「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【66】 殺生について/業について

Q: (1)多少なりとも後ろめいた気持ちをもって、たまに蚊を殺す人と、
(2)全く後ろめたい気持ちを持たず、いつも蚊を殺す人(いっぱいいると思う)ではどちらが、心にマイナスエネルギーを受け取ってしまうのでしょうか?

A: どちらでも心にマイナスエネルギーを受け取っています。両方のエネルギーを比較すると
(1)<(2)になります。理由は、
(1)には、いくらかでも生命に対する、特に殺されている被害者に対する哀れみがあります。
(2)は「殺されて当たり前」と殺しを正当化しています。
 

Q: しかし、全く気にせず平常心で蚊を殺す人は、殺している数はずっと多いのに、元気に明るく過ごすことができ、心に負のエネルギー(毒?)を受けることはないような気がします。でも、後ろめたさを持つ人は、心に小さな負の傷をおう気がします。

A: この「気がする」というところは間違っています。『平常心だから罪にならない』と思うのはおかしなことです。平常心で無数に殺人する人に対しても、同じ理屈が成り立ちますか?
 『後ろめたさを感じること』は反省につながり、後に自分を正すことのきっかけ(原因)になる可能性があります。この場合の「平常心」は、極端な「邪見」になります。「邪見」(邪悪な誤った見解)は「殺生」よりも罪が重いのです。
 

Q: ネズミに家の中を荒らされたくない気持ちは家族全員同じとして、
(1)がんばってねずみ取り器を仕掛けて、かかったネズミを処理する母親と、
(2)それは母の仕事、早く片付けて、
 と口だけ出して、手を出さない家族ではどちらが、心にマイナスエネルギーを受け取ってしまうのでしょうか。

A: 両方とも賛成していることにかわりありません。同罪になるのは避けられません。しかし、(2)が、本気で反対している場合は罪になりません。この場合、被害者に対する気持ちによって罪の重みは決められますが、仏教では、命令犯も実行犯も同罪です。しかし、体を動かしたり、行動を練ったりする分、実行犯に加算されます。
 

Q: しかし、ネズミ対策をがんばる母は、かかったネズミに「チュー」と鳴かれてやはりあまり良い気はしないはず。そのつらさを1人でかぶっているのに、まわりで騒ぐだけで見ようとも触れようとしない家族より罪が重いとしたら、気の毒です。

A: そうですね。これは誰の責任でもないのです。自然の、宇宙の、生命の法則です。誰にもどうすることもできません。地球の自転により、ロシアはとても冬が長く、きびしい寒さになります。死ぬ人もいます。しかし、温かくしてあげることは無理なのです。誰に文句を言っても意味がありません。法則というものには感情も、主観も、例外も、特別扱いも、VIPもDPLもありません。

 生命は殺されたくないのです。長生きしたい、幸福に生きていたい。それは権利です。権利は平等です。誰かに誰かを殺す権利はありません。「仕方ない」は理屈ではありません。肉食獣は獲物を殺します。でないと自分が死にます。自分が生きると他の生命が死にます。この場合でも殺しは罪なのです。


業について

Q: 業についてお聞きします。「自分の業」と言われますが、父親と母親からDNAを受け継いでいるので、人の人生というのは親の影響を受けているような気がします。

A: 今、一生懸命考えておられるのは身体のこと、物質のことなのです。命のことではないのです。物質は単純明快で、科学でも解析されていますね。親からもらったものは、ただの物質なんです。それを生かしているのは、自分のこころなのです。親が身体を作ったとしても、親には子の運命を作ることはできないでしょう。

 立派なDNAをもつ親にも、障害を持つ子は生まれます。それを現代医学で、生まれる前に殺すことはできますが、立派なDNAを持っているからといって立派な子供を作るということは不可能なのです。DNAは何億もあるのです。膨大なDNAのなかのどれとどれが組み合わさるかを、親が決めることはできません。ですから、子供は作られても、子供の運命は作られないのです。親がどのような希望を持っても無理なのです。運命は、自分自身のこころが作っていくものです。
 

Q: しかし、生まれたときも両親を選択できませんし、男か女かも選択できません。

A: 両親を選べない、というのも正しい言葉ではありません。死ぬ瞬間に、我々の渇愛というのは究極に強くなります。それに合わせた場所に生まれてしまうのです。結局、自分のこころが原因を作っているのです。いわば、自分のこころが選んでいるのです。それまでの自分の行為の結果なのです。
 死ぬ瞬間にピークになった渇愛のエネルギーで、次の生はここだよ、と決まってしまうのです。ですから、今『ここ』に生まれている我々は、自分の両親で納得するしか道がないのです。うるさい父親がいるというなら、それは自分で選んできたことなのです。必ず、ぴったり合うところに行くのです。 
 

Q: もう少し具体的に教えてください。

A: たとえば、最後の渇愛がすごく悪いエネルギーだった、それでも人間に生まれてきたとします。前世では、『共存』という気持ちがまるっきりなくて、破壊して破壊して、とにかく生きていたいという気持ちだけで生きてきた。大きな罪だけは犯してこなかったけれど、激しい競争心の渇愛で死んだとします。

 そこでまた人間に生まれ変わったとすると、『ぴったり合う場所』というのは、自分にまったく合わない母親のところ、という風になってしまうかもしれません。それが業の機能です。だから母親も、子がおなかのなかに来たときから、ものすごいつわりで、気持ち悪くて悪くて、死んじゃいたいくらい嫌な気持ちがして、生まれるときも苦しみばかり。生まれてからも、面倒くさくて、よく泣く、思うようにならないと、ヒステリーを起こして虐待に至ったり、生まれてすぐに棄てられたり。棄てられる運命の業を作ってきたのですから、そうやって、自分にいちばん合うところに生まれてしまうのです。子供が欲しくて欲しくて待っているような母親のところには行かないのです。

 とても共存的な生き方をしてきて死ぬときのエネルギーがいくらかきれいだったとすると、喜ばれるところに生まれ変わるかもしれません。

 一例をあげましたが、だからといって一概にはいえないことばかりで、こういう話はものすごくたくさん話をしないと理解できません。自分では何も選べないともいえるし、じゃあ定めですかというとそうでもなく、自分の意志も選択もちゃんと働くし、とても複雑で、到底人間の頭で把握できるものではないのです。
 

Q: 障害児を抱えている場合、日本では「過去に悪いことをしたからだ」と捉えられることもあり、悩む母親もいますが。

A: 業とは、そのような単純なものではないのです。そんな偉そうなことをいう人ほど頭の悪い人はいないのです。「あなたの業が悪い」というのは、怪しい宗教の『脅し』でしょう。

 お釈迦さまは、業のこと、こころの働き、宇宙の構造の3つについては考えるな、とおっしゃっています。人間が考えてはならないことはその3つです。理由は、把握しきれることではないから。きりがないから。ただ疲れるだけで、無意味なのです。

 業についていうなら、ただ、明るく元気に、毎日徳をいっぱい積んでどう生きていくかを考えればいいのです。それが、確実に業をよくしていく方法です。過去のことはわからないのです。私にもわからないし、皆さんも知る由もないのです。

 もし、障害を持つ子を授かったとしたら、両親にとってはこれほどありがたいチャンスはないのです。人間として生きるために。愛情、親切さ、忍耐などが自然に生まれてきます。たとえば、一生面倒をみてあげなくてはいけない重度の障害だったら、どうしても何かやってあげたくなる、いっしょにいると何か気持ちがいい。それはその子の業で、何かエネルギーをもっているのです。まわりの人は、いやな気持ちも苦しみも感じずに活動できるのです。

 もし障害を持つ子が自分の家に生まれたら、その子はその家で生まれるべきだから生まれたのです。その家族には、その子をちゃんと育てるくらいの能力はあるはずです。それを放棄したら、罪になるのです。

 自分で頑張ってどんどん成長する頭の良い子の両親というのは、大抵いい加減で無責任。そういうところに生まれる子は自分で自分の人生を設計する。うまく合っているのです。しかしそのような子がガリガリ頭の知識人の家に生まれたら地獄です。親が違う生き方を押しつけたりして殺し合いになってしまうかもしれません。しかしそういうケースも多々ある。それが業。単純なものではないのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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