「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【65】 来世に持っていくもの/痛みの観察の仕方

Q: ご著書を拝読した者です。ご著書に『生き方の真理についての理解は、死ぬ時に来世に持って行ける』という趣旨の説明がありますが、『持って行く』という事がよくイメージ出来ません。人生の真理を理解すると、それなりの心の波動の状態(??)になり、それに応じたレベルの来世に行く、というような感じでしょうか?

A: このような理解もよいと思います。が、「イメージできません」という表現は問題です。なんでもイメージで理解しようとするのは仕方ないですが、すべて漫画的に理解しないほうがいいのではないでしょうか。「自分が行う善悪行為のみが自分のものだといえるのです」という仏陀のことばがありまして、それに合わせてお話したものです。一般的に説法する時は「お金も、家族も、財産も、社会的な地位も、権力も、知識も、死ぬ時は持っていけません。自分の善悪の行為のみもっていきます。それしか『自分のもの』といえる財産はありません。したがって、悪を止めて善を行いなさい」と説法するのです。

 「持って行ける」と日本語で言えば、お金、おみやげ、カバンのようなイメージでしょうね。しかし、このような「異物」のことをいっているのではありません。人格の、性格の改良をいっているのです。性格の改良は異物ではないのです。自分そのものです。知識さえも異物です。

Q: 良い行為・悪い行為はどのようにカウントされ、まだ実現しない結果のエネルギーはどのように保存されるのでしょうか。ひとつひとつ行為の結果が現れるとしたら、簿記のように収支がひとつずつ記録された閻魔帳みたいなものがどこかにあって、死ぬ時に決算して、来世に繰り越すような感じ?

A: このようなくだらないことは考えないほうがよいと思います。すべて物質だとして、唯物的に考える人の疑問です。五感から得られる物質的な情報しか知識として持ってない人間の思考は単なる物質思考です。そうなると、記録する簿記も、記録するバカも、審判し、管理するバカ達も必要になります。データを保管する倉庫も必要です。そういうことではなくて、行為によって、作り出す感情によって、心という機能そのものが変わってしまうのです。それによって、次から次へと出てくる結果もかわるのです。いま現在生きている我々の個性も性格も生き方も好き嫌いも才能も、誰かにやらされているわけでも、どこかからデータを取り出して自分がやっているわけでも、何か企画書があるわけでもないのです。とにかく、性格は性格です。どうにもなりません。我々はこの個性、性格の改良を説いているのです。

 すべては個人のこころに記録されています。どの行為に、どんな時、どのような結果が出るかということは、そのときそのときの条件によって定まります。結果を出すことが出来なかった行為は消えていきます。とりあえずこのように理解してください。


/痛みの観察の仕方

Q: からだに痛みがあって、冥想で痛みを観察しようと思うのですが、歩行禅をやっていても痛みを感じるし、座禅で観ると痛みが激しく増幅して来るんです。

A: 心を整理すると何とかなる可能性はあります。専門用語でいえば『掉挙』という言葉がありまして、心がその状態で激しく活動しているのです。ですから、観てはいるのだけれど、観ることができていない。心が整理されてしっかりと強くなってくると、そういう問題は何とかなる可能性があります。

 痛みの観方についていうならば、心の中に「治るだろうか、治るだろうか、治って欲しい…」という希望があるんですね。だから、「痛み、痛み」と義理のように言いながら、「治って欲しい、治って欲しい」という希望が入ってしまっているのです。希望の思考が心の中に流れているのですが、その流れを自分ではつかみきれていないのです。だから集中力がないのです。とにかく集中力が生まれるまで、つまり、「治って欲しい」という『希望』が消えるまで、同じ調子で続けることです。客観的に観てくださいということです。主観を捨てて客観的に観るということはとてもむずかしいことなので、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と失敗しても、できないからといって叱ることは私にはできません。

 しかし、「こんな痛みは治らないんじゃないかなあ」と諦めかけたとき、何とかなる可能性があります。とにかく間違いながらでもヴィパッサナーを続けると、ヴィパッサナーのプロセスが答えを出してくれると思います。

 ずーっと追ってくる痛みを諦めなさい、ということです。痛みは自分についているものだと、本気で諦めるしか方法はないのです。痛みは消えるか消えないかわからない、自分についているものだと思うことです。人によっては、生まれたときから片方の目の視力が悪いこと、耳が聞こえないこともあるでしょう。そんな感じで、自分の特性だと諦める、認めるしか方法はないのです。

Q: 自分の特性だと認めるというのは、具体的にはどのようなことですか。

A: たとえば障害を持って生まれたならば、自分の障害と戦うなんてばかげた話です。その人の課題は「障害と一緒にどう生きればいいか」ということでしょう? つまり、自分の障害を認めること。「目が見えればいいのに」「耳が聞こえればいいのに」とばかり思っていても幸せにはなれません。障害のある人には障害とともに生きる道しかないのです。何でもかんでも健常者と肩を並べてやりたいと思っても、ただ苦しいだけです。何も得られない。健康な人と障害のある人は、そのからだの違いの部分で競争はできませんからね。競争しようと思えば、人生は失敗に終わってしまいます。でも、障害と一緒にどう生きていけばよいかを発見したら、他の人と同じレベルになってしまうのです。

 ある障害者の絵を見たことがありますが、ほかの有名な人が描く絵より、とても感じがよいのです。手が使えなくて足で描くのですが、本当に素晴らしい絵ばかりです。怒りも苦しみもまったくない、本当にやさしい、美しい絵なんです。きっとその人は幸福で幸福で、家族も大変喜んでおられることと思います。うちの子の作品はステキでしょう? と。この場合、絵の才能、生きる姿勢は、健常者と何も変わらず、同じ土俵上なのです。このような幸福を得たのは、障害を認めたからなのです。我々も、健常者だと思うのはちょっとした勘違いですよ。誰にでもどこかに何か障害があります。

Q: 諦めるということは、受け入れるということですか。

A: そうですね。認めること、つまり、受け入れるということです。それに対して、対立して戦わないことです。希望を作って、現実と戦かおうとするでしょう? 希望というのは妄想概念。妄想概念を持って戦うことはやめるということです。

 我々が自分は健常者だと思うことが間違いなのです。わかりやすくいえば、健常者はこの世にいないといった方が早いと思います。どんな人間でも、自分に対して文句を言いたい点はあるのです。これさえなければ、という点がなにかあるのです。もしなにかの奇跡が起こって、その点がなくなったとしても、また何か違うものが出てくるのです。そのように理解した方がよい、健常者はいないのだと。

 そう考えると、障害者、健常者という言葉自体が差別概念です。私の心の中には、「障害者」という気持ちはまったくありません。ただ、ちょっと違うだけ。違うと言えばみんなも、私も、そう。同じではないのですから。同じ工場で作った製品みたいなものではないのですからね。そんな感じで、痛みをなくそうと思わず、徹底的に観てください。

Q: なるほど。私は痛みを何とかしたいと、どこかで思っていたのかもしれません。

A: 痛みなどを観る場合は、もうひとつ観やすい方法があります。痛みのなかに入り込んでしまうのです。入り込んでみると、ものすごくきれいに見えてきます。妄想に入り込んじゃったら大変なことで、煩悩だらけでろくでもないのですが、痛みのような単純な感覚なら、入り込んでみてもかまいません。歩く冥想をしても、歩きや動きに入り込んでしまう。入り込んでしまったら、妄想も雑念も何も出てきません。そこでは、自分、主観概念が消えてしまうのです。それで、客観的に観られるのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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