「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【37】 妄想(主観)/PTSD

妄想(主観)
Q:
協会の御本ですべては実体のない妄想であるという一文を読み、ハッ!とし、真実、息苦しさを感じました。自分という妄想にとらわれ、どれほど人を傷つけ、罪を犯し、失敗を繰り返してきたことでしょう。日々の生活のなかで、妄想であると気付きながら生活してゆけばよろしいのでしょうか。

A: この問題は、分けてお答えしたいと思います。まず、息苦しさを感じる必要はあるのでしょうか。すべてのものに実体がある、また自分という実体があると思うこと自体が妄想です。自分という実体があると勘違いして、皆、生きる上で、ヒステリックになり、ムキになって苦労しているのです。心の余裕も安らぎも、感じないのです。いじめ、仕事の失敗など、つまらないことで他殺も自殺もするのです。すべてが移りかわるのですから、実体として何もありません。何事にもムキになる必要はありません。リラックスして、こころの安らぎを味わいながら、死ぬまで何とかして生きていられれば、よいのではないかと思います。

 次のポイントは、今まで実体があるという誤解にとらわれて、罪を犯してきたことの後悔だと思います。今まで実体があると勘違いし、誤解していたから、またさまざまな宗教家たちから「永遠の命、尊い命、不死なる霊魂」などの教えをたたき込まれてきたから、皆、自分という何かがあると、前提として信じるようになったのです。そのため、生きることにムキになって、どんなことでもして生きようとし、さまざまな間違いを犯すのです。しいていえば、これは巨大なマインドコントロールです。マインドコントロールされて犯したことを後悔しても意味がありません。実体があると思うこと自体が、妄想であると理解し、マインドコントロールを解いて、これから生きていけばよいのではないかと思います。

 3つめのポイントは、「妄想」という言葉の定義です。私はよく、「主観」という言葉も使っています。「私はリンゴが好きです。ゆえにすべての人間がリンゴが好きです」ということにはなりません。その理屈は簡単にわかるでしょう。また自分が「あの人が、悪い人です。信頼できないのだ」と思ったからといって、その人が確実に悪い、信頼できない人間になるわけではありません。たとえ、皆そう思っているのだと逃げの言葉を使ったとしても、はたしてその人は悪い人になるのでしょうか。人間が高等動物だと思うのは人間の勝手であって、犬も猫もゴキブリもライオンも、おそらく自分たちが下等だとは思っていないだろうと思います。もしかすると、自然のままで生きていられる動物から見れば、自然を壊さずには生きていられない、調理をしなければものさえ食べられない人間のことが、下等だと思えることでしょう。人間は、五感から情報が入ると、それを頭の中でさまざまな知識に解釈します。たとえば耳に入った音は「雑音だ」「人の声だ」「音楽だ」「クラッシックだ」「私の知っているものだ」などと解釈する。実際に耳に触れたのは、犬の耳にも猫の耳にも同じく触れる「音」だけです。が、それぞれの生命が自分自身の主観の世界を作るのです。これが問題です。

 人間である限り、考えたり、判断したりすることは避けられない。それはそれで結構です。しかし考えたのだからといって、『事実』にはなりません。自分が判断したのだからといって、判断が正しいということにもなりません。主観の世界で生きている我々にとって、誰の主観が正しいのかと考えること自体が、矛盾です。「日本人の家は大きいですか、小さいですか」とあらゆる国々の人々に聞いたら、どんな答えが出るのでしょうか。豊かなアメリカ人の答えと、アマゾン川の森の中に生活している原住民の答えとを比べてみると、正反対だと思います。皆の答えがすべて違ったとしても、そこに正しい答えはないのです。でも誰も嘘を言っているわけでもないのです。皆、自分の主観を述べているだけです。

 ですから、主観にとらわれず、主観は真実だと思わず、主観は自分の頭が作った解釈だと思って生活するならば、何の罪も犯さず、清らかに生きていられると思います。

PTSD
Q:
ある例で、思考の流れについてお伺いいたします。子供の頃の家庭環境や、オウムサリン事件、阪神大震災など過去に強烈な身体的・心理的な衝撃を受けた人の場合、その後も生活に何らかの支障をきたし、PTSD(心的外傷後ストレス性障害)という名称をつけられて治療対象にされているようです。体験した事故の状況が、何度もフラッシュバックされてパニックに陥ったり、人格的にも自己評価が極端に低くなり、通常の人間関係を保持できないなど、ひとつのトラウマが一人の人の人生を支配し続けるというのもまれではないという事実があります。
 このように、ある過去の原因で、現在の思考の流れに支障を持つ人が、過去の原因にさかのぼって再体験し、治療を試みるという場合もあります。ふだんいつの間にか気づかずに、習慣化して潜在化する、強烈で逆らいがたい思考の流れに対し、仏教の教えではどのように分析し、どのような取り組み方を勧めているのでしょうか。  

A: 心理的にでも肉体的にでも何か衝撃を受けたら、そのときはわけも分からなくなるかもしれませんが、普通は、徐々に正気に戻ります。足を踏まれて痛くなっても、徐々に痛みは消えるでしょう。こころの衝撃の場合も、法則は同じです。親しい人と死別した、大震災で家族が亡くなった、などのショックを受けても、一定の時間が経つと普通の生き方に戻れるはずです。PTSDと学術的な病名がつけられているのは、この普通の法則から脱出している場合です。

 ちょっとした出来事も忘れがたく、それにしがみついてえんえんと悩んだり、くよくよしたり、あるいは憎しみを持ったりする性格のだらしなさが、PTSDの原因です。衝撃の程度によりますが多かれ少なかれ、ほとんどの人がくよくよする性格で、悩んだり苦しんだりストレスを溜めたりするのが現実です。震災のような大きな衝撃の場合は、精神的に病気だといえるところまで大きくなりますが、そのときは原因と結果がはっきりしているので、それなりの専門家にとっては治すこともむずかしくないのです。

 問題になるのは、日常生活を営むなかで、ちょっとしたことでも忘れがたく、それにしがみついて、いちいち考えて悩んでいる性格の人々なのです。いじめられた、批判された、無視された、失敗した、仲間はずれにされた、仲間になれなかった、などのことで一人勝手に悩み続けるのです。そして頭の中で憎しみ、怒りの感情が膨張してしまって、「キレル」状態になります。自分が、何をするべきかを判断できなくなって、人殺し、放火、監禁、虐待、自殺、などを起こすのです。精神的な病気の場合は過去を再現させるなど、方法もありますし、それぞれの心理科医によってさまざまな方法を用います。

 ここで、仏教的な治療方法の基準をいくらか考えてみましょう。仏教では、この特定の、病気の人だけが悩んでいるとは思っていないのです。幼児虐待を受けた人が、多重人格になったり、サリン事件、阪神大震災などに出会った人が、その嫌な出来事をフラッシュバックしたりして悩み続けたりするだけだとは考えていないのです。多かれ少なかれ、すべての人間にこの病気があると思った方がよいのです。

 原因は、過去に引きずられるということです。「過去は過去だ」「今は違うのだ」と明晰に理解しないことです。過去の経験に過剰に意味をつけることです。ものごとに意味をつけることをやめる方向へ訓練しなくてはならないのです。たとえば幼児虐待の経験がある場合は、「そのときは親も若く、バカでした。私もうるさくて手に負えなかった」ただそれだけのことだと思うことです。性的虐待を受けた場合でも、親にとっては私がすごく可愛かったのでしょう、バカな親が、大きくなっていく私に愛情表現する他の方法を見つけられなかったでしょう、まあいいや、忘れちゃおうと考えればよいのです。あまりしつこく原因を調べることがかえって、何か意味づけをしてしがみつく原因になる恐れがあります。原因を追及するのは専門家の仕事です。すべてはそのときの条件で一時的に生まれるものです。たとえば、子供が泣きわめくと人はうるさい、嫌だと思う。笑うとかわいいと思う。それ以上深い意味はないのです。その子供はうるさいものでもなく、かわいいものでもないのです。どんな出来事でもそのときの条件によるもので、それを感情的にひきずってはならないのです。ひきずる人は、過去の思い出の中に閉じこめられているだけで現在も将来も見えないのです。治療方法は、症状の重さによって変わりますが、一般の人は、今の瞬間だけを明るく、しっかりと生きていれば十分だと思えばよいのです。人生というものはないのです。それは、頭の中で、瞬間瞬間のできごとをつないでいるだけです。今の瞬間さえ成功すれば、すべてOKです。

 PTSDの恐れは皆にあることを覚えておきましょう。

(このページでは、皆さんからの質問をスマナサーラ長老にお聞きし、まとめています)

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