「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【38】日常の冥想/運命はあるのか

日常の冥想
Q: ヴィパッサナー冥想を毎日続けたいのですが、仕事で夜遅く、毎日行うことが困難だと実感しております。まだヴィパッサナー冥想の良さを味わうことがなく、今のところは書物にて、釈迦尊の教えを学んでいるのが実状です。少しの時間でも冥想が実践できる方法はないものでしょうか。

A: ヴィパッサナーは観察するという実践であって、冥想ではありません。
一般的に「ヴィパッサナー冥想」という言葉を使っているからといって、冥想ではないのです。冥想には、特別な時間と場所が必要です。ものごとを観察するには、それはいりません。
 
生きている人間として、なすすべてのことを客観的に観察するのがヴィパッサナーです。
人生に観察、理解、気付きをまったく必要としない瞬間はないのです。朝起きる、布団をたたむ、顔を洗う、朝食を取る…仕事に出かける、仕事をする、帰る…そして寝るまで、一日じゅう、なさるいかなる行為でも、気付きながら、観察しながらなさったほうがよいのです。
気づかずに、うっかり、他のものに気がとられて、上の空の状態で、やってもいいという事柄はひとつもありません。それは無邪気な子供の生き方です。子供が火遊びして、家が全焼し一家みんなが死んでしまった例もあるでしょう。10年ほど前、寝煙草によって東京のホテルニュージャパンが全焼したのです。
ですから気づかない人生、ものごとを正しく観察しない人生はたいへん危険です。特に事件を起こさなくても、そのような人の人生は、「ただ何となく生きていて、死にました」というだけになります。
観察する人は、尊いと思われる「悟り」を開かなくても、日々さまざまな智慧を発見して有意義に生きていられるはずです。「生きる」ということを観察するのですから、ヴィパッサナー実践には特別な時間も場所も、必要ではありません。

 日常生活の中でこの実践を行う方法については、協会で出版している本「冥想が進むサティ上達法」の120ページからをごらんください。また他の書籍にもありますので、参照してください。ヴィパッサナー実践は、表面的にはこの上なく簡単で単純な方法のように見えますが、実はこの世で一番意味の深い、また結構むずかしい方法でもあります。一度冥想会などで、直接、ヴィパッサナー論理と実践方法を習ってから、自分なりに自由に実践し続ければ心配ありません。

 ここで簡単なやりかたを手短かにご紹介しましょう。
まず妄想をやめましょう。妄想というのはわけもなく、あてもなく、役にも立たない頭の回転です。頭は止まることなく回転するのです。それにかなり時間を費やします。結果として、人は、必要な仕事に時間が足りなくなって、あせります。

妄想をやめる方法は、「今」やっていることにだけ、気づくことです。
頭の中で、単純な言葉で、独り言のような感じで、確認しながら行動すれば、妄想の量はかなり減ります。その分生きることが楽になり、失敗が減り、頭が冴えてきます。いつも歩くたびに「左足」「右足」と実況しながら歩くのです。掃除機をかけるときも「押します」「引きます」などの言葉で実況します。徐々にやり方を発見しますので、まずできる範囲で始めることが肝心です。歯を磨くときも、化粧するときも、トイレに行くときも、風呂にはいるときも、着替えるときも、食事の時も、人と話すときも、いつでも実況中継をやってみるのです。それが、なんとかできるようになってきたら、自分の感情の観察も始めるのです。怒ったら「怒り」、楽しかったら「楽しみ」、欲が出たら「欲」、嫉妬が出たら「嫉妬」、悩んでいるのなら「悩み」などのことばで実況して確認するのです。感情の場合は、「怒り、怒り、怒り」という感じで3回くらい確認した方がよいのです。感情の世界は、実は単純で、決められている言葉で実況できるのです。たとえば、「不安」「心配」「恐怖」「混乱」「落ち込み」「怒り」「気持ちが悪い」「気持ちがいい」「楽しい」などです。

 これは実践ですので、どんな良さがあるのかは、やってみればおわかりになるでしょう。実践がうまくいくためには、いくつかの心構えがあります。無駄話をやめる、ストレス解消法だと言い訳をつけて酒などにおぼれることを控える、過ぎ去った出来事は引きずらず、もう終わったことだと思うこと、将来について夢を描いたり、悩んだりすることをやめる、今やることだけ、失敗しないようにと気をつける、成功も失敗も「そんなことは当たり前だ」と思って、気にしないこと、などです。  

運命はあるのか
Q:
神秘学についてお聞きしたいのです。最近姓名判断の高い的中率に驚き、運命や宿命というものはあらかじめ定められたもののように感じることがあります。実際私が親からいただいた名前は良く、苦労もありましたが、幸せだと感じることもあります。上座仏教では、占いや運命、宿命というものをどのようにとらえているのでしょうか。  

A: 私は神秘学の的中率よりは、現代科学の的中率に驚いていますけれど。神秘という世界では当たる確率よりははずれる確率の方が高いのではないかなあ、と思います。神秘学は、なんでも言える世界ですから、客観性にも具体性にも乏しいのです。たとえば誰かが、何かを占ったとする。その通りになったならば、「自分が言ったことは100%的中するのだ」と自慢する。聞きたいのは、その人の占いすべての的中率は100%かということです。あるいはある占い師の占いが、まったく的はずれだったとしましょう。その場合、神秘学者達は「占いはあてにならない」ではなく「あの占い師の勉強が足りない」と言います。もしこの世の中から神秘学を、きれいさっぱり捨て去ったとして、我々が生きるうえで困ることがどれほどあるのでしょうか。
しかしもし、医学、化学、農学などの実用科学を一掃すれば、どうなるでしょうか。

 釈迦尊の答えは、神秘学とは、あっても得がない、なくても損がない、正か否か決められない人間の思考の一種である、というものです。
思考といものは必ずしも正しいものではない。正しい思考は原因に沿って考えて結論に至ることで(如実知見)、証拠に基づいてコントロールされていない思考は単なる妄想です。
たとえば、宇宙に対する思考があります。いくらデータを取っても、かなり推測してストーリーを作らなくてはいけない分野です。
ビッグバーンなどの概念を正しいといくら証明されても、「それは人類にとって何か影響でもありますか」と聞けば、知っても知らなくてもどうでも良いのではないかという答えになると思います。そのような学問を、釈迦尊は、正しいか正しくないかに関わらずあまりほめてはいないのです。

釈迦尊当時インドでは、現代人が驚くほど、さまざまな神秘学が発達していました。姓名判断だけではなく、ネズミが家の何かをかじったら、そのかじりあとを見てその家の運命を判断しました。一部の人々がそういう商売で食べていましたから、お釈迦さまは激しくは批判されなかったのですが、出家した自分の弟子達には、「神秘学のようなインチキ詐欺商売で生活するなかれ」と厳しく戒めていました。お釈迦さまが使った言葉が、「畜生学問」( tiracchâna vijjâ) です。姓名判断についてお話がありましたが、文章ではご自分の名前で苦労もあり幸せもあったということですが、どちらなのでしょうか。人は誰でも苦労もあり幸せもあるものではないのでしょうか。また、我々のインド的な名前、西洋人の名前などはどのように占われるのでしょう。
こころが弱いと、占いで、家の玄関の向きが悪いから商売がうまくいかないと思いこんだら、玄関を変えない限り商売に精魂を込める気持ちにならないのではないでしょうか。

(このページでは、皆さんからの質問をスマナサーラ長老にお聞きし、まとめています)

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