「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【24】 冥想中のトラブル

Q:冥想中、からだに痛みばかり出てきて、いくらラベリングしても痛みが消えていきません。なかなか思うようにいかないのですが…。

A: どんなことも我々の希望通りにいかないし、あるべき姿にならないのは、人間がいつでも、希望、欲望、願望などで、自然法則を変化させようとするからなんです。そういうことを何もしないで放っておけば、自然の中で、人間は何ということなく生きていられるのです。

 冥想でも同じ。わずかでも希望が入ったら、その現象が残ってしまいます。消えて欲しいという希望があったら、消えなくなっちゃうし、何かが見えて欲しいと思ったら、出てこない。この辺は冥想のとても複雑なところです。冥想がぐんぐん進んで欲しいとか思ってしまったら、それは希望なんです。そう思うと、そうはならない。ですから、いつでも3原則を守ることが大事です。(1)スローモーションでやること (2)実況すること (3)それを解釈することなく、感じること。 その3つ。そうすると大体は、いやな感覚は消えていきます。そして心が集中して、楽に冥想できるようになるのです。

 もうひとつ覚えておきたいのは、ものごとは何でもかんでも、消えていくのです。消えないものは何一つない。ですからしびれであろうが、痛みであろうが、何でもかんでも消える。ずっと続いているわけじゃない。生きるということは、ものすごい早さで変化していることですから。ですからなんでも消えていくんだということを理解して欲しいですね。痛みだけじゃなく、いい感覚でもすぐに、瞬時に消えていく。その消えていく過程こそが生命であって、生きているということなのです。消えていく。そのかわりに新しい現象が生まれる。それがまた消える。そのかわりにまた新しい現象が生まれる。

 さらに集中力が成長すると、もっと違う現象になります。たとえば、きちんと、膨らみ、縮みだけを観られるようになったら、からだがあることもわからなくなってしまうのです。ただ単に、膨らみ、縮みだけを感じるようになる。あるいは心がからだのどこかに集中して、そこに定着するとからだの他のことは消えてしまうのです。本人が消えたと感じる。足が消えた、手が消えてしまったという風に感じるんですね。それはもう、手が消えたという、物質的なことではなくて、手に対して心が活動しない、だから心が活動しないと、そのものは、その人にとって存在しないのです。

 ですから普段の私たちは、からだ中、心が動き回っているので、からだ中を全体的に感じているのです。冥想すると、そのからだ全体に感じている心が、ときに1カ所に、わずかな時間でもとどまるということがあるのです。止まった瞬間、他の部分が消えたと感じる。

 そのような集中力があって、心が、からだの中じゃなくて他の対象を受け取ったならば、たとえば何か妄想なり、外の世界の何か、それを受け取った瞬間に、自分がそこにいるように感じてしまうんですね。たとえば長い冥想中に、十分集中している状態で地方の何かが思い浮かんだら、急に自分が「その地にいるのではないか」という風に感じることもあります。それは集中力から出てくるひとつの現象です。それは面白いということでもないし、意味があるわけでもない。ただ、すべてのものは変化していくということだけ、理解して欲しい。大体は、確認すると、その現象は消えていきます。それだけで、理解は充分だと思います。説明するとむずかしくなりますので。

Q:ヴィパッサナー冥想を始めると、妄想が出てきて、その世界に引き込まれてしまいます。他の冥想法でもやはり妄想が出てくるのでしょうか。

A: ヴィパッサナーの、いちばん気をつけてほしい点は、比べないこと。他の冥想法と比べないこと。他のいろいろな教えと比べないこと。他人と比べないこと。何とも比べないで、自分の実感、自分の体験、自分の経験でいくのです。我々はときに、お釈迦様の教えとも比べるなと言います。道を教えたのはお釈迦様ですが、いろいろな仏教の経典に書かれていることと、自分の経験を比べてしまうと、冥想にならないんですね。ちょっと経典をかじった人の中で、すごいごまかしをする人があります。冥想のインタヴューなんかをすると、さっさっと答えを言って、冥想が相当進んでいるような感じを受ける。でもそれが、本人の単なる妄想で、自己満足で言っているということも、聞いている側にはよくわかる。わかっても、それは本人に言いにくいし、かわいそうにその人には道がなくなってしまうのです。

Q:妄想が多いときは、やはり歩く冥想をした方がいいですか。また、妄想が出るという場合、妄想をきちんと確認した方がよいのでしょうか。

A: 歩く冥想で、とにかく、今の瞬間の自分のからだの感覚を確認する。それだけが大事なんですね。妄想も確認できれば、それはそれで結構ですが、なかなかうまくいきません。それでもときには、明確に妄想が確認できることもあります。「妄想」というだけにとどまらず自分が何を妄想しているということまで確認できる。そのときは自分の思考パターンも確認しておく。からだの動きも確認する。それができたら、自分の人格も見えたということになります。自分が何を、どのように感じる人間かと見えたところで、なぜそのように感じるかも、すごく見えてきます。ですから、できるのなら、妄想をきちんと確認することも大事なんですが、上手にできないときはやめたほうがいいのです。歩く足の動きに集中して、サティを入れた方がいいのです。

Q:座る冥想中に、自分の姿勢がわからなくなって、姿勢を正すために目を開けることがありますが、よくありませんか。

A: まあ、いけないわけでもないのですが、座り瞑想はただ観察する、ということですから、観察をしているときに、目を開けたらさらに情報が入ってきますから、サティがむずかしくなるということなんです。目を閉じて冥想していてさえ、耳に音が入る、からだからいろいろな感覚が入ってくる、そのうえ妄想も流れてくる。そのうえに、膨らみ、縮みやいろいろなものを観るわけですから、観るべきものが多すぎて、それでもむずかしいし、そのうえ目を開けてしまったら、またさらに膨大な情報が心の中に流れ込んでくるんですね。ですからやりにくいわけです。できれば限りなく情報をカットして、可能なら耳も聞こえないようにできればいちばんいいわけです。ひとつだけ観るように、ひとつだけ情報を取って観察することができれば、いちばんやりやすいのですが、残念ながら人間にはそれは無理なんですね。そういうことがわかっていれば、姿勢を変えたり、目を開けてもかまいません。たとえば、あまりにも眠くてどうしようもないとき目を開けて、空を見て冥想しても、それはかまいません。その場合は、空からすごい大量のデータが目に入ってきますから、脳は寝ているわけにはいきません。それを処理しなくちゃいけませんからね。自動処理なんですけれど、脳が動きますから、それで眠気が吹き飛んでしまいます。そういう風に工夫するのはかまわないのです。
(皆さんからの質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、編集部でまとめました)

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