「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【69】 慈悲の冥想と帰依について

Q: ホームページの「慈悲の瞑想」のご説明のなかで「慈悲の心を育てるためには、自分の心にずーっと反復して言い聞かせてやればよいのです。そうして念じることは大変有効なトレーニングになります」とありますが、例えば心の中では怒っているようなとき、気持ちが十分にこもらなくても(極端にいえば口先だけでも)慈悲の心を念じる、というようなことはしてもよいのでしょうか。それともしない方がいいのでしょうか。

A: どう考えても、怒りの感情でいるよりは、口先だけでも慈しみの言葉を繰り返すことは良いと思います。

Q: 慈悲の瞑想の中に、「私の願い事がかなえられますように」という言葉がありますが、「願い事」が貪瞋痴につながるような場合には、この部分を抜かした方がいいのでしょうか。自分の場合は、たとえば、「知識を増やしたい」というような欲がまだ残っているようなのですが、これは貧か痴だとも思います。

A: 慈悲の実践は人のこころを真理へと導かせるための手法です。ものごとをややこしく考える人は、ただ妄想しているだけで、理性に基づいて何かを考察しているわけではありません。ですから、先ず慈悲とは何かを理解して欲しいのです。

 真理、事実、本当のことというものは、とても単純で簡単なものです。生命は基本的に単純に出来ています。妄想のせいで訳がわからなくなって、混乱の苦しみのどん底に陥って困っているのです。単純に考えましょう。

 すべての生命は「自分が幸せに生きていたい」とこころの底から思っているのです。ミミズもゴキブリも不幸にはなりたくないのです。しかし、本来の無知のせいで問題が起きるのです。「私は幸せになりたい」という気持ちだけが優先されて、他の生命のことはどうでもいい、関係ない、と思ってしまうのです。この自己中心的な感情は、幸せではなく不幸を招くのです。また自分のために、他にさまざまな害を与えたりもするのです。他に害を与えることで、結局は自分が害を受けることになるのです。幸せを願っていた生命にとっては納得がいかない結果ですので、また同じことを繰り返して他に害を与える道を歩むのです。その果てに、他人のせいで自分が不幸になっていると思って、破壊的な行動までするのです。無知のせいで、「幸せになりたいのは自分だけではありません」という事実に一向に気づかないのです。
 人は怒った時点で道から外れているのです。単純に考えることです。私だけではなく、皆幸せを願っている、と。だから、「私が幸せでありますように」と先ず確認する必要はあります。それがおかしいと『余計な』ことを考える人には、それなら「私は不幸になりますように」と願ってみなさいと言うのです。

 「私の幸せをさておいて、人の幸せを願います」と善人面をかぶっている偽善者もいます。また、混乱に陥って、自分が幸せを願って生きているのかどうかはっきりしない人もいます。だから、先ず「私は幸せになりますように」と確認するのです。論理は簡単で単純です。全ての生命は幸せになりたい。私も幸せになりたい。もし誰かが、私の幸せに害を与えたり、邪魔をしたりするなら、その人は私の生きる権利を奪おうとしている。

 ここで、いさぎよく、他人の権利を認めるのです。自己中心的な愚か者になることをやめるのです。他にも生きる権利がある。それは当たり前だと理解して実感していく道です。偽善をやめる道です。「慈悲は当然な気持ち」だと理解する。「エゴは罪」だと理解する。そういうことで、『慈悲』というのは生命に対する真理、事実であることを単純に理解してこそ正しい冥想実践になるのです。狙いは、エゴ、自我という錯覚を破ることです。成功すれば簡単に解脱へ進むことも出来ます。

 それから、「私の願いごと」について考えましょう。智恵がなく無知に支配されている『私』は、私にとって何が良いことかをわかっているのでしょうか? 子供は、勉強ではなく一日中遊ぶことだけできれば幸せだと思ってそれを願っているかもしれませんが、それは本当に叶うべき願いでしょうか。「願いごとが叶えられますように」と言うときには、欲に基づいた、エゴに基づいた願望、希望などをあれこれとイメージしません。それでは冥想でなくなってしまいます。いつも大雑把に、「私が本当に幸せになるはずの願い」というような気持ちでやるのです。

 正しい立場で「私の願いごとは」と念じると、具体的に思っている希望などが失望になることもあり得るのです。しかし、後になってから、必ず、叶わなくて良かったと思われることになると思います。とにかく、慈悲の冥想の三番目の行は、欲とエゴを育ててしまう方向へ持っていってはいけないのです。

Q: 「三宝に対する帰依」の中で、「仏陀に対する帰依」は具体的にどう考えればよいのでしょうか。教えを残された釈迦尊に敬意を払うのは当然と思いますが、釈迦尊がこの世におられない、という点に少しひっかかっているので、ご教示いただければ幸いです。

A: あなたの論理でいけば、人はいなくなったらその人のことを尊敬しなくても良いということになります。偉大なる人は、亡くなっても、その人のことを尊敬し続けることが役に立つのです。仏陀に帰依した人は、仏陀を指導者にし、先生にする。貪瞋痴に振り回されている人の話に無批判に乗せられる前に、釈尊ならどんなアドバイスをしてくれるだろうかと考えてみる。世の中のすべての人が一斉に言っていることでも、仏陀の言葉に反するものであるならば、それは確実に罪の道だと思って避ける自信が得られるのです。

Q: 前項と関係しますが、「三宝の加護」の「仏陀の加護」についてはどう考えればよいでしょうか。

A: 上の説明で十分ですね。仏陀こそが我々をいつでも悪の道から守ってくれるのです。

Q: これも同種の質問ですが、三宝帰依の「僧に対する帰依」を行うとき、もうこの世にはおられない阿羅漢の方々(サーリプッダ・モッガラーナ尊者など)のことを念じるということは、やってもいいのでしょうか、それともやってはいけないのでしょうか。

A: 悟りを開いて、仏陀の道は正しい真理だと証明してくれた全ての仏弟子たちが、僧に帰依するときの対象になります。我々はあれやこれやとややこしく雑念しないほうがよいのです。尊敬の気持ちを抱き「僧に帰依」をするのです。働きは仏陀の場合と同じです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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