「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【4】 身体を観るヴィパッサナーの効果と難しさ

Q: ヴィパッサナー冥想に関する質問を続けさせていただきます。ある方からの質問で、妄想が出やすく、先生に相談したところ、「そういう人は、普通歩くくらいのスピードで1時間くらい歩くといい」 と言われ実践していたら大変良いようなのだが、一方腰や足の具合があまり良くなくて、ぎっくり腰などもときどきやってしまう。そのようなときは歩くことが難しいので、それに代わるやり方を教えてほしいとのことです。

A:
 代わるやり方を考えない方がいいと思いますね。なぜなら、妄想が出る性格というのは、やっていることに集中しないで他のことを考えてしまう性格ということです。
考える性格というのは本人は 「自分は物事をよく考える人間だ」 と自慢に思っているのです。でも客観的に見ると 「落ちついていない」 ということなんですね。そういう人は、やっているつもりの仕事をちゃんとやっていないのです。そのような考え方の深い人に仕事を頼んだら、うまくやってくれない、時間がかかる、また時間をかけてやってくれたとしても、仕事はガタガタとか、結果が良くないのです。そういう人は焦っている人とか、落ちついていない人とも言うことができます。

 体の調子が悪くなるのもそういうところに原因があります。ぎっくり腰なども、他のことを考えてしまった瞬間に体を動かしてしまうんですね。体自体に、意志の流れ、心のエネルギーがちゃんと流れていない間に、他の部分で体を動かそうとしているんですね。それでそういう結果になるんです。

 ですから他の方法をとってしまうと自分が逃げることになるんですね。だから続けた方がいい。
歩くときも、それから体を動かすときも、体を動かすたびにちゃんと気づいて体を動かすということが必要なんです。

Q: しかし、そういう人が、自分はよく考える人間だと 「自慢」 に思っているということはないのではないでしょうか。

A:
 どんな人間でも、自分の性格には未練というか、執着があるのです。
いくら良くないと思っているとクチにしたところで、執着はあるのです。たとえば、鈍い人がいて、「自分は鈍いので良くない」 と言うかもしれませんが、実は心のどこかで 「私はゆっくりと物事を考える性格だ」 と肯定し、執着している部分があるのです。だから性格というのは一朝一夕で変わるものではありません。
私たちも、いきなり性格を変えろと言っているわけではなくて、今持っている性格を良い方向に持っていきたいだけなのです。

Q: お話を聞いていると、性格を変えることは難しそうですが、どうすれば良い方向に変わっていけるのでしょうか。

A:
 とにかく人それぞれにいろいろな問題が出てきますから、体を動かすことが一番いいのです。
心のことをいろいろ考えるよりは、体を観ることです。歩けないというくらいに具合が良くなくても、ちゃんと体全体をよく認識して歩くとよいと思います。その場合は、走るようにすばやく歩くのではなく、程良くゆっくりと気をつけて歩く。本当の意味でサティ(気づくこと) しながら歩いたら決して問題は起こりません。サティを使って歩く場合は、体のどんな行勤にもちゃんと気づいているわけですから 「うっかりしてどうにかなった」 ということはないんです。

Q: 体を動かして体を観ることで、いろいろと付随するメリットもありそうですが、いかがでしょうか。

A:
 そうですね。姿勢よく行儀よく歩くので、体の筋肉の構成などもきれいに治ってしまいます。筋肉というのは不思議なもので、きちんと意識するとその意識に沿ってすぐ変わってしまうのです。
たとえばスジが曲がらないという人でもその曲がらないというところに意識を集中してゆっくりゆっくり曲げると曲がってしまいます。筋肉というのはすぐ言うことを聞いてくれるものなのです。体の構造や健康状態、筋肉の付き方、そういうものもヴイパッサナーで変わっていきます。

Q: 別の方からですが、ヴイパッサナーの方法論みたいなものは納得できてやっているのだがなかなか目標に対する現実の差が大きく、ギャップが埋まらないとのことです。友人も同様のことを言っていて、みんな自己流で不安があり、厳密な意味でのヴィパッサナーのプロセスというのがどういうものなのか知りたいということです。

A:
 とにかく自分で発見するしかないのです。たとえ私が言っても、それがひとつの「概念」になってしまって、そのとおりにしようとする。それはある面ではしょうがないかもしれませんが、どんどん自分で発見していくしか方法はありません。

 たとえば 「目を閉じて手を伸ばしてください」 とある人に言います。その人が目を閉じ、それから手を伸ばす。そこで 「手を伸ばしましたか」 と聞くと 「伸ばしました」 と答えますね。それは何かを感じて、伸ばしたことを知っているんですね。それを確認してほしいのです。そのときは目では見ていないのだけれど感じた。実感があるんですね。

Q: それをどこまで認識すべきかということが聞きたいのです。全体的に感じるのか、一点集中で感じるのか。

A:
 それは集中力によるのです。自分の集中力以上には観られませんし、逆に自分の集中力より少なく観てほしくない。観られるだけ観てほしいのです。また集中力というのはいつも同じ状態ではありません。たまにものすごい集中力があるときもあれば、ときには全く消えてしまうこともあります。集中力がなく、マンネリで 「伸ばします。曲げます」 とただロにしているだけのことがあってもいいんです。そのときは集中力がありませんが、集中力が出てくると見えてきます。

Q: 集中力が相当必要なようですね。ゆっくりじっくり体を動かし、それを観るようにした方がいいのでしょうか。

A:
 本来のことを言えば、たとえゆっくり手を伸ばしてみても、もし 「私は手を伸ばしている」 という概念が背景にあるならば、それがある限りはうまくいっているとは言えません。 たとえばゆっくり手を伸ばして冥想すると 「私はゆっくり手を伸ばしているのだから、よく冥想できているのだろう」 と思うかもしれませんが、その場合は 「手を伸ばしている」 という概念がいつも頭の中に隠れているんですね。それがなくなって、ただ動きとそれを観察する心、それだけになったとき、それは本当の客観的な見方なのです。それは強引にやるべきものではなく、集中力によって自然と出てくるものです。

(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)

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