「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【12】 心のサティ

Q:体の状態というのは、それなりに簡単にサティすることができますが、心のサティはどのようにするものですか。

A:サティの実践から智慧が生じてくるようにするためには、心と身体を両方観なくてはなりません。身体についてのサティは簡単にできると思いがちですが、それもやってみると結構むずかしいと思います。最初は「膨らみ、縮み」「歩く、座る、立つ」などの簡単なことにサティを入れます。それでいくらかサティの入れ方が身に付いてきます。それから集中力が増してきますと、軽くサティを入れられるようになります。そうすると徐々に、「身体という物体」ではなく、「身体の働き、動き」にサティを入れるように心がけなければなりません。たとえば初心者は「手をあげます」とサティを入れると、「手」という物体が「上」という方向へあがるという、視覚的な感覚でとらえます。サティの上達者は、言葉では言いにくいですが、「あがる」と確認するとき、手の動きを認知します。それは視覚的な理解というより、感覚的な認知という方が近いと思います。実践し続けていると、サティの方法が変わっていくことが本人にはわかります。

 さらに説明しますと、足をあげる、運ぶ、降ろすとサティする歩く冥想の場合でも、初心者は、足という物体を視覚的にとらえて、その空間の中の移動に集中しますが、集中力が増してくると、足といぅものの「働き」に集中するようになります。その人にとっては「足をあげる」とサティを入れるときの認識も、「手をあげる」とサティを入れるときの認識も、全く同じ働きとして認識されます。初心者には、「手をあげる」また「足をあげる」というのは2種類の働きです。身体についてのサティが上達していくと、物質(ru^pa)の普遍的な働きが感じられるようになります。そのときは、その人には、現象的な手も足もおなかも、区別して存在するわけではないのです。

Q:身体のサティもなかなか大変なように感じますが、心のサティの方はどうすればよいのでしょうか。

A:心のサティも確実に必要です。それも、簡単なところからはじめて、徐々に進んでいきます。

順番に説明してみたいと思いますが、まず、「膨らみ、縮み」を観てくださいと我々が言うときは、身体の動きに気付きなさいという意味です。
誰にとってもそれは上手くできるものではありません。心がおなかに集中しないで、他の方向へさまよってしまいます。
そのときは、「妄想、妄想」と確認しなさいと言っていますね。それは心の働きを確認することです。心のサティはそこから始まります。身体のサティが上達するまで、絶えず妄想が襲ってきます。それはすぺて「妄想」という言葉で確認すればよいのです。「妄想」は「妄想」だと、納得できる人にとっては、心のサティの世界はいとも簡単に進むはずです。なぜならば妄想自体は、心そのものではなく、心の働きですから「働き」として、もうすでに心を観ているからです。

Q:「妄想、妄想」というふうに観てはいますが、ただそれだけで十分でしょうか。それだけでいいのかと心配なのですが。

A:心配はあるかもしれません。でもどうなるかと、やってみなければわからないでしょう。とりあえずヴイパッサナー実践中、心の働きを簡単に単純にまとめて、「妄想、妄想」と確認してみてください。結果として、何か困ったことがあったら言っていただければ、それなりに説明いたします。

Q:「妄想」と確認することだけが、心のサティなのですか。

A:そうではありません。ただ実践できる順番で指導しているだけです。妄想の働きを身体と区別して明確に認識できた人というのは、それなりに修行経験も長くなっているはずです。長い間実践すると「膨らみ」「縮み」「妄想」という3種類ではなく、他のことも確認するようになるでしょう。痛み、眠気、耳に入る音、喜び、悲しみ、落ち込み、やる気、なども観察されると思います。それは結局、心の働きです。たとえ眠気を確認する人でも、実は心のサティをしているのです。物体には「眠る」ということはありません。身体に心があるから眠くなるのです。眠たいのは心です。身体と区別して眠気を確認できたら、それもちゃんとした心の働きのサティです。そのようにいろいろな形の心の働きを、実践者はサティするようになります。ですが前の質問で説明したように、心のサティと身体のサティを明確に区別できるのは、身体のサティが上達したときです。

Q:余計なことかもしれませんが、「考えている」「感謝している」「うれしい」「生かされている」などの確認をしてもよろしいですか。

A:「うれしい」「悲しい」「楽しい」などは直感ですので、そのまま確認すればよいのです。

「考えている」と確認することは、初心者の場合は気を付けた方がよいと思います。サティが上達してくると、その経験に基づき考え方が浮かぶ可能性があります。そのときは考えていると確認してもよいのですが、でもそれにとらわれてはいけません。冥想中、南無阿弥陀仏などのお祈り文句、或いは他の経文などが頭に浮かぶかもしれません。突然何かが頭に浮かぶのは、単純に心の働きです。その場合は「浮かんでいる、浮かんでいる」と確認してください。念仏が浮かんだからすごいわけでもなく、15才のとき教師を殴って大けがをさせたことが思い浮かんだから悪いわけでもない。何かが頭に浮かぶのは、単純に心のひとつの働きです。そのときは「浮かんでいる、浮かんでいる」と確認してみましょう。

Q:「妄想」というだけでは、納得いかないような気がしますから、「妄想」「考えている」という2つに分けてみてもよいでしょうか。

A:「考えている」と確認すべきなのは冥想の経験者ですと前に説明しました。すべてを「妄想」とまとめるのは、「妄想に惹かれている」人々にとっては最初は納得しにくいようです。人は頭の中でいろいろなことを「考える」こと自体を楽しんでいます。たいして大事なことを考えているわけでもないのです。大事なことを真剣に考えている人がいるならば、世の中には何の問題もあるはずがありません。ただ不完全にいい加減に考えあぐねる。またその考え方自体も完全には事実に基づいていない。結局真理を知らずに考える。そのように考えた結果作る社会も間違いだらけです。政治、経済、家庭のどんな環境も、問題、トラブルだらけです。事実を知っている人は、答えもすぐに見えるので考える必要がないのです。我々の考えは所詮不完全なのですから、それらをまとめて「妄想」と確認することが何が悪いのか、私にはわかりません。考え方が完全でなければ、またしっかり知らずに考えるのならば、この考えているということ自体が結果的に見れば「妄想」です。「妄想」がいやだというなら「妄想」に対する「実想」というものはあるのでしょうか。私の方がお聞きしたい質問です。

(皆さんからのご質問をスマナサーラ長老にお聞きし、編集部でまとめました)

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