「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【36】 不殺生戒/不妄語戒/不飲酒戒

不殺生戒
Q:
不殺生戒を守り通すことは、自分にとってはさほど難しくありません。現に協会にご縁を頂いてから約一年半、反射的に叩き潰した蚊以外は生きものを直接には殺していません。  

A:殺生戒を守ってきましたと喜ばれるならば、それはたいへん幸せなことだと思います。人間にとって本当に自慢になるのは「今まで何も悪いことをしなかった」「いろいろと良いことをできた」という二つだけです。社会的な名誉、知識、財産、立場などは、自慢になりません。ですからこのようにいえるということは、大変素晴らしいことだと思います。
 仏教の正精進の説明は4つに分かれています。
(1)いまだに犯していない罪をこれからも犯さないという精進
(2)犯してきた罪をこれからは犯さないという精進
(3)行なったことがない善をこれから行なうという精進
(4)今まで行なってきた善を完成させるという精進
 です。ですからこれからは、反射的にでも殺生しないようにと、精進なさっていただければ、八正道を実践したことになります。

Q: 漁師、屠殺業、そして害虫駆除を欠かすことの出来ない農業従事者は「不殺生戒」を犯さざるを得ないのですが、彼らはその職業を放棄しない限り、「悟り」への道は閉ざされてしまうということになるのでしょうか。  

A:罪を犯さない生命は、完全たる悟りを得た聖者以外にはひとりもいません。人は誰でも過去から想像を絶するほどの罪を犯してきたものです。お釈迦様が悟りの道を教えた相手は、このような罪の重みに押しつぶされそうになっている人々です。たとえ今生、罪を犯さなかったとしても、過去に犯した罪がいっぱいあるのです。ですから罪を犯すこと自体は悟りの障害にはなりません。もしそういう条件があったならば、人は誰ひとり悟らないのです。

 ポイントは『罪を犯したことがある』ということではなく、『罪を犯しながらは悟れない』ということです。罪を犯すということはこころを汚すことです。悟るということは、こころを清らかにすることです。その正反対の行為は、同時には行なえません。

 ということは、殺生する人々は、その行為をやめるならば、「悟り」に到達する可能性があるということです。それで出てくるのは、仕事だから、家族を養わなくてはならないのだから、やめるわけにはいきません、という疑問です。ここからは智慧の出番です。罪を犯して、 自分と家族が一生ご飯を食べ続けてそのまま死ぬか、あるいは人間として、死ぬ前 に清らかなこころをつくってから人生を終わるかという選択です。一番目の選択は 選択ともいえない単純なことです。食べるだけの人生なら、動物たちも人間より 立派に問題を起こさずにやっているのです。人間だけにできるチャレンジは、 こころを育てることです。何を選択するするかということはその人の自由です。

 仏教を実践すると、個の経済にひびくのではないかと思われるでしょう。でも これも違います。悟りの道も経済法則からはずれていないのです。この世の中で、何も払わず、何もしないで、よい結果が得られると思うなら、それほど非経済的、非現実的な考え方はありません。我々が何かをして、喜び、幸福感、楽しみを感じるときは、必ず、何かを支払っているはずです。たとえば家族が仲よくしてほしければ、自分のわがままを抑えなくてはいけません。自分の好きなように生きていきたいという気持ちを抑えなくてはならないのです。そういう気持ちを手放す、つまり支払えば、家庭の平和を買えるのです。お金で売買することとかわりはないのです。売買行為の経済的な決まりは、払う分は少なく、得るものは大きくなければならないということです。その決まりが逆になると、非経済的なのです。

 そこで、漁師や屠殺業の人々は、何も払いたくないと思う(殺生をやめることをしたくないと思う)ならば、得るものは、ただ死ぬまで食べていけるというあいまいな安心感だけです。もし、殺生の職業をやめたならば、その人が払った分は、普通の人が払う分よりもかなり大きいのです。ですから、普通の人よりもかなり早くこころの安らぎを体験できる可能性も確実にあるのです。

 農業しながら修行はできます。農業自体はたいへん尊い行為です。もし、人々にからだによいものを食べさせてあげて、健康に、幸せにしてあげるという気持ちではなく、欲張ってただ儲けようというだけの気持ちで行なうのはよくないのです。農薬や限度を超える殺虫剤をまいたり、いろいろと不自然な状況を作ったりして生産性を上げるのは欲だけの行為です。その人々は自分で悪事をしているだけでなく、それを買って食べる人々にも害を与えているのです。農業だけは正しくやっていただかないと、皆が困るのです。

Q: 漁師、屠殺業者が捕獲し、屠殺し、そして生産したさまざまな食品を口にしている私たちは「不殺生戒」を犯していないと言いきることができるのでしょうか。

A:関係があることは確かです。でも、殺生かというのは疑問です。殺生罪には、自分で殺す、あるいは命令して殺させる、という二つのいずれかの条件が必要です。この場合はどちらにも入りません。でも、世の中には考えすぎの人々がいます。人生における単純な問題でも解決できない割に、ものごとをどこまででも考えてしまうのです。彼らは、観念的な答えを見つけるのですが、実践性には欠けているのです。

 関係があるだけで、罪になる場合もならない場合もあります。子供が人を殺したとします。もしかすると親のしつけがよくなかったかもしれません。でも、罪を問われるのは、犯人である子供本人であって親ではありません。宗教的に「人を殺した人は地獄に落ちます」という場合でも、地獄に落ちるのは本人であって親ではありません。会社のためを思って一人の社員が間違いを犯し、告訴されることになった場合でも、社員全員を告訴はしません。犯人だけです。考えてみれば、皆、関係あるのですが。

 ですから、この質問は、考えすぎて至った非合理的な結論だと思います。さらに考えてみましょう。この世の中で銀行強盗が起こるでしょう。それは社会全般の経済状況が公平でなかったせいである人に収入が入らないようになったからかもしれません。あるいは社会全般に、豪華に贅沢することを賞賛する風潮が蔓延していた結果で、彼には、銀行強盗しか大金を手に入れる方法がなかったのかもしれません。どちらにしても、社会全般に関係があるのです。戦争も、原子爆弾も、テロや破壊活動も、社会全般に関係があるのです。つまり、どこかで誰かが誰かを殺したならば、ここにいる私も犯罪者になるということです.。このような結論は、あまりにも屁理屈であり、考えすぎであることを理解できると思います。世界がすべて平和で、幸せであるようにと皆努力するべきですが、それはそれほど早い結果が得られるものでもありません。そこまで個人は待っていられません。人生は短いので、とりあえず、自分の一生で罪を犯さないように努力することは具体的で合理的です。

 殺生戒の意味は「君は、他を殺すな」ということです。それくらい、誰にでも、実践できると思います。「あの人が、殺生している」ということが、あなた自身が困るほど関係あるのなら、やめさせるようにしてほしいのです。関係ないなら言ってもきかないでしょう。世界全般をよい方向へ持っていきたければ、皆で努力するか、他に命令できる政府などの機関に言ってみるしか方法はないのです。

 なにかの問題について考える場合は、なんでもかんでも無差別に考えるのではなく、問題が起きた条件の中で考えるものです。どんな思考でも思考自体には、それほど価値あるものではないのです。単なる観念にすぎないのです。思考に価値があるのは、その思考が実践可能なときだけです。  

不妄語戒
Q:
私にとってむしろ守りにくい戒律は「不妄語戒」で、職場で、家庭で、ほとんど日常的に破戒しているといっても過言ではありません。そのほとんどが、職業的な、あるいは人間関係を円滑にするためのリップサービスの類なのですが、戒律を犯しているという事実に変わりはありません。  

A:正直なところ、私にはこのご意見の内容が理解できません。妄語は、おおざっぱな、あいまいなものではありません。
(1)相手をだます気持ち。
(2)事実と反対のことを言葉、あるいは文章、あるいはゼスチャーなどの手段で表現すること。
(3)相手がそれによってだまされること。
という3つの条件が揃うと「妄語罪」です。罪の重さが各条件の重さによります。

たとえば、(1)の条件の場合は、相手に損をさせたい、自分が何か得を得たい、相手のことを憎んでいる、などで重くなるし、ちょっと笑わせたいだけの気持ちだったら、軽い悪事(いたずら程度のこと)になります。
(2)の条件は、自分が言っていることが事実でないとはっきりと自覚している場合です。たとえば会社で言われた情報を事実だと信じ込んで人に言って、その人が損をした場合、またそのときは知らず、後で本人が、その情報がうそだったと知ってしまっても「妄語罪」にはならないのです。なぜならば、実行した瞬間には自分は本当のことを言っていると思っていたからです。事実と反対のことを言っているつもりはなかったからです。ところで、リップサービスという言葉はよくないと思います。それは自分がいやなことをやっていることを意味します。決して、楽しいものではないのです。人間関係を円滑にすること、調和、皆明るく仲よくすることはたいへん大事なことだと理解し、言葉をしゃべるべきです。しゃべる目的を「善」のほうに変えれば、うそをつかず、何をしゃべればよいかという智慧が出てきます。リップサービスという言葉が頭の中にある限り、悪事になると思うので、その気持ちを変えたらよいと思います。

 軽いうそでも、理由をつけたりして開き直ると、正精進にはなりません。善は不完全なままになります。むずかしいかもしれませんが、うそをつかない人の理想的なモットーは「たとえ冗談ででも、うそをつきません」というお釈迦様の言葉です。
 がんばってみることですね。抜群に智慧が成長することは約束できます。智慧ある人には、解決できない問題はひとつもありません。

不飲酒戒
Q:
私は日々酒を愛飲していまして老齢(89才)になって日々の楽しみにしてます。自分の心が清浄になることを念じ努力しているつもりですが、その思いでいますとき、五戒の中の「不飲酒」が引っかかってきます。どの程度に受け止めたらよろしいか、お教えいただきたく存じます。

A: 今まで楽しんできたのですから今度は新しい楽しみにチャレンジするのもよいことです。智慧を開発することを楽しみにしていただきたいのです。死ぬときに、無知でボケて死ぬことになってはおもしろくないと思います。ですから徐々に控える方向へ努力されてはいかがでしょう。

(このページでは、皆さんからの質問をスマナサーラ長老にお聞きし、まとめています)

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