「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【55】 謝罪の仕方
釈迦尊の教え・あなたとの対話 疑問・質問・反論のページ
【55】 謝罪の仕方

Q:過去に人間関係で人を傷つけたことがあります。その方に対して、これからは慈悲の心でおつきあいしていこうと思うのですが、過去においてその人が私の言動によって傷ついたことに対してはどのようなことをしていけばいいのでしょうか。

A:仏教は、過去にあまりこだわらない主義なんですよ。
過去にこだわると生きていられないんです。過去をほじくると無数の過ちや失敗が見えてきます。過ちを犯さない人はこの世には存在しない。
問題は、過ちを犯したかどうかではなく、それに足を引っ張られてこれからの人生が不幸になることです。すべての人が過ちを犯すので、それらを悩んだり後悔したりしていると、たまったものじゃないんです。

 この世に必要なのは、過ちを後悔することではなく、それをバネにして、より正しく、明るく、二度と同じ過ちを犯さないように努力することです。
 過去は終わったことだから今更どうにもならないのです。過去の過ちに何とかしようとすることは、無理なことをしようとするのだから時間の無駄です。

 もし人に対して過ちを犯したならば、それを処理する方法はいくつかあります。損害を与えたならば、それを弁償する。人を傷つけたならば、心を込めて謝る。
 弁償をしたくてもできないことや、それは不可能な場合もあります。その時は、正直に謝るしかないのです。

 もしも相手がその過ちを全く忘れているならば、わざわざ思い出させて謝ることには注意した方がいいのです。
なぜならば、せっかくそのイヤな思い出を忘れているのに、またそれを甦らせてしまって不愉快な気持ちにするおそれがあるからです。
 やみくもに謝ればいいというわけではありません。相手が本当にそのことが気になっている場合に謝ればいいのです。その他の無数の過ちに対しては、それはなかったことにして、明るく行動すればいいのではないでしょうか。

Q:謝っても、相手としては、「そんなケロッと忘れられないよ」ということにならないですか。

A:忘れられない場合もあります。謝っただけでは納得がいかない執念深い人もいます。
 その場合は、その人の気持ちをよく理解して、相手が喜びを感じられるように色々と協力をしてあげたりなどの工夫をすることも、ひとつの方法です。

Q:「ごめんなさい」と単純に謝っても、効き目がないことが多いと思います。

A:「謝る」という行為は生きる上でたいへん大事なことです。我々が挨拶代わりに言う「ごめんなさい」とは違います。

 出家同士では、謝ることは、とても大切に真剣に行う法事のひとつです。
「私は自分で気づかずに色々な過ちを犯してきたこと、さまざまな迷惑をかけてきたことと存じます。それらすべての過ちをここサンガの前で認め、謝罪申し上げます。これからも何か過ちを犯したならば、その場で注意していただけるようにお願い申しあげます」と、一人一人が謝りの儀式を行うのです。

 このように真剣なしきたりに沿って謝った人に対して恨み憎しみを抱き続けることなどは、できなくなるのです。その上にケロッと忘れてあげないことは禁止されています。

 この儀式の大事なポイントは、「これからも自分の行動に対して注意してください」と自分の生き方の主導権を相手に与えることです。それによって、我がまま奔放に生きることはなくなるのです。
 また、つまらないことまで心配すると生き苦しくなりますが、それもなくなるのです。何か失敗をしようとしたところで、すぐ注意してくれるので、気楽になります。

 在家の方々も、いくらか、この生き方をまねた方がいいと思います。「何か変なことでもしたら遠慮しないでしっかりと注意してください」と、自分の主導権を社会に返した方が、幸福に生きられると思います。

Q:謝るのは勇気がいるというか、「そっちも悪いのに何で俺が謝らないといかんのか」「俺も悪いけど、むしろそっちの悪い部分が大きいじゃないか」という気持ちになるのが、ほとんどだといってもいいと思うんです。

A:人の悪い部分については、いくらそれが大きくても置いておいて、自分の悪いところを謝ってください。それこそ人格者です。
こちらで「相手の悪い部分の方が大きい」と勝手に思っても、相手がそう思わないならば〈(いさか)いの種〉〈(あらそ)いの種〉になるだけです。仲良くしようとしたところが、よけいなケンカで終わる羽目にもなります。
相手の悪いところだけ見えてしまう性格が、人間を、品のない卑しい存在にしてしまうのです。
 自分は自分の悪い部分を謝って、すがすがしい気持ちで生きていれば十分です。

 誰の悪い部分が大きいかということは、わかったものではありません。
第三者が事実に基づいた客観的な判断をすればわかるかもしれませんが、当事者の判断は単なる主観に過ぎないのです。誰でも「私より相手の悪い部分の方が大きいのではないか」と思ってしまうのです。
 その卑しい性格をやめてください。

Q:自分が悪いということを、なかなか認めたくないところがあります。

A:普通は皆そうだと思いますよ。だからこそ仏教は、「人格者になりなさい」と奨めているのです。

 勇気を持たない人間には無理かもしれません。
素直に謝ることは勇気のいる行為です。また、謝ると勇気が湧いてくるのです。自分の弱い性格がこの行為によって直るので、仏教では謝るという行為自体を「善行為」「功徳」と言っているのです。
 「相手も悪かったではないか」と言って謝らない人は、自分の弱みから逃げているだけです。

Q:勇気を出して相手に謝っても、相手がムスッとしていて、それですごく気分が悪くなって、さらに落ち込んで暗くなる。そういう結果になるのが普通なのではないかと思ってしまうのですが。

A:そういうことで気持ちが悪くなってクヨクヨと落ち込むのであれば、それは謝ったことにはならないんです。

 「自分はそれなりに頑張った。まあ、うまくいかなかったみたいだ。他の方法はないかな」と、また何か他の方法を捜せばよろしいんです。その生き方は行動的でしょう。明るいんですね。暗くなるのは悪行為で、明るくなるのが善行為なんです。

 仏教では、本当は、謝るのは3回までなんです。
3回謝っても許してくれなかったら「まあいいや」と終わる。もう謝る必要はない。3回謝ったら、それで自分の問題は済んだことになります。
向こうが許してくれてもくれなくても、それは向こうの問題で、こちらには関係ないということなんですね。

 相手が「許す」と言ってくれるまで、10年間もがんばって、がんばって、許してもらうまで謝り続けるということは、あんまりしない。そんなにしつこく謝りつづけることは、どちらにとってもイヤなことです。
まあ親子関係などの場合は別ですけど、普通の人間関係では、一応、3回で十分です。
 1回やってみてうまくいかなかったら、また色々と工夫して2回目もやってみる。それでもうまくいかなかったら、また色々と工夫して3回目もやってみる。
 で、3回誠実に謝っても向こうに許す気持ちがなかったら、もう忘れたらいいのです。

 「許さない」「許す気持ちにならない」とは何ですか。それは執念深いというか、性格が恐ろしいということです。
過ちを許さない人とつきあうのは、猛獣を飼っているようなものです。
「許してあげる」行為は、人格者の立派な行動です。私たちは他人の過ちを気楽に許してあげる性格を育てなくてはならないのです。

Q:懺悔誓願の文の中で「自分が受けた他の人々の過ちも許します」という言葉がありますが、それはケロッと忘れるということですか。

A:「もう済んだことなのだから、自分の足を引っぱられないようにしなさい」ということです。

 過去の出来事を覚えているかいないかは記憶能力の問題です。
明確に過去の出来事を覚えているならば、記憶力がすばらしいとしか言えないのです。

 普通は人の記憶力は曖昧で、理性ではなく感情に支配されている。それが問題です。
ある人は自分の過ちや失敗だけを覚えておいて、成功した経験を忘れる。ある人は自分が成功したことだけ覚えていて、何も失敗したことはなかったような高慢な生き方をする。
覚えておくならば、すべて、明確に覚えておくことです。

 他人のことになると、もっとひどいのです。
人が自分にしてくれたよいことは簡単に忘れて、何か悪いことでもしたならば、それだけは何十年も覚えておく。
そして、恨み憎しみの自己破壊への道を選ぶのです。一生仲良くしてきた人でも、一回だけでも失敗したらそれでその人と縁を切るくらい、我々の性格は残酷です。

 仏教は、『他人が自分に対してしてくれたことは、たとえ小さなよいことでも忘れないようにする。それに感謝をする。
他人が自分にした過ちは簡単に許してあげる』そういう性格が人格者の性格だと言っているのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)★質問歓迎!★

←目次へ戻る
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【55】 謝罪の仕方
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.