「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【18】 個人の喜びと善行為の関係

Q:以前、先生のお話の中に「善行為」「悪行為」という言葉がありました。行為とはなんでしょうか。また、善行為と悪行為の違いについて説明いただけますでしょうか。

A:まず、行為というのは我々がいつもやっていることですが、たとえばしゃべることも、頭で考えることも行為ですし、もちろんからだを動かすことも行為、行動ですよね。行為、つまり行動は、一種のエネルギーです。頭で何か考えてもエネルギーが生まれ、そのエネルギーでからだを動かしたり声を出したりします。それはエネルギーの循環のようなもので、ひとつのエネルギーが生まれたら、それがまた別のエネルギーを作り出すわけです。からだを動かしたら、その結果として何かが生まれ、その結果でまた、新しいことが生まれるのです。このエネルギーは物理の法則と同じで、ずっと流れ、循環していくのです。

 仏教の立場からいえば、身、口、意の3つ、つまり心の行動、言葉の行動、からだの行動の3つに分けて考えますが、人の身口意の行為は止まることなく続いていきます。エネルギーは変わっていきながら、続いていきます。

 そのなかで、善行為というのは、人間にとって大変意義のある、つまり、幸福、喜びを感じさせてくれる行為のことです。悪行為というのは、人間に苦しみを感じさせる行為のことです。そして善行為でも悪行為でも、どちらでもない行為というのがあり、その3つに分けることができます。

Q:喜びを感じるために善行為をするというと、なにか打算的な感じがするのですが、もう少し詳しく説明していただければと思います。

A:生きているものはすべて、喜びを感じたいのです。誰にでも幸福になりたいという気持ちがあるのです。ですが、もし普段から喜びの中にいるのであれば、「ああ、喜びたい、喜びたい」という希望は生まれてこないわけです。そんな希望が生まれてくるのは、元来我々の中にあるのが苦しみだからということが言えます。

 お釈迦さまは決して、幸福、喜びを否定しておられません。お釈迦さまが否定しておられるのは嘆き、悲しむ、苦しみの心です。ドゥッカ(苦しみ)、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)、ウパーヤーサ(燃えるような心)などの言葉で表現しておられます。それは仏教ではよいことだとは言わないのです。

 喜びは悪いことではありません。ごく普通の常識的なことです。そして喜ぶために必要な行為を「善行為」と呼びます。喜びをもたらす行為を選んでやりなさいとお釈迦さまはおっしゃいます。

そう考えると我々には、すべき行動がかなりたくさん見つけられます。喜びのエネルギーを出してくれる善行為、そういうものは私たちにも発見できるのです。

Q:喜びと言っても、個人の判断で喜びだと感じられることも、他人にとってはまったく意味がないこともあるのではないでしょうか。

A:ではたとえば、こんな例はいかがでしょうか。小さな庭をきめ細かくいじって、いろいろな花を植えたり野菜を植えたりして、その人は何か幸せな、喜びを感じるわけですね。それは決して否定はできないのです。ですが、おっしゃるように、土いじりなんか全然おもしろくないという人もいる。ペットがいてものすごく大きな喜びを感じる人もいれば、身の毛がよだつという人もいますね。ですから、我々が個人の判断で選ぶ喜びの行為というのは、普遍的、絶対的な喜びの行為とは言えません。私個人の喜びの行為は、森羅万象の喜びの行為ではないということは、少なくとも覚えておかねばなりません。

Q:では、一切の生命の喜びの行為とは何でしょうか。

A:それは、すべての生命の法則をわかった賢者に聞かなければわかりません。

 お釈迦さまがおっしゃっている喜びの行為はたくさんありますが、そのひとつの「お布施」についてご説明しましょう。布施というのは、自分が持っているもの、自分の物だと精神的に自分がとらわれているもの、自分が放したくないもの、それを差し出す行為です。

 実は世の中に、本当に自分の物、というものはありません。自分が働いて得た給料だから自分のもの、自分が苦労して借金して建てた家だから自分のもの、と一般の人は誤解しているのですが、宇宙の法則、生命の法則から見ると、自分のものでないものを自分のものだと錯覚して喜びを感じているのであって、これは錯覚から生まれる喜びなわけですから、結局、大した喜びではないのです。逆に、そこから大変な苦しみ、大変な問題が生まれる可能性が50%あるのです。

 ですから、自分のものと思っているものを自分のものでないように思うこと、回ってきたものとして見ること、だから、その回ってきたエネルギーを他人にあげること、自分が食べるために作ったごはんを、他の人がお腹がすいているのを見たらその人にあげること…。そこから生まれる喜びは、純粋な喜びだとお釈迦さまはおっしゃっています。その喜びのエネルギーの中には「危険」が含まれていないのです。それだけでなく、その喜びは長持ちするのです。人を助けたとき生まれてくる充実感、それはずっと、消えることなく続きます。そんな、消えることのない喜びがいっぱい貯まっていると、幸福感は大きいのです。そんな風に、すべての生命にあてはまる正しい善行為を選んで行った方が、本物の喜びに出会えます。

Q:すべての生命にとっての喜びこそが純粋な喜びだということですが、現代社会の中では、個人主義、つまり個人的な喜びの行為が大切だと考えられていますが…。

A:例を挙げて考えてみましょう。たとえば自分のためにお金を儲けようとする行為は、実際には自分のものでないものを自分の方へ引っ張ろうとする行為です。それはなかなか大変なことでもあります。他人から何か引っ張ろうとすると、相手はかえってぎゅっと握ってしまいます。

ですから我々がお金を儲けようと思っても、いつも儲からないという現象に出会います。お金が入ることより、出ていくことばかり起こってくるのです。自分というのは小さい。世界は大きい。その巨大な世界からは思う存分取るものがあるのではないかと考えるかも知れませんが、実際はそうではないのです。私たちが他から何かを取ろうとすると、他という世界は、それはあなたのものじゃないと、じっと握ってしまうのです。ですから、ほんのわずかなものを得て喜びを感じるために、ものすごくたくさんの苦しみを味あわなければならないことになるのです。

 一方、人、生命にやさしくすること、特に慈しみの行動、つまり慈悲喜捨は、正真正銘の幸福の行動です。いろいろありますが、人を助けることや、お布施すること…そういうものからは、消えない、無量の喜びが生まれてくるのです。それはエネルギーの流れです。

(皆さんからのご質問をスマナサーラ長老にお聞きし、編集部でまとめました)

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