「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【46】 冥想の姿勢/功徳と善行為について

Q:日本の坐禅では目は必ず開くとありますが、閉じるのとどちらが正しいのでしょうか。ブッダはどのように教えておられるのでしょうか。それはどの経典にあるのでしょうか。教えてください。

A:問題はまず「必ず」「絶対」等の言葉にあります。文書上では使っても構わないものですが、実際のところ人間がほとんど「必ず」主義であることが問題ですね。「絶対」論者であって何でも断定して考えていますね。「事実は何ですか、真理は何ですか」とオープンなこころで探求することが大事だと思います。

 「必ず目を開けなさい」とは初期経典には書かれていないのです。「必ず」目を閉じなさいとも書かれていません。集中できるならば、こころの汚れをなくすならば、真理に出会うならば、悪から離れることができるならば、解脱へ到達できるならば、「目を開けておく」どころか、逆立ちして実践しても良いのではないかと思います。

 ブッダの教えは具体的で合理的です。こころの汚れ、解脱できない理由などは明確に定義してあります。煩悩をなくして解脱、平安を体験できる道もブッダ自身が自分で証明して解かれたのです。その後、その道を歩んだ多くの方々も同じ結果を体験して、「その道は効果的である」ということが証明されています。

 解脱を願って「新たな欲」を作るべきでないという考え方は、禅も初期仏教も同じです。初期仏教の場合は、実践の過程で、こころが悪の状態・汚れの状態から、善の状態・清浄な状態へ進んでいるかどうかに注意します。チェックもします。もしかするとこのポイントは禅と違うかもしれません。

 それを教えているのは何でしょうか? それは八正道なのです。残念なことに八正道には、目の開け方も閉じ方も書かれていません。「座禅をくみなさい」とも書かれていないのです。

 静かに座って「目を閉じて」(開けても構いませんが、閉じた方が楽です)、意志的な思考を止めて受動的に流れていくこころの回転を客観的に観察することは「ブッダの実践プログラム」の一部です。

Q:もし、大阿羅漢がどこかのサンガに集っている事がはっきり解ったら、そこのサンガへの布施よりも大きな徳を積める御布施は存在しますか?

A:言語的にはサンガは「グループ」という意味です。この場合の「サンガ」とは仏弟子のすべての比丘たちを意味します。

 釈迦牟尼仏陀に個人的にする布施よりも「サンガ」に対する布施の方が徳は高いです。

 仏陀の言葉に「ゴータミーよ、サンガに布施をしなさい。サンガに布施をしたならば、私にも布施をしたことになります」とあります。

 注:仏母ゴータミー比丘尼が「仏陀たるわが子の ために」と思って時間かけて手作りの衣を織って 染めて、袈裟を作って差し上げようとしたときの 仏陀のことばです。お釈迦様も自分の母により大 きい徳を積んで欲しかったのでしょう。故に、ゴ ータミー比丘尼よりも年下の、仏陀の弟子達にさ し上げるように教えたのです。

 サンガへの布施は、仏陀にも、大阿羅漢達にも、阿羅漢果下の聖者達にも、その他のすべての比丘たちにも行き渡るものです。サンガには大小が成立ちません。大きいのか小さいのかということを考える必要はありません。(たとえば日本国といえば日本国であって、小日本国、大日本国は成立ちません。)徳を無限大にするか、大にするか、中にするか、小にするか、無にするか、非にするか、負にするかは、さしあげる側の気持ちと理解の問題です。

Q:積む功徳の大きさは、相手ではなく、自分のこころによってきまるのでしょうか。

A:違います。功徳には二種類あります。ひとりで行うことができる「戒を守ること」「冥想実践すること」などがひとつです。もうひとつは、相手があることによって成り立つ布施をすること、看病することなどです。ひとりで行うことによって成り立つ功徳の場合は、自分のこころの徳によって功徳が大きくなったり小さくなったりします。相手がいて成り立つ功徳の場合は、功徳の価値が高くなる方程式があります。布施を例にして、高くなっていく順に書くと、・こころ汚れた人がこころ汚れた人に布施をする(自分も悪いことをする人間で、悪いことをする人間に何かしてあげることです)。この場合も、必ず功徳を積めます。・こころ汚れた人がこころ汚れていない人に布施をする。この場合、功徳は、もらう側の持つ徳が大きければ大きいほど大きいものになります。・こころ清らかな人がこころが汚れた人に布施をする。この場合は徳の高い人が相手の悪事を気にしないで慈しみのこころで布施をするのですから、・より功徳の功が大きいのです。・こころ清らかな人が、こころ清らかな人へお布施する。この場合、功徳の功がいちばん大きいのです。

 この方程式から解ることがひとつあります。我々には他人のこころを知ることも難しいし、管理することもできないのです。相手のこころが清らかだろうと自分で推測することしかできないのです。自分で自分の心が汚れているかいないかは知ることもできるし、汚れたこころをきれいにすることもできるのです。ですから功徳を確かなものにしたければ、管理できる自分のこころをきれいにすることになります。相手の徳によっても、自分のこころがきれいにはなりますが、この場合はあまりにも受動的で、自分の意志の力が弱いのです。功徳を大きくする決まり手は、意志の強さです。意志は自分で管理できるものです。

Q:貪瞋痴で汚れた行為は悪で、不貪不瞋不痴のこころで行う行為は善だと聞きました。自分のこころの状態は我々にそう簡単にキャッチできないのです。どのように気をつければ悪行為をしないですむのでしょうか。

A:貪瞋痴が激しいときは簡単にわかりますが、それほど激しくない場合は区別できないことは確かです。実践してこころを観られる智恵を開発すれば問題ないのですが、はっきりとわかるほどの悪行為をするようになったら、元も子もなくなります。ですから、すぐ善悪判断をできなければいけないのです。その方法を説明します。

 それは結果を見ることです。まず、何か行為をしたくなったときは、その行為をすることが自分にとってメリットがあるかどうか考えてみる。自分にはメリットがあるとわかったら、次にまわりの人々にメリットがあるかないかを調べてみる。もしまわりの人にもメリットがあるとわかったならば、さらに、世界に、人類に、生命に、自然に、この行為によって何かメリットがあるかないかを調べる。この3つのテストを通過したならば、完全な善行為です。その行動をすればよいのです。

Q:この3つともを通過する必要があるのでしょうか。自分にメリットがあるという一つの条件でも善行為ではないかと思ってしまうのですが。

A:これは、例を見ながら考えると理解できると思います。ある人が、ストレスがたまって、こころが暗くなり、何とかストレスを解消して明るくなりたいと思ったとします。そこで、自分の家で大きい声でしゃべったり、カラオケで歌ったり踊ったりします。本人にとっては速効的な行為でメリットがあるでしょう。でも家にいるほかの方々にとっては最悪の状態になってしまいます。皆の楽しみ、落ち着きが、跡形もなく消えてしまう。ですから、まわりの人々にもメリットがあるかどうかを調べるべきなのです。では、その同じ人が、家族にとっても楽しいことだからハイキングでも計画したとします。すると自分も明るくなって家族も明るくなる。キャンプ場でバーベキューをやりながら、自由自在に遊びます。けれども他人のこと、まわりのことに気がつく余裕がなくなって、不注意で山火事になったり、あるいはとなりのテントまで燃えたとします。その場合は自分と家族にはメリットがありましたが、社会にはデメリットになったということです。ですから明らかに悪行為になります。

 我々の科学発展は、人間だけの一時的な利益を考えた結果、自然破壊につながってしまいました。資源が底をついてしまって、楽に生きられるはずの行為が逆の結果になりました。これは行為を、上に述べたような3つの立場から検討しなかったからです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)

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