「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【41】日常生活のなかの悩み/ほか

Q:今、転職のことで悩んでいます。長老の本の中で、人は憧れの心理で職を選び、そのためにストレスや困難に遭うということが書かれていました。道を誤らないためにも、良きアドバイスをお願いします。

A:仏教の教えでは、職業を選ぶときには、殺生、偸盗、邪淫、嘘をつくこと、酒・麻薬など五戒に関わることのないように注意した方がよいと教えています。現在の世の中では完全に理想的に生きることは不可能ですから、できるだけ理想に近い生き方ができるよう、努力すればよいのです。厳しくいさめているのは極端な生き方です。つまり、殺し屋、盗賊、女衒、売春あっせん、麻薬ディーラー、詐欺師などです。たいていの人はこのような職業を選ばないので、気にするほどの問題ではありません。また、まともな仕事を選んでも、五悪(五戒)を犯さないように極力努力した方がよいのです。そうすれば仕事も安定するし、気持も穏やかになります。

 憧れの心理で仕事を選んでも、仕事を全うできる才能を持っているかどうかということが問題です。残念なことに人間は普通、自分に才能、能力のない職業に限って憧れます。ですから「こんな仕事をしてみたいな」という感情だけで決めてしまうと、問題が起こります。憧れの仕事についても、才能、能力がなければ、自分にストレスがたまる、他人には迷惑をかける、仕事は中途半端になる、ということになります。

 仕事が選択できる場合は、自分の能力、才能にあう仕事を選んだ方が、楽しく仕事することができます。もし経済状態が悪くなって、「好きな仕事を選ぶ」贅沢ができなくなったならば、罪を犯す仕事はやめて、どんな仕事でもやるしか方法はないのです。そのとき出てくるのは能力の問題です。仕事はあるのだけれど、その仕事は自分には能力がなくむずかしい、という場合は、文句を言わずに自分の能力を開発すればよいのです。能力、才能というものは、努力次第で開発できるものです。

 仕事においては、「この仕事は自分の役に立っている。他人の役にも立っている」と言えるなら、幸せだと思います。

 収入が足りない、仕事があわない、付随的な行為もしなくてはならない、健康を害する、自分にとっては将来性がない、などの理由で、仕事を変えることはそれほど問題ではありません。仏教徒として、上に述べたことを考慮して、仕事を選べばよいと思います。

Q:お酒を飲まないようにしたいのですが、どうしても飲んで飲み過ぎてしまいます。何とか飲まないでいられる方法はあるのでしょうか。

A:これは性格の問題だと思います。カッコイイ決心はたくさんするのだけれど実行はゼロだとすると、あまり意味がないと思います。小さな決心でも、それを実行すると自分のためになります。「千里の道も一歩から」です。

 ストレス、精神的な悩み、不満などで心が病んでいる場合は、それに気づかず、まったく違うことをしようとする人もいます。たとえば身近な人々との関係がうまくできない場合は、「私は外の世界が好きだ。いろんなところへ旅をしてみたいのだ」などと言い張る人もいます。その場合、その人が本当に旅をしたいのかどうか、自分で理解していないのです。そして、たとえ旅をしても、旅先でも問題を起こすのです。お酒をやめようと決める場合も、本当に酒の悪影響を理解して言っているのか、ほかの問題による悩みから生まれた発作的な決心かはわかりません。心にストレス、悩みなどがない人は、善い決心を簡単に実行できます。

 酒をやめる簡単な方法があります。「飲まないと決めたら、飲まないこと」です。

Q:戒を守ろうとすればするほど、まわりと摩擦が起きたり。自分ががんじがらめになって疲れます。「もっと楽しんでいいよ」とは言われましたが、楽しもうとすれば戒を破ります。それでよいのでしょうか。

A:まわりと摩擦が起こるのは、自分がしっかりしていないからです。善いことであれ悪いことであれ、自分のポリシーがはっきりしている人に、まわりは口出しをしません。決心がはっきりしていないとまわりの人々が違う意見を言ったり、自分の生き方に強引に引っぱったりします。がんじがらめになるというのは、性格的にしっかりしていないからなのです。具体的に、論理的に考えて、何か決心をしたならば、それを守り続けるのは簡単なことです。心底、自分でも納得がいっていないにも関わらず何かを決める人にとってはがんじがらめになるしか道がありません。それはよくないことです。

 戒律の場合は、ただ守ればよいというものではありません。心が無知で煩悩に汚れていると罪を犯します。罪を犯さない生き方(戒を守ること)は、心の汚れを落とすため、また智恵を開発するための、土台として重要なのです。また戒を守ることは、世の中のどんな人間にとっても大変すばらしいことだと胸を張って言えるくらいの理解能力が必要です。それを聞く他人も、「自分には守る自身はないが、確かにすばらしいことをやっている」と感銘を受けるくらい、自分の理解を深めるべきです。

 戒を守ること自体が楽しいのです。悪いことをしません、心を汚しません、常に慈しみの心で生きています、というのが、楽しい生き方だと思います。戒を守らない人の人生は暗いのです。おぼれるほど酒を飲む、徹夜までして無駄話をする、欲しいものは他人をだましてでもいただく、人の悪口を言う、他人のことを軽視して自分の自慢をする、うわさ話をする…。このような生き方が、楽しくて立派なものかどうかと、お考えになってみてください。  よいたとえがあります。人がこう言います。「私はこれから毒を飲んで自殺します。あなたもいっしょに毒を飲みなさい」と。その人にはこう答えるべきです。「私は遠慮します。ご自由にご勝手にどうぞ」。

Q:ヴィパッサナー瞑想のとき、「左足、右足」「ふくらみ、縮み」と頭の中で言っていても、ほかのことを考えています。頭の中が、言葉を繰り返している脳と、妄想している脳、妄想しているなと考えている脳…2つにも3つにもわかれているようで、言葉にも集中できません。

A:水にはいれば誰でも泳げるというわけではありません。泳げない人は泳ぎの練習をすればよいのです。ヴィパッサナー実践も始めたばかりの時期には、おっしゃったような状況になります。そのようなことを気にせず続ければ、心の苦しみは消えていきます。ヴィパッサナー実践をすることで充実感を感じられるようになれば、瞑想はやりやすいと思います。「心にたまっているストレスを取り除こう、今のいやな気持をなくそう、少しでもリラックスしよう、気持をもっと楽にしよう、わずかな時間でも、正覚者・釈迦尊の道を実行してみましょう、善い行いをしましょう」のような気持に基づいて実践してみてください。うまく行くと思います。

Q:昨晩、無我についての概要がなんとなくわかりました。肉体は「無我」(自分の思い通りには変化しないから)で、心は「非我」(相対的であり対峙するものによって変化するから)ということで正解ですか? この論を押し進めていくと「正見」に入りますか? 

A:この思考は「正見を中心にまわっている」ことになると思います。邪見にならないことは確かです。肉体は無我で、心は非我で、となぜ区別するのでしょうか。自分の思い通りには変化しないから肉体は無我であるならば、心も自分の思い通りには変化しないのだから無我です。相対的であり対峙するものによって変化するから心が非我であるならば、肉体も相対的であり対峙するものによって変化するから非我になります。非我だ、無我だと区別しない方がベターだと思います。すべてのものは、因縁によって成り立つ一時的な現象です。肉体にも心にも、絶対的で変わらない実体はないのです。すべてが対峙するものによって変化します。一切は無常であることを体験すると、正見です。

(このページでは、皆さんからの質問をスマナサーラ長老にお聞きし、まとめています)

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