「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【44】 慈悲の冥想

Q:ヴィパッサナー冥想と一緒に慈悲の冥想もするように言われていますが、互いにまったく関係のない冥想方法のように思われます。生きとし生けるものすべての幸せを願うことと、生きることを『苦』だと思って解脱を目指すことは、正反対の行為だと思えますが。

A:確かに表面的に見ると、そのように思えてしまいます。しかし人のこころの本質を知り尽くしたお釈迦さまが、この両方を実践してくださいと教えられましたので、やるしかないのではないでしょうか。多くの人々にとって、純粋にヴィパッサナーだけというのは、入りにくい実践方法なのです。真理の世界もそれほど簡単に理解できないものです。それでも困難のなか、無理して努力を続けると、人格的には大変かたくなになってしまいます。解脱ができるかできないかという疑問も出てきます。まわりの人々に対しても、協調性がなくなります。それが、本人にも他人にも迷惑にもなるし、ストレスにもなります。このことが修行に大変な邪魔なのです。

 そんなときに慈悲の冥想を実践すると、社会と抜群の協調性が生まれて、物事がスムーズに運ぶようになります。それは努力を実らせるためにも、欠かせない条件です。慈悲の実践に支えられたヴィパッサナー修行は、成功するはずです。まわりもその人のことを、親切な人だと思って協力的になります。本人も軽やかな気持ちで修行できます。

Q:ヴィパッサナー冥想だけでも精一杯ですので、なんとか慈悲の冥想を免除してもらう方法はないものでしょうか。

A:安心してください。あります。そもそも仏教の冥想は、人格完成を目的にしているものだと理解してもよいと思います。慈悲の冥想によって得るべき人格がすでに備わっているならば、慈悲の実践に時間を費やす必要はないのです。それはどのような人格でしょうか。

 ものごとを考えたり判断したり、また行動したりする場合に、『私』という概念がまったくなく、『我々』『皆』という尺度を使う人です。他人のためになるものであるならば、いとも簡単に自分は引き下がる人。引き下がるときも、自分が損してもそれを気にしない。他人に「あなたはそんなことをしたら、損するよ」と言ってさとされても、「皆にとっていい結果になったのですから、ありがたいことでしょう」と答えるような性格の人です。すべての生命が平等であることを徹底的に理解し、それを実際の人生のなかでも実践している人。

 すべての生命は、表面的には楽しんでいるように見えますが、皆苦労して生きていることをよく理解している人。他人に対して、どのように援助しても、どのように協力してあげて一時的に幸せになっても、徳を積んで死後、どんな天界に生まれたとしても、人々の生きる苦しみは終わらないのだと理解する人です。解脱するしか、どんな問題にも最終的な解決方法がないと理解している人です。

Q:そうなると、免除どころか結局は慈悲の実践は、どうしてもやらなくちゃいけないことになるでしょう。

A:今まで説明した人格は、非常にまれだと私も思います。過去世で修行した経験があるならば、今世では生まれついて、このような人格者になれます。性格がそこまで進んでいない人々は、慈悲の冥想実践でその部分を補うことになります。

Q:ではこの2つの実践の、密接な関係について知りたいのですが。

A:実践の方法から見ると、慈悲とヴィパッサナーは背中合わせになって、逆方向を向いているように見えます。慈悲の冥想はすべての生命の幸福を願うことで、『生』を認めています。ヴィパッサナーは個人の解脱を目指して、『生』を脱出しようとしています。

 しかし慈悲の冥想実践の中身を少々考えてみてください。まず自分が幸せであるように念じて、「個が幸福に生きていきたい」という当たり前の事実を確認します。次に、自分に関係ある人々もまったく同じ気持ちでいることを理解し、確認します。そこで、我々が、幸せに生きていきたいという立場になります。『個』に限っていた理解が、『我々』という次元まで大きくなったのです。次に、我々だけではなく、いかなる生命でも幸福に生きていきたいということを理解し、確認します。結果として「幸せになりたいのは誰ですか」と聞くならば、「私ですよ」という答えではなくて「一切の生命ですよ」という答えになります。『個』の次元が『我々』に成長し、次に『一切の生命』という次元で見られるようになります。

 この過程ではこころのなかで、何が起こるのでしょう。自我という意識が揺らぎはじめ、一切の生命の次元になると、自我という意識が成り立たなくなります。
さらに努力します。わざと嫌いな人のことも、自分が嫌われている人のことも思い浮かべて「その人々も幸せでありますように」と念じるでしょう。
『嫌い』『嫌われている』という2つの概念は、結局は自分の主観です。他人のことを嫌う人は、自分が幸せになりたいのに相手が邪魔だと勘違いしているだけです。あるいは、他人のことを嫌うことで、自分が幸せになるのだと誤解しているかもしれません。それが誤解とわかると、嫌いな人のことも、嫌われている人のことも、「かわいそうではないか」「本当に幸せになってほしい」と思えるようになるのです。

 人のことを嫌いだと思うあなたは、幸福ですか? 楽しいですか? また自分が嫌われていると思うと、幸福ですか? 楽しいですか? ただ自分の主観で、悩んでいるだけでしょう。その無知な思考には、簡単に気付くことができます。蛇が嫌い、虫が嫌い、ゴキブリが嫌いなどと思うと苦しくなるのは、そのように思う人でしょう。こちらが勝手に蛇が嫌いだと思っても、蛇には何ができるのでしょうか。ゴキブリが蝶々の形になればよいのでしょうか。それぞれの生命に、それぞれの生き方があるのではないでしょうか。誰かを嫌いと思うことさえも、身勝手で、他の生命を見下すことになります。嫌いな人に対しても行う慈悲の冥想実践で、今まで説明した智恵が自然に湧いてきます。自分の生き方と一体になります。その結果として、こころの底から、いかなる生命に対しても、ほんのわずかな差別感さえも消えてしまいます。

 自と他の区別がなくなるのです。これは実践する人のこころの展開です。いわゆる『私』『私』という自我意識の消滅です。その展開が起きたならば、それがヴィパッサナー実践で得られる悟りの最初の段階 (sota^patti)の境地の玄関です。すべてが無常だと気付くだけで、初期段階の悟りが開けます。

 慈悲の冥想実践とヴィパッサナー実践は背中合わせで進めていくように思えますが、道は輪になっています。どこかで顔を合わせなくてはいけないのです。

Q:道が輪になっているならば、とりあえず今のうちは、慈悲を省いてもよいのでは?

A:こころと遊ぶのは難しいのです。
「私は今日から怒りませんよ」と決めたからといって、こころに怒りが生まれないと思いますか。
「あなたは次、いつ、奥さんを怒鳴りますか」と聞かれて、答えられますか。

 純粋にヴィパッサナーのみで悟りを開くためには、高いレベルの智恵が必要です。社会関係を気にしないで修行だけすることになると、かなり苦労をしなくてはならないのです。悟りに成功してもしなくても、人は死ぬまで生きていなくてはならないのです。最終的には解脱を得て、輪廻を脱出できるかもしれませんが、それまでは、緩やかな社会関係もできなくて、苦労しなくてはいけないのです。悟っても悟らなくても、生きているのです。

 生きることは、皆に支えられているから成り立つのです。借りばかりで感謝の気持ちもない人格は、どうかなあ、と私は思います。仏典によると、悟りを開いてからも、慈悲の冥想は実践されたようです。どうせ生きることになっているならば、一瞬でも苦労しないで生きることがよいでしょう。慈悲はそのためです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)

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