「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【22】 子供への感情/比較の感情/盲目的な生/死者への祈り

(会員の方から以下の質問をいただきました。文面がとてもわかりやすかったので、質問については編集せずそのまま掲載させていただき、スマナサーラ先生にお答えいただきました。)

子供への感情
Q:
私には2人の子供(6才、2才)が居りますが、その子達のことがとても愛しいのです。かわいくてなりません。仏教では、このような感情は子供への精神的な依存や執着につながる、注意しなければならないものなのでしょうか。だとすれば、どのような心で子供に接すればよいのでしょうか?  

A:子供がかわいいのはどうしようもないことです。かわいいと思う感情から、からだの中に、子供を大事に育てるために必要なホルモンなどが分泌されます。かわいいと思わない場合は迷惑だ、うるさいのだといって子供が捨てられる恐れもあります。かわいいと思う感情で、人間のみならずどんな動物も、子育てをやっています。それは自然の法則ですから、仏教では、それを一概に否定するわけでもないのです。

 問題は、「かわいい」という感情から執着が生まれて、子供が自分の所有物となってしまうことです。やがて自分のために、自分の夢をかなえるために、鬼のように必死になって子育てしようとしてしまいます。多かれ少なかれ、子育ての過程で生まれるトラブルの原因はこのことです。このような人々は、一人の人間としての、子供の生きる権利を奪っています。すべての生命は自由で平等ですので、それをよく頭に刻み込むようにすれば、間違いのない子育てができると思います。かわいい、かわいいと思って、楽しがって、遊んだり喜んでも一向にかまわないのですが、それよりも、慈しみの気持ちを、心に大切に育てた方がよいと思います。「慈しみの気持ち」というのは、子供に対して、幸せにすくすく育って一人前の人間になり、あとは自由に生きれば、それで結構です、と考える気持ちです。言い換えれば「私にはかまわないで、あなた方は幸せになれ」というような気持ちです。  

比較の感情
Q:
自分が苦しいときなど、もっと不幸な他人のことを考えたり思い出したりして、(他人と比較して)自分の気持ちを軽くする、自分の幸せを確認するということが私にはよくあるのですが、これは、他人の不幸を喜ぶことにつながる、他人に依存する、否定されるべき生き方なのでしょうか?  

A:それは応急手当のようなものです。問題の解決にはなりません。論理的にいうと、自分が不幸を感じるときは、それを乗り越えるために、世の中の誰かがより不幸になっていなくてはならないということです。他人が不幸になると、自分が幸せを感じる、というようなことではないかと思います。考えてみれば、これはちょっと恐ろしい気持ちではないかと思われます。

 人生には幸も不幸もあるものですよ。それは、差異はあっても、すべての人間に、幸も不幸も苦も楽も回転していくものなのです。もし人が幸せ一筋だったら、皮肉なことに、それ自体も刺激がないと悩む原因になってしまうのです。一時的に不幸を感じても、「何ということもない、乗り越えてみせますよ。乗り越えられなかったとしても、そのうち消えていくものだ…」と思えば、精神的により強くなるだろうと思います。  

盲目的な生
Q:
修行して人間として進歩するということに関係なく、ただ生きていたいと思うことーたとえばわかりやすくする為に、幼稚な例ですがーサバイバルをテーマとした映画などで、主人公たちが数々の困難を乗り越えて、ただ生き残ることに全力を尽くして必死になっている映画などを見ているとき、スマナサーラ先生の「サケの話」が想い出され、映画のテーマ「何としても生き残る」ということが色あせてしまうのですが、ただ生きていたいという姿勢は、仏教の教えでは意味のないことなのでしょうか?  

A:「何としても生き残ること」は、誰でもしようと思っているごく当たり前のことです。動物の世界でも同じことをやっていますね。サバイバルと威張れるくらいの人生というのは、とてつもない不幸、危険などに遭遇してそれを乗り越えたという意味ではないでしょうか。しかし、何とかして生き延びたということは、人間としてそれほど自慢にはならないものだと思います。とにかく人間は死ぬまで生きていきますので、何かプラスアルファのものがあった方がよいと仏教は勧めています。死ぬときには何か獲得したものがあって(しいていえば、精神的な清らかさです)死ねれば、本当の意味で生きていてよかったと言えるでしょう。  

死者への祈り
Q:
慈悲の瞑想法は、死者に対して行うことが禁じられていますが、亡くなった方に手を合わせて「冥福を祈る」ー私は、たとえば亡くなった小さな子供に対しては「天国で遊んでください」と念じる、祈ることがあるのですが、これは無意味なこと、誤った作法なのでしょうか?  

A:死者を、感謝の気持ちで大切に思うことは、道徳であって、仏教はそれを否定するわけではありません。立派な生き方を成し遂げた先祖のことを思い、今の自分の人生を正すこともよいことでしょう。

 でも、祈っただけで幸福になれれば何の苦労もないでしょう。死んだ人が幸せになって欲しいと思う気持ちは、死者には何の役にも立ちませんが、祈る本人にはやさしい気持ちが生まれますので悪いことではありません。死者のことを本当に大切に思うならば、自分が徳を積んで、その業のエネルギーを回向すればよいのです。仏教における冥福の儀式は、死者に回向する儀式です。

 回向の儀式;誰かが亡くなったとき、行う儀式のことです。葬式の日、1週間目、49日目など、その文化において決められている記念日に、お布施などの善い行いをなさって、この善い行いの結果が亡くなった方々にありますようにと念じることです。亡くなった方の名前など、また、おじいさん、おばあさんなどの呼び名でも入れて念じる場合は、より気持ちが集中できます。もっと広い心で冥福を念じたければ、自分が思い浮かぶ死者の名前に付け加えて、すべての先祖も幸せでありますようにと念じた方がよいと思います。

 いつ冥福を祈ればよいかという決まりはありません。葬式なのか、通夜なのかなどは文化的な決まりに過ぎません。それも国によって変わりますので、あまり気にする必要はないのです。毎日何か善いことをして毎日回向してもかまいません。  自分が回向したからといって、徳の結果が自分から消えていくというものではありません。どんなに回向したとしても、その結果は、自分にもよい結果として報いられます。さらに他人に対しても優しい気持ちで回向したという善い行いの結果も付け加えられて、回向した本人がより一層幸福になります。

(このページは、皆さんからの質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、編集部でまとめたページです)

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【23】 輪廻転生と修行/戒律の役割/アングリマーラ

輪廻転生と修行
Q:
お釈迦様は悟りを開かれて「不死」を得たと、ある本の中で読んだのですが、不死とはどういうことでしょうか。  

A:お釈迦様が不死を得たというのは、輪廻転生を終わったということなんですね。だからもう二度と輪廻転生はしないということです。不死とは悟りのことでもあるのです。それがどういうことかというのは、やはり自分で体験するしかわかる方法はないのです。

 人間が不死というとき考えるのは、自分に当てはめて、私たちは死ぬ、だけどお釈迦様は死なないと、自分の立場から考えてしまうので、わからなくなってしまうのです。不死の境地というのはいっさいの輪廻転生の働き、つまりエネルギーが変化して変化して続いていく働きがストップするということなんですね。

 生きることに対する執着、とらわれが消えたとき、それまでとまったく違う心が生まれます。何にもとらわれない、自分のからだにも心にもとらわれない心の状態が生まれたとき、エネルギーの回転が止まってしまうのです。物理的に考えて、エネルギーは消えませんといつも言いますが、その状況でしか消えないということなのです。

 不死と日本語で書かれていることもありますが、お釈迦様の言葉は「涅槃」、消えるという意味なのです。解脱を得たという意味で、亡くなった瞬間にすべてが消滅して、なくなってしまうのです。悟りを開かれたのは、もっとずっと前なのですが、生きている間はからだを持っていたのですから、やはり心はずっと回転していたということなんですね。ですからその間はそれなりの苦しみがありましたが、それも死んだ瞬間でおしまい。普通は死んでもエネルギーが消えることはなく、他の方向へ回転するわけですが、お釈迦様の場合は回転しませんでした。

 悟った人の場合は、いわゆる希望は何もない。やり残したという感じはまったくない。渇愛はない。だから不思議な気持ちで死を迎えるんですね。普通の人たちが死ぬときは、子供たちはどうなるのかとか、自分のつくった会社はどうするのかとか、いろいろ心残りがあるんですね。或いは自分自身のことにしても、死んでしまったらどこへ行くのだろうかとか、心にさまざまな煩悩が残ってしまうんですね。するとそのエネルギーは回転していきます。悟った人にはそういうものは何もない。自分のからだについても、壊れるもので、もう捨てるのだと。心についても、勝手に変化していって止まるのだろうと。望むことは何もないという瞬間なのです。それを理解することは、自分が体験しなければわからないことなので、お釈迦様は解脱を得て、人生を全うしたのだという風に理解しておいてください。輪廻転生を経て、生命がたどり着くべき境地に至ったという意味で理解しておいていただければよいと思います。  

戒律の役割
Q:
テーラワーダ協会の「怒るな」という本の中で、五戒のことが書かれていました。戒律というのは人生にとって、どのような役割を果たすものなのでしょう。

A:戒律というのは、我々が生き方を正していく段階においての、緊急処置なんですね。ちゃんとした治療ではないのです。人間の心というのはいろいろな罪を犯し、汚れて大変苦しんでいます。その汚れた心を抱えた人は、極論を言えばやっぱり悟って解脱しなければ、その苦しみから逃れることはできません。そしてその間にまた、罪を犯したり苦しんだりすると、解脱することもできなくなってしまうんですね。ですから緊急処置として、戒律で、我々が悪いことをしないように抑えておくのです。

 ですから戒律では、それほど心の問題にアプローチしません。戒律を素直に守る人にとっては、それだけで人生が楽になるのです。仕事や日常生活が、うまくトラブルなく運ぶようになって、みんなに信頼される。自信がつく。暇もできる。それで、心を育てることに気持ちが向く。

 でも、怒りをなくそうということは心の問題であって、戒律の問題ではありません。戒律を厳密に守っても、怒る人は怒るのです。するとそこで、本人が恥ずかしく感じてしまう。ここまで戒律を守っているのに、どうして私は怒ったり嫉妬したりするのかと。それで自分の心が育っていないのだとわかる。育てるためには瞑想しなくてはなりません。瞑想を重ねることで怒りはなくなります。でも、戒律ではなくならないのです。ただ、戒律の中に含まれてはいます。

 たとえば「殺生戒」というものがあります。殺生戒というのは、私は殺生をしません、ということだけではなくて、一切の生命に対して慈しみを実践します、ということなのです。一切の生命も私の生命も平等に見て、同じだと考える。愛情を持って見る。そうすると殺生は不可能になるし、怒れなくなる。でも、怒りは消えたわけではないのです。怒りを消すためには、やっぱり修行するしかない。それは科学的な方法なのです。ですから戒律の中に、怒るなという戒律はないのです。お坊さんたちには何億もの戒律がありますが、怒るなとか嫉妬するなとかいう戒律はありません。それは「怒るな」といくらいっても、実践が不可能だからです。努力を重ね、智慧を発達させて、はじめて怒りはなくなるのです。

 つまり、生きていく道筋で、罪を犯さないようにするために「戒律」がある。りっぱな人間を作る、心を育てるために「瞑想」がある。この2本柱が修行においては必要なのです。戒律は緊急処置で、瞑想は本物の治療という風に理解するとわかりやすいのです。  

アングリマーラ
Q:
PATIPADA 四月号の根本仏教講義にもでてきた殺人鬼アングリマーラのことですが、999人もの人を殺して、その罪の償いもせず、次の瞬間に悟るということがあるのでしょうか。  

A: 罪の償いをしなかったということはそれほど問題じゃないのです。私たちが1秒間に起す業の量は、何万回生まれ変わっても消えないほど多いのです。心のエネルギーというのはものすごいものです。ですからどんな人間も巨大な業を持っているのです。ちょっと数字で考えてみると、100 兆円くらいの借金があって、100年に1円くらい返す、しかし借金なので利息も付いていく、だから少しずつ返していくけれど、返す量より増える量の方が多いのです。そんな感じだと思っていただければいい。業が消えるのは、悟りによってなのです。それはあのアングリマーラ氏だけでなく、どんな人間でも同じことです。

 ジャイナ経の戒律は仏教と似ていましたが、業については、過去の業は償って消しなさいという考えでした。ですから、からだの前後で火をたいたり、くぎを打った草履を履いて歩いたり、からだを痛めて罪を償おうとしますが、そんなことは無意味なんですね。業を消そうとすること自体も業なのです。人を殴った悪い業を消そうと、その人に謝ったり、お金をあげたりして、その業は消えたとしても、新しい業がたくさん生まれてくるのです。謝った業、お金をあげた業…ひとつの業が消えてもたくさん生まれてくる。だから無意味なのです。

 人を一人殺したら、どのくらいの輪廻転生の苦しみを受ければ業が消えるかというのは、計算不可能だとお釈迦様はおっしゃいます。1人の人を殺したら何億回も殺される運命に出逢います。理由は、ひとつひとつの心の動きがひつひとつの業を作るからです。一人の人を殺すためにかかる時間、計画を立てる時間…それらすべてが悪のエネルギーとして積み重なっていく。ですから1人の人を殺すということは、想像を絶する悪行を積んでいるということなのです。逃げ道はない。償って消えるものではない。そしてそれは、善い行いの方も同じです。

 アングリマーラにあった唯一の逃げ道は、修行し解脱することでした。とはいえ修行をもってしても、たとえ悟ったとしても、業は消えません。業の報いを受けるべき者が解脱して、輪廻転生を脱出するのです。たとえば殺人罪の裁判で、判決が出る前に被告人が死んでしまったらどうなるでしょう。犯罪行為に罰を与えたいのですが、相手がいません。

(皆さんからの質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、編集部でまとめました)

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