値がないと思ったら、がんばれなくなっちゃうんじゃないでしょうか。

A: おっしゃるとおり、皆、いろんなことに価値を入れて、がんばって踏ん張って生きています。それで、苦はあるわ、楽はあるわ、時々うまくいく場合もあるわ、失望することもあるわ、きりがないんです。何をやっても終わりがない。「これでよかった、ほっとした」ということにはなりません。ずっと火事のような感じで、いつでも燃えています。こころも体もくたくたに疲れて、休めません。それが死ぬまで続くのです。だから仏教ではこう考えます。「生きることは大変だ」と。その苦しみは、何かに「価値がある」と思うところから生まれてくるのです。では本当に「価値」というものがあるのかと調べてみたところ、無価値を発見するのです。それを「悟り」と言っています。一切のものに価値がないとわかると、あの苦しみの炎が全部消えてしまうのです。

 だから言葉上では、「無価値を発見することに価値がある」と言えます。でも、すべては無価値だと発見したところで、無価値という言葉も必要なくなります。悟りの境地は言葉では説明できないのです。ただ、悟った人はすごく安らかなこころでいるということは確かです。こころが穏やかで落ち着いて、ひとかけらも悩むことがないならば、それこそ、ありがたいのではないですか。

 無価値論をいきなり理解しようとしても難しいでしょう。でもブッダの教えは全部具体的です。神秘や形而上学、迷信はない。これ以上に論理的で理性的な教えはないのです。だから本当は、わかりにくいものではありません。理解するためには自分で修行することです。できれば、理解しようと、仏道にチャレンジしてみてください。

Q: 我々は、好きなものに対しては「価値がある」と思っていますが、苦しいことや嫌なことは「価値がない」と思っています。それと「無価値」とは違うのでしょうか。

A: 何かを「好きだ」と思うと、そこに「価値がある」と思って欲が出ます。それで、そこから離れられなくなってしまいますね。そうなると、欲しいものの機嫌を取って、そちらに操られて生活しないといけないことになる。こころの自由というものはなくなってしまいます。結局、好きなものの奴隷になってしまうのです。「これが大事だ、これに価値がある」としがみついたとたん、自分はもう奴隷になっているのです。言われる通りに生活しなくてはいけなくなって、「こころは独立させなくてはいけない。こころを無制限に無限大に成長させなくてはいけない。すべてのものを乗り越えなくてはいけない」という、ブッダに教えられている道も捨てたことになります。

 では我々が、嫌いなもの、苦しいものを、「価値がない」と思っているかというと、まったく逆です。「イヤなものだ、苦しいものだ」と思ったとたん、かなりの価値を入れてます。本当に「価値などない」と思ったら、イヤだとも苦しいとも思わないはずなのです。そこをごまかすと、自分のこころの弱みに気づくことさえできないという、とんでもないことになります。我々は嫌いなものに対して「憎むべき、避けるべき、潰すべき、攻撃するべき」と、すごいエネルギーを出してがんばるでしょう? 自分が、嫌いな人、憎んでいる人から本当に離れているどころか、ぴったりとついているんです。イヤなことは、すごくしつこくこころで持ち運ぶのです。決して忘れません。好きなものを忘れられないこととまるっきり同じです。ただ、味の差だけです。納豆とソフトクリームは味が違いますが、どちらも食べ物であることには変わりがないでしょう。そんなものです。

 だから、好きなもの、楽しい経験も、嫌いなもの、苦しい経験も、自分がこころで大事に護っています。それをブッダが「無知」とおっしゃっています。自分を苦しめるもの、自分を奴隷にするもの、自分のこころの能力をドンドンなくして全く機能しないところまで小さくするものにそんなにも価値を入れているならば、「無知」と言うしかないのです。

Q: 「苦でも楽でもない」と感じる場合はどうでしょうか。

A: 好きでも嫌いでもない場合は、無関心でしょう。無関心な時、こころはどうなるんですか。活発に機能しなくなるのです。衰えてしまう。落ち込むんです。眠く、鈍くなる。だから、無知を成長させることになって、結局何よりも悪いのです。無知は煩悩の大本です。無知だから好きなものに依存する。無知だから嫌いなものに依存する。破るべきなのは無知なのです。

Q: 「価値を入れない」ということは「無価値」とは違いますか。

A: 「価値を入れませんよ」というと「本当は価値があるんだけど私は価値を入れないよ」ということでしょう。仏教で「無価値」というのは、価値を入れようが入れまいが関係ありません。すべてのものには価値がない。それで終わり。

 すべてに価値はないと理解した人は、欲はつくりません。怒りも現れません。何ものにもその人を左右することはできません。管理することもできません。その人こそ、どんなものにもとらわれないということになります。そういう解脱の世界、平安の世界は、一切は無価値だと発見することで成り立つのです。

 それは自分で発見しようとチャレンジしないと理解できません。中途半端に「そうですか、無価値ですか、よくわかりました」と口で言っても、全然認めません。そんなのは単なる信仰です。はっきりした事実として理解するためには、「価値がないのですか。では調べてみます」とチャレンジするのです。自分で修行して調べた結果、「答えがでました、やはり無価値でした」と言ったなら、認めます。しかしその人は、別に認めてもらう必要はないのです。無価値であるとわかった人は、すでに自由な境地に立っています。「私のこころは自由になりました。それを認めてください」と言うと、認めてもらうことに依存している。自由ではありません。悟りの許可証、免許証は出しません。出すこともできません。

 「無価値」がわかるためには正直でないと。偽善者にはできません。「すべては無価値ですよ」と言われて、「ああそうですか」と欲を抑えようとしても、本物ではない。そうではなく、今の自分はものごとに価値を入れている。それで欲や怒りがある。そこを認めたところでチャレンジするのです。「どんなものにも何一つも価値がない」と理解するためには、かなり勇気が必要です。勇気というのは、いい加減には現れません。修行によって厳密に理解したところで、はじめて現れてくるのです。

Q: 「価値を入れない」とは価値を認めてないということだから、「価値がない」とほぼ同じだと思ったのです。

A: 皆がものごとに価値を入れて苦しんでいるというのは事実です。だからといって、「私はものごとに価値を入れずに生活していますよ」と言う人の生き方は、中途半端な生き方で、大したことはないのです。あまり機能的でもないし、活発的でもない。逆に価値を入れている人の方が、好きなものや嫌いなもののためにがんばるから、活発です。「私は価値を入れませんよ」と言う人は、ただ無気力で、行動的でない迷惑な存在になるだけ。だから中途半端はダメです。

 ブッダは「価値を入れてはいけない」とおっしゃっているわけではありません。ただ、何ものにも価値はないという真理を語られたのです。解釈は一つもなし。「地球が丸い」というのと同じです。ブッダは無価値ということをいろんな形でおっしゃってますが、皆さまがよく知っているのは「無常、苦、無我」という三つの言葉です。「無常だ」というと、それでもう価値が消えているでしょう。すべて無常だということは、すべてに価値がないということです。苦というのは空しいということで、すべては苦だというと、それでもう価値がないということでしょうし。無我であって実体がないんだよというのも、同じく、価値がないということでしょう。すべてはシャボン玉みたいなものであって、ホンの一瞬で消えてしまう。だから価値はないのです。

 人は、悟ってない限り、いろんなものに価値を入れて生きているはずです。価値を入れているならば、かなり悩んでいるはずです。精神的にいろんなトラブルがあるはずなんです。何かに価値を入れれば入れるほど、悩むはめになるのです。精神的な病気の人は、狭い範囲にしぼって徹底的に価値を入れています。普通の人は、あれやこれや、いろんなものごとに幅広く価値を入れています。価値を入れる幅が狭くなると精神的にかなりきつい状態になるんです。世間では、その状態だけを「病気だ」と言っています。

Q: 「無価値」を理解した人は、普通の人と違ってしまうのでしょうか。

A: 真理をわかった人も、真理をわかってない人も、80才ぐらいまで生きて死ぬ。そこは同じです。ただ、真理をわかった人は、一秒一秒ほっとして生きています。何も苦しみがないんです。悩みもイヤなこともなくなって、すごく穏やかにいるんです。例えば家に泥棒に入られたとします。真理をわかってない人は、「全部持っていかれた、たいへんなことになった」と悩んだり怯えたりします。真理をわかっている人は、「なるほど、泥棒が入って全部持っていかれたね、では警察に届けましょう」と、それで終わるのです。心配したり落ち込んだりすることはありません。どうせ因果法則だから、悩んでも悩まなくても、次にするべきことは決まっているのです。こころは動揺しません。動揺しない人は成功します。どんなことがあってもリラックスして、穏やかに楽しく生きていられることこそ、「幸福」ということなのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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