「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【47】 不邪淫戒/慈悲の冥想

Q:五戒の一つである、不邪淫の戒について質問します。この戒の意味合いは、協会が配布している冊子の中では、ズバリ「夫婦以外の性交を慎む」となっております。この定義は明確で良いのですが、私自身は、「他の人妻と不倫をしてはいけない」という解釈も頭にあったので、一体どちらが正しいのか、詳しくこの不邪淫の戒について、ご説明を頂きたいと願っております。

A:「他の人妻と不倫」という解釈も合っています。「夫婦以外」と言うと厳密に性交は二人だけの間に限りますから、皆抵抗を感じるでしょう。一人が多数の人と結婚すれば不邪淫にはなりません。法律違反? これは仏教の問題ではありません。法律を改善してもらえば良いのですが。私が申し上げたいのは、性交を二人だけの関係にリミットしたのは仏教ではないということです。それは西洋の宗教の思想です。

 では夫婦とはなんなのか? 
 互いに心配する、愛する、責任感を持つ、子供を作る、親戚関係・社会関係を共にする、死まで面倒をみる、精神的に落ち着く居場所を築く等の人間関係ではないでしょうか。それは現在、紙にハンコを押すことで成立するものですが、本来的には心と心の分かち合いではないでしょうか。

Q:私自身は現在独身なのですが、この場合、配偶者という相手がいない以上、戒を厳密に守ろうとすれば、性欲を満たすには結婚する以外ないということになりますが、それ以外は果たしてダメなのでしょうか? 例えば風俗にいって性欲を満たす場合はどうなのでしょうか? 或いは、相手が人妻である場合は不倫ですからダメだとしても、相手が未婚の女性で、真剣なお付き合いの過程で、お互いを良く知るために関係する場合には、日本の法律上は一応許されると思いますが、仏教的にはどうなのでしょうか?

A:法律で許される行為の場合は「不邪淫戒」を犯したことにならないのです。仏教の倫理から考えると、性交は「責任」と「権利」の問題になります。完全に独立している二人が「責任」の問題も解決しているならば、性交は道徳的な行為になるでしょう。

しかし、別の視点からいうと、女性の場合は「守られている」という概念があります。昔は女性は、結婚するまで、親に、親戚に守られたのです。いまも社会人になるまで女性を守っているのです。その女性に対する「権利」は守る側にあります。たとえ「守られている」女性の同意があったとしても、その人との性行為は戒律の違反です。

Q:単なる性的関係だけを目的としたいわゆる「割り切った付き合い」というのも現代日本には蔓延しているようですが、これが不倫関係ではない未婚の者同士なら、許されるでしょうか? これらの事は自分にとって、戒を守ろうと努力する上で重要な事ですので、長老様の仏法に則った見解を是非お聞きしたいと思っております。

A:「割り切った」関係が問題です。単なる性的アソビではないでしょうか。「女遊び」という言葉は、私も聞いたことがあります。やはり、責任と権利という条件は考えるべきです。でないと、麻薬依存みたいなことになります。それは戒律のところも超えて悪業(罪)になるのです。戒律を守るか守らないかに関係なく、依存して不幸になる恐れがあります。酒に溺れること、バクチ、女遊びは仏教では罪になります。

「権利」の問題ですが、身体を職業にしている場合、商売する側が、サービスと金額を決めるのです。その金額を払った人にサービスを受ける権利が成立つのです。

でも既婚の男性には問題が起こります。夫婦・家族関係に関わるものについて権利は五分五分ですから、自分の妻が「行ってもいい」と許可したなら商売をしている女性のところに行って性交してもかまいません。自分の単独行動は戒律違反になります。

Q:結婚している状況でも、例えば男性側が、男性側の論理で、「たまには風俗ぐらい良いじゃないか、自分の小遣いで遊ぶわけだし…」といった感じで風俗で遊ぶ事は、現代日本ではありがちな事だと思うわけですが、これもダメなのでしょうか? 更に、少々お金持ちの社長さんが、奥さんに内緒で愛人をつくることは当然ダメだと思いますが(笑)、これがもし奥さんの方が寛大にOKしている場合には良いのでしょうか? 

A:これらの質問には自動的に答えが出ていると思います。「たまに云々」といって遊ぶ人は、自分の妻を貶めているのです。自分の子供を大事にしてないのです。おとこではないのです。「おとこ」という存在は家族を養って守るものです。家族を大事にするのです。こんなアソビでどれぐらい人が不幸になったことでしょう。日本でも外国でも、偉い政治家が「女遊び」をしていかに不幸に、不名誉になったかを覚えておられると思います。長い間苦労してやっと獲得した仕事も「アソビ」のせいで辞任する羽目にもなるでしょう。病気は広がる、ブラックメール(脅迫)される、お金を要求されるなどの問題にもつながります。真面目に、平和に生きていられないのです。

 愛人の件ですが、「性交は、一生、二人だけの関係に限る」というのは仏教の話ではないのです。仏陀の在家弟子であった王様達はいかがでしたか。たくさん御后(おきさき)がいたでしょう。しかし戒律も守っていたのです。前に述べた「夫婦」の定義に基づくならば、多妻も多夫もあり得るのです。妻も認める正式な「おめかけさん」は問題ないと思います。

 戒律は法律と同じです。仏教はこころを清らかにする道を教えるのです。管理しない性欲は依存症になります。性欲に溺れると智恵がまったく成長しないのです。智恵を開発しないで動物と同じ精神状態でいるならば、仏教を語る意味もなくなるのです。在家には性交は禁止していません。仏教では性交は、子孫を作って育て上げる大変尊い、責任重大な行為だと理解するのです。性を遊びにして「自分が落ちる落とし穴を自分で掘る」ことをしません。以上、生物学的な要求(biological need)を自然法則の内で満たす方法を啜ったので参考にしてください。

Q:「私が幸せでありますように」と念じるのはエゴでしょうか。また、これを「私に真の平安が訪れますように」という気持ちで念じてもよいのでしょうか。

A:「幸せでありますように」と念じることは、一応、エゴにはならないと思います。エゴをなくすための実践だと思います。エゴというのは、自己中心的なことを自分の幸せだと考えるときだと思います。「苦しんで悩んで生きていきたくない。気楽に楽しく生きていきたい」というのはどんな生命でも持つ普通の気持ちですから、幸せになりたいと思うこと自体がエゴだとは言い切れません。単純に「幸せでありますように」と念じればいいと思います。それはエゴではありません。

 その替わりに「真の平安が訪れますように」と思っても、それはそれでよろしいと思いますが、とにかく、色々とゴチャゴチャ考えず、単純な気持ちで冥想した方がいいと思います。

Q:「私の親しい人々が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じる際、そこに「私の幸せのため」という思いが混じってしまったら、それはエゴになってしまうのでしょうか。

A:それもちょっと考えすぎだと思いますね。「私のためにみんな生きてくれ」ということになると、それ自体がすごいエゴです。私の幸せは親しい人々の幸せといっしょに成り立つもので、さらに、生きとし生けるものの幸せといっしょに成り立つものです。それは「私」と「他人」という区別がない世界なのです。「みんな幸せであってほしい」という広大な、無制限な気持ちの中に私も入っているということだけなのです。

 逆に考えれば簡単に理解できます。自分が幸せであっても、私の周りの人々、私の親しい人々が不幸だとすると、自分の幸せが揺れてしまいます。親しい人々が不幸になると、自分も不幸を感じることになります。次に、世界の皆が不幸のドン底に陥っているとして、自分と親しい人々だけが幸福だとすると、安心して幸福でいられますか。たとえば、ひどい食料不足で飢餓状態で、死にかけている第三世界の国の状況をテレビで見ながら、家族が美味しいご飯を食べている姿を想像してみて下さい。エゴイストでない限りご飯を美味しく感じられないと思います。このように逆に考えるとポイントが分かり易くなります。ゴチャゴチャ考えるのではなく、単純に考えて下さい。「私も幸せでいたいし、親しい人々にも幸せでいてほしい」「すべての生命にも幸せでいてほしい」と。このように考えて実践した方がいいと思います。

 「私のために」と思ってしまうと、それは醜いエゴの思考で悪意です。全く冥想にならない。私のために皆が幸せになりますようにと思うことは、成り立たない悪思考です。屁理屈ですよ。このように思って行動する人々もこの世の中にいるのです。それが人間の大きな問題です。「みんなを自分のために操ろう」と思ったら、たいへん危険なことです。独裁主義です。それをやめるために、この冥想を紹介しているのです。(この質問 続く)

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)

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