「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【20】 冥想の目的と方法論の詳細

Q:悟りへの道〜感受(テープ)を聞く中で、触によって誘発される感覚すらも超えることによって悟るとありましたが、行為についていちいちにサティ、もしくはラベリングすることによって妄想できなくして、その後に来る純粋な感覚(意?)を感じ、それすらも消していく…ということでヴィパッサナー冥想をするということですか?

A:
 その質問には、このままでは答えられません。冥想の目的と方法をいっぺんに聞いているようです。まず、冥想の目的のことを考えてみましょう。触(phassa)というのは、眼、耳、鼻、舌、身、意という6つの認識器官に、色、声、香、味、触、法という情報が触れることです。触れたならば、受(vedana^感覚)が生まれます。私がいるのだという実感も、魂や霊魂があるのだという概念も、好き嫌いの問題も、他のありとあらゆる人間の苦しみも、「受」から生まれるのです。この働きを理解した人が、いかなる受(vedana^感覚)にもとらわれないようになります。その状態が悟りだの、解脱だの、涅槃だのといろいろな言葉で言っているものです。ヴィパッサナー冥想で目的としている解脱は、こういうものです。

 次に方法のことを考えてみましょう。サティの実践というものは、その瞬間その瞬間で、現れては消えてゆく感覚を確認することです。ラベリングというのは、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法をラベリングする、それから、触れることによって生まれる受(vedana^感覚)もラベリングするということです。この仕事を続けていれば、認識過程が明確に見えるようになります。たとえば、耳があって、音がある。この二つが触れたら、聴覚が生まれる。音は瞬間的に流れていくものだから、聴覚も瞬間的に流れている。固定概念によって、音を好き嫌いに勝手に区別するだけであって音そのものは、好きでも嫌いでもない単なる物質的なエネルギーの流れです。音が流れであるならば、私が聞いた、という感覚も瞬間的に流れて消えていくものです。が、人は変化しない自分がいると、智慧がない故に錯覚します。

 論理的にヴィパッサナーの構造は、このようなものですが、そのとおりの冥想実践はむずかしいかもしれません。ですから、膨らむ、縮む、歩く、食べる、などの働きを確認することで、冥想修行は始まります。何を確認していっても、答えとしては、すべては無常である、何も変化しない実体はないということに目覚めるはずです。

 それぐらいのことは、頭でも理解できますが、それは悟りではありません。たとえば、怒るのはよくないのだと皆知っているのですが、だからといって怒らないわけではありません。理解と経験は違うものです。

 純粋な感覚も消していく…など、頭で考えるような考え方も捨てて、ただ、確認し続けることでよいと覚えておいてください。

Q:妄想を貪瞋痴不貪不瞋不痴に区別して、ラベリングするためには、どのようにすればよいのでしょうか。

A:
 わかりやすくするために、妄想という言葉を使っていますが、それは実際は、意と法とが触れることで生まれる感覚のことです。法という言葉は、わかりにくくてややこしいものです。なぜならば、お釈迦様の教えも法といいますから。この場合の法というのは、意(こころ)に浮かぶすべての現象のことです。たとえば、今の瞬間に、実際に見る、聞く、味わう、などについて、こころで考えたりする。過去のこと、将来のことも考えたりする。ゴジラやウルトラマン、幽霊やお化けなど、実在しないものも、考えます。実在するかしないかに関わらず、こころはいくらでも回転します。そのようなこころの働きをわかりやすく「妄想」という言葉でラベリングします。あまりにも激しく、大洪水のように思考が回転すると、落ち着きも集中力も消えてしまいます。ものごとがわからなくなります。ですからこころの回転はできるだけ控えた方が、集中力が増してきて、智慧が現れてきます。ですが、妄想するな(非思慮、無念無想)といっても、それは、音を聞くな、目を開けていてもものを見るなというようなもので、無意味で不可能なことです。それで、その妄想自体を貪瞋痴不貪不瞋不痴にわけて、ラベリングしてみることを勧めているのです。でも、かなり冥想を続けて経験を積んでいないと、むずかしいと思います。これは、できればやること、なのです。

 それに必要なのは、ラベリングするための、貪瞋痴不貪不瞋不痴の定義です。そのなかでも、貪瞋痴は比較的理解しやすいものです。我々の思考のほとんどが貪瞋痴ですから。貪の妄想ー自分の好みの思考です。好きな、やりたくなる、妄想です。妄想して(考えて)楽しいこと。瞋の妄想ー暗い思考。いやな気持ちになる思考です。自分の好みと反対の感覚。痴の妄想ー好き嫌いどちらとも言えない、ただ流れていく思考。たとえば、うとうとしているとき、流れる思考など。

 不貪不瞋不痴の思考は、むずかしいですし、頻繁に生まれるものではありません。また、貪瞋痴が不貪不瞋不痴の仮面をかぶることもよくあります。不貪の妄想ー慈しみの思考です。他人を助けたい、やさしくしてあげたい、という気持ちです。人のことを心配する気持ちなどです。不瞋の妄想ーこれは、怒りの反対の気持ちですから、他人に対するやさしさでしょう。また、人の過ちを理解できる、許せる状態。ひとつの例で考えてみましょう。たとえば、人が大きな声でしゃべっている。それを、うるさいと思うと怒りの妄想です。いやな気持ちが生まれています。そういう気持ちが何もなく、あの人の声はかなり大きいですね(ラベリングとして「大きい声」)、と認識することが不瞋です。不痴の妄想ーわかりやすくいえば、ヴィパッサナー実践でラベリングすること自体が不痴の妄想です。いわゆるありのままに見られること。善悪判断なしに、欲です、怒りです、音です、などの認識をすることも不痴です。また、ものごとは変化するのだ、変わらぬものは何もないのだ、すべてが苦であります、などの思考も不痴です。

 このように、妄想のラベリングができるようになると、瞬時にこころが落ち着いて、集中力が増してきます。智慧が発達してきます。だからといって、無理やり、自分の妄想を貪瞋痴不貪不瞋不痴に分けてラベリングしようとしても、混乱するだけで、早くも疲れてしまいます。始めるタイミングが必要です。まず、洪水のように妄想が流れていくとき、その場合は、貪瞋痴のどれかだろうと思います。次に、かなりサティの実践ができて、ゆっくりと思考が流れるとき。たとえば音が聞こえたとする。その音はきれいだと感じたりする。その場合は、音、と確認する。そして、欲が生まれたと確認する。この二つのタイミングを覚えておきましょう。妄想を区別してラベリングするのは、できれば、の話です。できなければ、妄想、妄想だけで結構です。
(皆さんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、 編集部でまとめました)

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【21】 冥想中の疑問

Q:冥想のことでお聞きしたいのですが、腹式呼吸をしていて、膨らみ、縮みに意識を向けてみたら、苦・楽がこの中にもあると感じました。それすらも感じないところまで自分の感覚を高めていかなくてはならないのでしょうか。そう思ったら苦しみが生まれてしまいました。この苦しみは痴なのでしょうか。  

A:
 膨らみ、縮みに意識を向けるということは、からだに起こる感覚をそのまま確認するということです。それを続けると発見できることは、そこに苦・楽があることです。見たり聞いたり、味わったり考えたりするときも、生まれる感覚にあるのは、苦・楽です。厳密に言えば、苦・楽・不苦不楽の3つになります。その3つの感覚が、瞬間瞬間、変化しながら消えていきます。生きることは苦しみだと落ち込んでも、楽だと舞い上がっても、つまらないと退屈になっても、それぞれの感覚は瞬間瞬間に変化するので、結論を出すこと、また、決めつけることはできません。苦も楽も、一瞬だけだと理解して、心を落ち着けることができれば、大変よいと思います。

 ご質問の方は、ありのままの観察をやめて、苦楽すらも感じない自分をつくりたいと希望して、がんばったようですね。それは強い執着だと思います。苦も楽も感じない高いレベルの感覚があったとしても、それもまたひとつの感覚ですから、それ自身も瞬間瞬間変化していくのです。

Q:高いレベルを目指すことが、執着なのでしょうか。そのあたりをもう少し詳しく聞かせていただけますでしょうか。

A:
 こうなりたい、ああなりたいと思って行動することは、執着の心に基づいています。ですので結果として、苦しみが生まれてきます。目指すところはたとえ高くても、執着は執着です。ですから感じるままを、ただ確認するのみ、というモットーでヴィパッサナーを続けられたらよいと思います。

Q:先生の本の中で、楽しくサティしてくださいというくだりがありましたが、おちゃらけてサティしていいのでしょうか。おちゃらけていい加減にやると失敗するような気もするし、反対にサティに一生懸命になって、そればかりになったら煮詰まりそうな気がしてならないのですが。

A:
 おちゃらけてやって、成功するものが、この世の中に何かありますか? 机にぞうきんをかけるような簡単で単純なことにしても、おちゃらけで、いい加減でいいと思われますか? 楽にしてくださいという意味は、神経質に、ヒステリーに、がみがみ、ぴりぴり、びくびくしながらやる性格ではいけないということです。このような調子で何をやっても、成功しないでしょう。またたとえ成功しても、まったく楽しくないでしょう。(成功しないとは思いますが…)ものごとは、我々が思うほど複雑ではありません。やりにくいものでもありません。この世の中で、やりにくいとか、乗り越えられないといえるものは、ひとつもないと思った方がよいと、私は考えます。

 人間はものごとを大げさに考えすぎるのです。ものごとの過程と時間の流れという大事なことを無視します。たとえば、ある子供が医者になりたいと思ったとしましょう。思った同じ瞬間に、勉強のことや試験のこと、いろいろなことを考えてしまって、なれっこないんだ、むずかしいんだ、自分には無理だと思って、やる気がなくなります。でも、「医者になる」という目的には過程があるのです。また、それにかかる時間というものもあるのです。その子供は、今何をするべきかと、ただそれだけを考えて実行すれば、いとも簡単に、楽に、医者になってしまうのです。なぜなら、「今やるべきこと」はとても簡単で、楽に実行できることだからです。まだ大学にも入っていないのに、医者の国家資格をとることを考えると、自分には無理だと思えて、恐ろしくてたまらないでしょう。それは時間の流れとものごとの経過を無視するとき、起こる現象です。

 この世の中で、ストレスがたまった、神経質になった、仕事がしにくい、胃潰瘍になった…などと訴える人々の多くは、ものごとの経過と時間の流れを無視して、キリキリ仕事しようと、とにかく良い結果を出そうと、よく思われ認めてもらおうと、ばかり考えていることがそれらの原因なのです。

 人間はなぜ目的を実現できないのかということを考えたうえで私は、「サティは楽に実践してください」としばしば言います。でも、「楽」という字だけにひっかかったら困るのです。リラックスして、瞬間瞬間の行動の、瞬間的な成功も楽しみながらやりつづけましょう、という意味です。楽にやりましょうという言葉は、ヴィパッサナーに限るものではなく、人生のすべてのことに応用すべき、成功の秘訣だと思います。

Q:食事を一々にラベリングしながら食べてみました。すると、美味しいとか、まずいとか、感じている自分がいました。そして「これはお腹がすいているから美味しいと感じている」とか「これは以前食べたものと比べてまずいと思っている」と分析もしてみました。こんな調子でいいのでしょうか。

A:
 その調子で、そう悪くはないと思います。でも、いろいろなものと比較していくと、どんどん現実ばなれしてくる恐れがあります。頭の妄想だけが独立して回転するようになります。その瞬間瞬間に思い浮かぶことだけに、思考の流れを止めた方がよいと思います。

 たとえば食べ物をまずいと感じたとします。それだけで止まれば大変よいのですが、もし、以前食べた「あれ」と比べてまずいと思ってしまったなあと、思い浮かんだならば、それも「考えた」と確認すればよいのです。いろいろ比較して結論を出そうと急がない方がよいのです。世の中のいろいろな問題についても、ひとつの立場で見るときだけは結論が出るのです。問題を、あらゆる立場で見られるようになると、簡単に決めつけることはむずかしいと、おわかりになると思います。あらゆる立場で見られるようになるということは、あいまいな人間になるということではなく、ものごとを深く、幅広く見る人間になるということです。これは正しい、これは間違っているなど、単純に考える人々には、ものごとは正しく見えていません。そのような人々は、自分の意見にとらわれ他人にそれを押しつけたりし、自分だけではなく他人を不幸にしてしまいます。結論というのは、その人の意見にすぎないのです。ものごとについての正しい結論は「真理」であって、人によって変わるものではないのです。人々は、意見にとらわれ言い争いして苦しんでいる、智慧の人は、どんな意見にもとらわれないで心の平安を楽しむのだというのが、お釈迦さまの考え方です。

Q:真理についてですが、お釈迦さまの説かれた「無常」を考えると、確かに世の中が変化し続けていることは納得しました。しかしそう考えると、真理も変化するのでは?

A:
 「一切は無常である」ということが真理なのであり、真理は、他に存在する別個のものではありません。

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【21-2】 宗教儀式のこと、セックスのこと

Q:世の中にはさまざまな宗教儀式がありますが、たとえば護摩を焚いたり音を出したりする儀式などでは、何かふわっとしたような非日常的な感覚を感じることがあります。これらをどのように考えればよいでしょうか。

A:
 全般に宗教儀式のいいところといえば、人間が普段とらわれている世俗的な事柄、たとえば食べて楽しむ、歌って楽しむ、踊って楽しむ、人と話して楽しむといった世俗的な生き方から心を離してみるという意義があります。また、儀式儀礼を遂行する中で、多くの人々が関わってさまざまに準備し、それぞれが役割を持って仲良く進めたりしますね。神社などのお祭りでも、みんなでお金を出し合って、何日も神輿をかつぐ訓練をして参加する。これらは経済活動ではありませんし、普段のように何らかのお金の見返りを期待して行う活動ではありませんから、人間にとっては何かいい結果があるものです。そのような点では、悪くない儀式儀礼もあります。

 だからといって、すべての宗教儀式がいいといってしまうのは大変危険です。宗教的な儀式、儀礼は十把一絡げに考えるのではなく、ひとつひとつ別々に考えていかなければなりません。宗教儀式・儀礼には、ほとんど無意味なもの、また逆に社会に害を及ぼすものもたくさんあるからです。

 たとえば滝行というのは、ちょっと不自然だといえます。というのも、元気な人には悪くないのですが、歳をとっている人、体に病気のある人、また心臓に病気のある人などが滝行などやってしまうとどうなるでしょう。大変なことです。

 さらに、世の中にあってはならない儀式儀礼もあるのです。お釈迦様はそれらをきちんと区別して、批判するものは厳しく批判されました。たとえばインドでは、動物の生け贄を神様に差し上げる盛大な儀式があります。また、カーストを作って人間を差別する。このようなことについては、お釈迦様はものすごく反対されました。どうして人間の間に差別をもうけるのかと厳しく批判されました。人間であれば、生まれたときの行動も同じだし、女性の月のものも皆同じ、陣痛も同じ、全部同じなのになぜ差別をするのかと。また、男女差別も否定されました。

 フィリピンでは、イエスが受難した記念に、人々が石などで自分の胸を殴って血だらけになるような儀式があります。そうすることで自分もイエスと同じように受難するのだというのです。また十字架に釘身体を打ちつけることもします。

ヒンドゥー教でも体中に針をさして糸をつなげ、何時間もいるような祭りがあります。それで、終わったとき何ともない、痛みも感じないというので「神の力」といったりする。これらはものすごくばかばかしいくだらない儀式といえるでしょう。

 また、占いに頼りすぎるのもよくありません。遊びではよいのですが、占いなどというものは何の根拠もないのです。結局は自分が、自分の力でやり遂げるしかないのです。東南アジアの国々では占い専門の新聞があるほど占いが盛んですが、遊びを越えて人々が頼り、占いが社会を支配しているような状況は、社会的には邪魔な存在といえるでしょう。

 ですから、ひととき世俗的な生き方から離れて違う世界を味わうという意味で、儀式儀礼は悪いことではないが、その手法はやはり良いものを選ばなければならないのです。たとえば人助けの働き、ボランティアなどでもこの「世俗的な生き方」から離れた世界を味わえるのです。また仏教では、ふつうの人々には、芸術も否定していません。音楽や絵画をやることもかまわないのです。

Q:
 その流れで考えますと、セックスはどうなのでしょうか。仏教ではどのように考えているのでしょうか。

A:
 在家の人々のセックスについて、仏教では特に何もいっていません。よこしまな行為はするなといっているだけです。仏教で性行為をどう見ているかといえば、子孫を作る行為なのです。愉しむための行為ではないのです。性行為が楽しみであるのは、DNAの働きです。子孫を作り育てるというのは大変な苦労なのです。ですから何の楽しみもないと、作らないおそれがありますね。それでちょっとした「あめ玉」を与えたわけです。しかし、もらうあめ玉よりは、その後すべき仕事の方が何十倦も大きいのです。夫婦が一生仲良くして、子供が独立するまでがんばるということは大変なことなのです。そこまで親には責任があります。そんなわけで、仏教ではフリーセックスは禁じられています。法的にきちんとした自分の相手でなければ性行為はしてはいけないことになっています。そこで夫婦が仲良くして、子供をちゃんと育てることは、仏教では一つの善行為だといっています。

 ですが、仏教は一夫一婦制でなければならないとはいっていません。その国の法律で、旦那一人で奥さんを3人もらえることになっているならそれでよい。
また別の国で、女性一人に檀那が3人いてもいい法律になっているならそれでよい。それから、結婚を神の前で約束する宗教もありますが、結婚は宗教的な行為ではないのです。
不思議なことに神の前で約束する国に限って離婚が多いのです。私たちの国では離婚はほとんどありません。ずいぶん昔ですが、あるヨーロッパ人が、スリランカの結婚事情を書いたことがありました。この国には結婚式もなく、相手を気に入ったらとにかく家を作っていっしょに暮らす。親も何もいわない。それでもし旦那さんが家の面倒をちゃんとみなければ、奥さんは腹を立ててすぐ実家に帰ってしまう、子供を連れて帰ってしまうと書いたのです。結婚もないのだから離婚もありませんね。農業社会なわけですから、男性にとっては、奥さんの労働力がなければ大変なのです。奥さんに逃げられてしまったら何もできないから、とにかくがんばるのです。ですから、お互いの苦しみも楽しみも理解し合ってうまくいくのです。

 ただし冥想中は、セクシュアルなことは邪魔になるんですね。冥想とはものにとらわれない別世界を作るものであり、セックスというのはものすごく相手にとらわれる行為です。そのときには徹底的に外の世界に支配されてしまうのです。ですから出家者には男女関係は禁じられています。

Q:ものにとらわれない自分の心を守るために、行動としての、男女関係が禁じられているということですか。

A:
そうですが、行動として男女関係を持たないことはそれほど難しいことではありません。大事なのは行動よりも心の状態です。相手と関係を持たなくても、欲のあるまま戒律を一生懸命守ろうとするあまり、女性の姿が目に入っただけでもかえって心が汚れ、どんどんコントロールできなくなって精神的な病気になってしまう恐れもあるのです。だいたいやるなといったら余計やりたくなってしまうのが「心」というものです。

そのように当然起こってくるであろう精神的な問題も、仏教では計算済みです。たとえば男性の出家者が女性の信者に説法を頼まれても、密室では決して話してはならない、もう一人、大人の男性がいなければならないといったさまざまな戒律が厳しく定められています。女性に触れたら毒蛇に触れたように感じなさい、女性の声を心地よいと聞くのではなく災いの元だと思って聞きなさいなどの話もあります。一瞬ぎょっとするようなこれらの教えも女性を馬鹿する観点で作られたきまりではなくすべて、心を守り、修行の成功を目指すためなのです。女性の出家者についても、性に関しては男性の出家者と同じように厳しい戒律が定められています。

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