「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【71】 生きることは大変か/無明とは

Q: 私は、たくさん仕事を抱えていて、ふだんの生活がたいへん忙しく、なかなか時間がとれません。
でも、このテーラワーダ仏教を知り、ぜひ自分でも実践してみたいと思い、ときどき時間を作って冥想しています。
しかし、すぐに仕事のことが頭に浮かんできて、集中することがむずかしいのです。

A: なんでもかんでも、やりきれないほどの仕事を抱え込む方なのではありませんか?
 会社の仕事、家のこと、町のこと、あれもやります、それも私がやりますと抱え込んでしまうタイプなのではないでしょうか。たくさんの仕事を抱え込むようになると、ひとつの仕事さえもうまくいかない。まず、時間がありませんから、どこか手を抜かなくてはならなくなってくるんですね。手を抜くようになると、心に落ち着きがなくなってきます。人からも批判される。「この間、頼んだものはどうなっていますか」と言われると、「ちょっと待ってください、明日やりますから」と言っておかなければならなくなる。
そのように、何でも自分でやりたい人というのが、ときどきありますが、何でも自分でやりたい人は全部やれるわけではなく、やれなくて心が混乱するし、他人にも迷惑をかけてしまうし、そのような状態では、客観的な確認というのはむずかしくなってくるのです。

 このような人に仏教が言うのは、「自分の人生をできるだけ軽くしなさい」ということです。何でもかんでも自分でやらなくてはならないということはないはずです。自分にできるだけの仕事をして、人生を軽くした方がいいと思います。

 商売の世界にしても、欲の世界ですから、いくらあっても足りないという法則で成り立っています。欲の世界というのは、本当は精神的な病気なのです。人間が生きるためには、こんなに並々ならぬ努力をする必要はないのです。人間は簡単に生きられるようにできているのです。

Q: 人間が簡単に生きられるものだなんて、とても信じられません。

A: 人間の世界は、仏教では天界とほぼ同じ次元にあります。天界と違うところといえば、我々は病気になったりするし、歳もとる。それに仕事をしなくてはいけません。

 仏典にある物語から推測すると、天国では、仕事をしなくてもよいし、歳をとることもない。わざわざ栄養をとらなくても、自然に存在することができる。生まれたときにはもう一人前で、そのままずーっと生きて、あるときパタッと死んでしまう。

 人間の違うところは、小さく生まれて大きく育たなければならないし、どんどん育っていくと今度は歳をとって、死に至る。病気になることもある。それに、ただ待っていても食べるということはできません。ですから、仕事をしなくてはなりません。

 しかし、それ以外のことは、天界も人間もほとんど同じで、どちらの世界にもトラブルはあるし、欲も憎しみもある。しかし、人間の世界では、天界にない特別な『欲』が働いているのです。

 欲の世界の方程式というのは、いくらあっても足りないという方程式です。不思議な数学です。

 1万円欲しいと人が思うと、1万円もらったところで満足するはずですけれども、やっぱり2万円ないとだめだということになっちゃうんですね。そして2万円もらったなら、やはり4万円、という風に希望がすっ飛んでしまうのです。食べるものが何もない人におにぎりを2つあげたら、それで「よかった」と言って食べますが、次はおにぎりではなくて親子丼が食べたいということになっちゃうんですね。親子丼をもらったら、今度は寿司が食べたい、ということになってしまいます。

 このように「いくらあっても足りない」という状態では、欲しいものを追い求めても追い求めてもきりがなく、体がぼろぼろになるまで働いた挙句、何もやる暇がなくなってしまいます。それでは幸福に楽に生きることはむずかしいので、この「欲の世界の不思議な方程式」を変えなければなりません。しかしただ、それだけのことなのです。

 本来、人間として生きることは、それほどむずかしいことではないのですね。それを私たちが、勝手に、むずかしいことにしているのです。私たち自身の手で、自分たちの世界を生きづらい世界にしているのです。

 昔の人は余計な欲がありませんでしたから、かなり落ち着いていました。暇もいっぱいあったので、村の人たちを集めて祭りをして楽しんだり、穏やかに暮らしていました。今では、その祭りさえ、文化遺産のように扱って、それを人に見せて金儲けにつかっているのです。

 とにかく、欲ばかり追うのではなく、お金にせよ健康にせよ、まあこれくらいでいいんじゃないかな…というリミットを決めて、楽になることで、客観的にものごとを観るためのこころの余裕が出てくると思います。

 日常生活のなかで客観性を持つことができるならば、きっと人生の無駄が消え、仕事もうまくいき、智恵がゆっくり発達してくると思います。

Q: 無明とは何ですか?

A: 無明というのは、ものすごく巨大な暗黒状態、暗闇と考えるとよいでしょう。
その巨大な暗闇に、生命が覆われているということです。暗闇のなかにいると何も見えませんね。ですから我々は、何でも手探りで触って、何とか理解しなければなりません。
 智恵という光があれば見えるのですが、人間にあるのは『知識』だけなのです。
知識というのは、ひとつのものについて、様々な意見が出てくるようなことです。
たとえば第二次世界大戦に日本は参戦しましたが、それは正しかったか正しくなかったかと聞くと、いろいろな意見が出てきますね。そのように、「これ」という答えの出ない状態は、知識の世界なのです。
私たちがどのように生きていけばいいかということにも、何も答えが出てこない。皆、知識の世界に生きていますから、何か質問すれば、知識がたくさんある人は、たくさんのことを言うかもしれません。
昔は知識があまりなかった世界でしたが、今は知識がある世界。

 昔の人も問題をいっぱい持っていました。
なぜ人は病気になるのか、病気になればどうすればいいのか、畑を作ったのに雨が降ってくれない、どうしたらいいのか、或いは雨が降りすぎて、作物が何も採れなくなってしまった、また、平和に生活していたのに隣の国に攻められて、殺される羽目に陥った、いったいなぜ……。その時代の人々にも、それなりの知識はありました。

 現代の我々にはもっと知識がありますが、未だに同じ問題が我々にはあります。
病気になったらどうすればいいのか、ガンになったら何を食べればいい、あれを食べればよい、これを食べればよいと、ありとあらゆることを言いますが、どれも完全じゃないんですね。答えは出ないのです。知識というのは、暗闇のなかでものを触ってみる状態、そしてそれを無明というのです。もしすべてのものに答えが見つかったら、そこには無明はないのです。

 生きている間に生まれてくる問題に答えを持つ人はいない。それが無明だと理解していただければよいと思います。無明というのは、我々がふつうに生きている世界のことです。

Q: なぜ、智恵という光は生まれないのですか?

A: 生命はあまりにも長く無明の暗闇のなかにいたので、光というものがあることさえ知らないのです。
問題に答えがあるということさえ知らないのです。
 そもそも、私たちが生きる場合、「好き嫌い」で生きています。どんな生命も好き嫌いで生きているんですね。「好き」と決めたのも「嫌い」と決めたのも自分であって、それは正しい答えではありません。例を見るとよくわかると思います。ある時期好きでたまらなかった人が、後には嫌いでたまらなくなる。顔も見たくない。そうでしょう?
 ですから、我々が、「良い」「好き」と決めたものも、実際はそうではない。「悪い」「嫌い」と思ったものも実際はそうではない。一旦全部その行動をやめて、自分とは何なのかを観てみない限り、ずーっと無明なんですね。

 しかし、理解しておいていただきたいのは、無明とか無知とかいうのは決して非難する言葉ではないということです。
それは仏教の一番高度な考え方です。どんな宗教でも哲学でも答えを用意する部分、生命というものが、どんな衝動で誰に生かされているのか、という答えにつながる部分なのです。仏教では、生命は無明で生まれてきて、無明のなかでうろうろうろうろしていると説く。無明と渇愛が、すべての生命を作り出す原因であると教えています。ですから、生命であるなら、無明であることは普通のことなのです。もし無明がなければ我々は、ここに体を持って生まれることもなかったのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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