「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者

    ☆慈悲の冥想(前号からの続きです)

Q:「私は幸せに生きたい」「私は真の平安を得たい」と願うのはエゴでしょうか。

A:エゴとは何でしょうか?
 自分のことのみを考える。合理性も具体性も関係なしに考える。他人のことを忘れてしまう。他人のことを気にする余裕がない。自分のことだけを考え、妄想しすぎになると、エゴになるのです。エゴイストは精神的な病気です。
 この場合も逆に考えてみるとよいのです。「私は幸せに生きたくない」「私は真の平安は得たくない」と。そう考えると「違うんだ」ということがわかるでしょう。こころの正直な叫び声が聞こえるでしょう。ですから正直なところは、どんな生命でも幸せに生きたい、真の平安を得たいということです。その、こころの正直なところに戻ってほしいのです。偽善的な人間、見た目だけの善人になってほしくないのです。
 ですから「私は幸せに生きたい」というのはエゴではないのです。エゴというのは「私だけ幸せになりたい。他人のことは関係ないんだ」と思ってしまうことです。そのようにエゴとは何かを考え、理解した方がいいのではないかなと思います。

Q:「私は幸せに生きたい」という思いを捨てない限り、悟りは得られないのでしょうか。

A:「我執を捨てない限り、悟りは得られない」という教えを誤解しておられるようです。
お釈迦さまは「悟りは最高の幸福である」とおっしゃっています。ですから、「幸せに生きたい」というその衝動が、悟りにまで人を成長させてしまうのですよ。
 悟る人は我執を捨てるのです。エゴイストのこころの終末です。
人は自分に『私』という実体があると錯覚して、『私』に囚われて苦しむ。『私だけ』という世界に生きていて苦しむ。
 仏弟子は、『私だけ』という世界はあり得ないのだと理解します。すべては無常であって実体は存在しないと理解するのです。『私』という実体はないとわかると、悟りを開けるのです。それですべての苦しみが消えるのです。すべての苦しみが消えることを目的に努力するわけだから、「幸福でいたい」「楽になりたい」という気持ちは決して邪魔にはなりません。

Q:「私の悩み苦しみがなくなりますように」と念じる際、「存在はすべて苦であるということを私が理解しますように」という気持ちで念じてもよいでしょうか。

A:この場合も、思考が曖昧になっています。ですが、決しておかしい考え方ではないのです。
「存在は苦である」というのは、真理であって、事実です。でもこの場合は慈悲の実践ですから、「私の悩み苦しみがなくなりますように」と念じてこころを清らかにすることを目指しています。慈悲の実践で、存在が苦であることが理解できるかどうかは、少々疑問です。存在がすべて苦であることは、智慧の領域のことであり、ヴィパッサナーの実践で理解することです。
 慈悲の実践の場合は単純に、「苦しみがなくなりますように」と念じた方がいいと思います。この二つの実践の目的は仏教用語で心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)と区別しています。

Q:私は、「幸せに生きたい」と願うこと、これもまた渇愛ではないかと悩んでおりましたが、そうではなく、これは願いではなく、「幸せに生きたい」という思いの気づき、確認であると理解してよろしいでしょうか。

A:それでよろしいと思います。「幸せに生きたい」ということがどこで渇愛になるかといいますと、「とにかく生きていきたい」、あるいは色々な欲に溺れて「欲を楽しみたい、そのために生きていきたい、死にたくない」と思うことが渇愛なのです。  生きることは苦しみであって、その苦しみは渇愛から生まれます。ですから「渇愛から離れて心に平安を感じたい」と思うことが、渇愛から離れることなのですね。ですから、「渇愛から離れることが幸せである」と理解して、実践した方がいいのではないかと思います。

Q:「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのも、希望、願いではなく、そういう心で生きよう、そういう心を育てよう、という気持ちの確認であると理解してよろしいでしょうか。

A:「生きとし生けるものが幸せでありますように、という気持ちで生きていますよ」と、その確認ですよ。ですからこれは、人の生きる哲学なのですね。
 人に「あなたは何のために生きていますか」と訊かれたら、その場合はこういう答えになるのです。「別に何のためという目的はありません。まだ死んでいないのだから生きている。でも生きている上では、すべての生命に幸福を願いつつ、すべての生命が幸福になるような生き方をします。それが私の生きるポリシーです」と。
心が入れ替わって、このような人間になるまで実践しないといけないのです。ですからこの質問はおっしゃる通りだと思います。

Q:仏教では過去の因が縁により現在の果を生み出すとしていますね。合理的な考えだと思います。過去世の行状により来世が決定する記述も見られます。それでは今生に障害を持って生まれた者は過去世で悪業を為したからなのでしょうか? 障害者からするとかなりきつい考えだと思えますが、どうお考えでしょうか?

A:業の話は「因果法則」の論理から出てきた一つの思想枝です。一切の生命の「生」が形成される瞬間に関わる諸々の原因の中で、過去の行いもその一つとして機能します。仏教は全ては過去の業ですよという「一因論」には全く反対です。一神論は一因論の一種です。多因、多縁で現在の果が現れるのです。また因でも縁でも変われば、変わった結果を期待することもできるのです。ですから「過去の業だからどうにもなりません」というアキラメの話でもないのです。

人に限らず、生命が生まれる瞬間の最初のこころには、業の影響が優先するようです。わかりやすく言えば、業は『身体』よりも『こころ』『性格』『精神』を管理するようですね。身体とこころは不離、不可分離状態で機能しますから、業は確実に体にも影響を与えることになります。

生命であろうが他のものであろうが、全てのものは因縁によって、現れたり滅したりするので、誰かの機嫌をとるために真理を歪曲することはできないでしょうね。「大慈悲の絶対神のみ知る理由であなたは障害者になりました。だから喜びなさい。あなたは神の特使者だ」と言うと、良い結果になるのでしょうか。

また、もし誰かが仏教で説く「業の教え」を参考にして、「あなたは過去の業で障害をもって生まれることになったのです」と言うことは正しいのでしょうか。それは慈しみの行為なのでしょうか。
 私はそう言う人は嘘つきだと思います。仏陀は悟りの智慧で業の働きを発見したのですが、我々一般人には理解することも、経験することもほとんど無理です。業については、「思考、想像するなかれ。思索の領域を越えていることであり、考えると頭がおかしくなる」と釈尊は説かれています。正直な仏教徒は「悪いことをすると悪い結果になる」という日常の具体的なところに留まり、あれこれ考えあぐねることなく善行為をするよう努力するのです。
 他人の運命について、生き方について、批判的なこと、差別的なことを考えるのは仏教的ではないのです。過去の業について自分自身がはっきりと知っているのなら別ですが、知りもしないくせに「貴方が過去の業で云々」と言うことは単なる差別で、他人いじめで、インチキで、嘘つきで、また大きなお世話です。仏陀の教えを誹謗中傷しているのです。

瞬間瞬間、全てのものが変わっていくのです。命も生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで止まることなく変わっていくのです。無数の因、無数の縁によって変わり方、方向性が定められるのです。業はその無数の因のなかの一つです。区別できないだろうと思います。業だけに絶対的な力があるわけではありません。今の結果が良くないと思う人は、適切に因縁を変えて、次によい結果をだせばよいのではないかと思います。その良い結果も、すべては無常ですので、また変わるのです。

なぜ、人の頭に「障害者」という言葉が浮ぶのでしょう。
人間の身体はそれぞれ違うというだけでしょう。さらに能力の差もあります。人それぞれに出来ることも、出来ないこともあるのです。ですから、障害者、健常者という二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。智慧の人は、『区別』を理解して『差別』を非難するのです。区別の立場から見れば同一のものは一つもないのです。『同じ』人間でも日々変わるでしょうに。日々違うでしょうに。

健常者とは誰ですか。真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。俗世間の基準で、貪瞋痴の基準で、「私は健常者、あの人は障害者」と決めてよいのでしょうか。完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来るのです。障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)

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