「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【40】功徳の積み方

Q:先月のQ&Aの功徳に関してですが、よい行いをしようと思うとき抵抗感を感じることがあります。たとえば寄付しようと思うのにふと「惜しい」という気持ちになったり、本音ではあまり乗り気でないのに理性でやった方がいいのではと思う自分が嫌になったり、またいいことをすると「いい子ぶりっこ」「点数を稼ごうとしている」などと言われることがあったりして行動を起こすときに人目を気にしてしまったりするのですが。

A:功徳を積むことが、お腹いっぱいおいしいごはんを食べるような、簡単なものであるならば人は誰でも、必死になってよいことをするに違いありません。そうであるならば、この世の中で悪いことなどはひとかけらもないでしょう。心の本当の状態は、よいことをいやがるものなのです。心は本来、悪いことのみ行いたがるものです。その証拠に、世の中では悪い行為をする人が多く、よい行為をする人は少ないでしょう。事実を語るより嘘をついた方が楽です。人に何かあげるよりは、誰かから何かをもらうことの方が楽しいのです。子供たちにしても、勉強するよりは遊ぶ方が楽です。朝早く起きるより、朝寝坊ができれば、気持ちいいものです。

 ここで理解していただきたいのは、悪は犯しやすく、善はなしがたい、という真理です。よいことをするためには、悪に惹かれる心と競争しなくてはならないのです。

 本来悪に惹かれる心が、仏陀、親、教師たち、世界がよいと認めていることをしなくてはならないのです。心は、実際やりたくないことを、外側から言われるので嫌々ながらもするのです。功徳というのは行為そのものではありません。功徳というのは、「心の本来の状態」と「外から言われる価値観」との競争につけられる成績表です。心が勝ったならばマイナスで「悪」になるし、外から言われる価値に従えればプラスになって「徳」というのです。寄付しようと思うのにふと惜しいと思うことも、「いいこぶりっこ、点数稼ぎ」と他人が言うのもまったく当然なことです。答えはあなたが、心の感情に負けるか勝つかということです。お釈迦さまはこのように教えられました。

Sukharâni asâdhûni - attano ahitâni ca;
Yam hitañ ca sâdhuñ ca - tam ve parama dukkaram.(Dh.163)

“善からぬこと、己のためにならぬことはなし易い。
ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。"(ダンマパダ163)

Q:また、相手にとって、本当にためになるのかと考えて、ためらうこともあります。
たとえば私は障害児の施設で働いていますが、子供に手を貸すことが子供のためにならないと言われることもあり、いつも何が相手にとってよいことなのか悩みます。コンクリートの上に這い出してきたミミズを水辺に返してやると蟻の大群の餌食になったり、鳩にパンをひとかけら投げてやるとたくさん集まってきて互いにつつき合う喧嘩を始めたり。
 よいことをしたいのですが、どこまで見極めれば、行動してよいのかわからないのです。

A:このポイントは、中道的な立場で理解すべきものです。中道というのは、問題の両極端を考えた未に出てくる答えなのです。この質問も、両極端で考えてみましょう。つまり「結果のみ考えること」と「結果をまったく無視すること」です。結果ばかり計算して行動する場合、自分の行為によって、相手にとってよい結果が出るか出ないかを徹底的に追及し、よい結果にならない場合はやらないというやり方です。この思考はこのように批判できます。よい結果が出るので行うということは、結果を見返りとして見ているので、自分は何も失わないのではないか。確実に儲かるからと投資することと同じではないか。何か寄付しても、上手く使っているかいないかが気になるということは、寄付したものに執着し続けているのではないか。そうすると、自分のわがままも欲も消えないのではないかと。

 もうひとつは、結果はどうであれ、よいことだからやります、という極端な思考の場合です。この場合の反論は以下の通りです。
 他人のことをまったく気にしていないのではないか。自分の得だけ考えているのではないか。たとえ他人にありがた迷惑になっても、よいことだからと自己中心にやっているのではないか。

 正しい(中道的)行為は、論理的にいえば、自分の心も清らかになる。自我も徐々に弱くなる。
他人に対してもありがたい結果になる。よいことをしてもらった側も、「申し訳ない。借りができた」などの重みを感じない。よいことをする側も「よいことをしてあげたのではないか」と思うことなく「当然なことでしょう」と思う行為なのです。
 行為に際して前提として決めるのではなく、ケースバイケースで、そのときそのときの条件、環境の中で判断して行うのです。障害児に手を貸すべきときは貸してあげる。障害児が自分でやった方がよいときは手を貸さないで知らんぷりをする…というように行動するべきです。
 鳩にパンをひとかけら投げてやると喧嘩するので「あげません」と思うのは、鳩の世界の「王様」気分でしょうか。鳩の世界のしきたり・習慣は鳩たちが決めると私は思います。一羽の鳩でも食べられるパンのひとかけらを、大層なことを考えて生ゴミとして燃やす場合、どんなよい結果になるのでしょう。

 仏教は智慧の道です。すべての苦しみが、「無知」から生じるのです。すべての修行実践が、智慧の開発の手段なのです。徳を積む行為も、智慧の開発に役に立たないと、それほど意味がないのです。ですから、行為ごとに因縁論にのっとってものごとを理解するということを、実行しなければいけないのです。

 どこまでを見極めればよいか、おそらくわからないでしょう。それは何でもかんでも、何かの単純な定説で決めつけておこうという極端な思考から生まれる考え方です。中道の人は、前提として決めつけるのではなく、ケースバイケースで判断するのです。ということは、ある時間ある場所で行ったよい行為は、違う時空関係ではやらない方がよいかもしれない、ということです。

Q:善い行いをするときは体も心も軽くなる、と浄心所の話にありました。でも、悪巧みを実行するとき、あるいは悪い遊びを楽しむときも、体や心が軽くなるのでは?

A:悪い遊びを楽しむとき、決してからだも心も軽くはならないのです。それは錯覚です。怒りに怒ってふるえていると、相手をぶん殴った方が気持ちは楽になって、せいせいするでしょう。
それはあまりにも苦しいストレスの発散です。嫌なものは消えると楽ですが、そのかわりに違う嫌なものが入り込むと、無意味です。人を殴ってせいせいするのはよいのですが、殴ってから長い間にわたって返ってくる結果はどんなものでしょうか。
 また、悪い遊びを楽しむには2つのパターンがあります。麻薬、賭事、不倫、女遊び、男遊びなどは、ストレスがたまりすぎて苦しいために行う場合もあります。逆に、快楽に惹かれて、世間の目が気になったり、いろいろと恐怖を抱いたり非難されたりすることで苦しいにもかかわらず、行うこともあります。いずれにせよ、はじめも苦しいし、あとの結果も苦しいのです。身体にも心にも何の軽さもありません。楽だと錯覚するのは、もともとの苦しみが消えるからです。たとえばガンで内臓を摘出され、抗ガン治療も施される人と同じです。よい行いの場合は、スタートだけは苦しいのですが、そのあとずっと幸福感が続くのです。

(このページでは、皆さんからの質問をスマナサーラ長老にお聞きし、まとめています)

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