「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【74】 敏感で臆病な性格

Q: 私は、一般の会員で、年齢は31歳の男性でして、本やテープを車の中で聴いたりしながら、あまり学問的にならないで、仏教徒的な思考パターンを取り入れながら、生活したいなあ、と考えているものです。いつごろからこのようになったのかわかりませんが、非常に敏感で臆病な性格をしています。その結果、社会や俗世間があまり好きではありません。社会や俗世間に対して、不信感や疑い、嫌悪感を抱いてしまうのです。

A: これはあまりにもご謙遜ではないでしょうか。謙遜は素晴らしい性格ですが、あまりにもご謙遜が過ぎるとこの世で生き辛いのです。いくらかは自分の意見を通させていただく、自分の要求を認めてもらう権利があるのではないかと思います。何もかも、自分の意見のみを通すために踏ん張るならば、それは明らかに悪い性格だと思われます。しかし、自分という存在も社会の中の一人ですから、その分だけでも自分の意見を通させてもらう、要求に応じてもらう権利があると思います。人は自分の当然の権利まで控えるほど謙虚になってはならないと私は思います。

 必要以上に謙遜なさると、結果として、「何一つ自分の希望は叶わないのではないか、皆、自分のわがままだけ通しているのではないか」と思ってしまうのです。社会との関係で「自分は損ばかりしているのではないか」と思ってしまうのです。その気持ちが、内面に傾くと自己嫌悪になるのです。外面に傾くと社会が嫌いになるのです。皆のことを疑ってしまうことにもなるのです。自分の適切な要求にも応じてもらうようにと生き方を変えてみれば、この問題は解決します。

Q: 私が謙遜しすぎだと思ったことはないのですが。社会や俗世間に対して、不信感や疑い、嫌悪感を抱いてしまうということなのです。疑いの目で見ることは何でもむやみに信用しないという意味では大切なことだと思います。しかし、疑いだしたらきりがないですし、瞬間的に自分を守ろうとして、社会に対して、こころを固く閉ざしてしまうことがあるのです。また、社会に対して、疑いや不信感を強く持っていたり、マイナスの結果をイメージしている限り、結果はマイナスに傾いていくと思います。俗世間でうまくやっていくには、疑いや不信感を抱きながらも、プラス思考でなくてはいけないと思います。


A: これは私が先に述べたことの結果なのです。「社会に対して、こころを固く閉ざしてしまう」とは、結局は、社会が嫌いになったということでしょう。「社会に対して、疑いや不信感を強く持っていたり」というのは「この社会が私の意見を聞いてくれる筈もない、皆、自分の意見だけを通しているのではないか」という意味にもなるのです。「俗世間でうまくやっていくには...」というところを、私は「自分の当然の権利を認めてもらう」という表現にしたのです。プラス思考というものは、自分が望む結果をもたらす思考という意味ではないでしょうか。

Q: 少し、わかってきました。仏道では、いろんな危険人物がいるに違いない俗世間で、疑いや不信感を抱かずに、うまくやっていく方法を教えていると思います。

A: これは「社会とどのように関わりを持つべきか」という問題に、仏教の答えを伺う一般的な質問です。ですから、個人的な答えとしてではなく、一般的な解答を書いてみます。

 「社会には危険人物もいる」。
 普通は誰でもこのように思います。仏教は、皆がそう思うから事実だとは言わないのです。しかし皆がそう思うからには何か根拠があるはずです。それを探求するのが仏教のやりかたです。それで、仏教は以下のようなことを発見しているのです。

 「生命は皆わがままです」。
 それが良いか、悪いかと、bifurcate(二分岐)すると、他の宗教でやっているように、差別思考になってしまいます。よく調べてみると人は、否、全ての生命はわがままであることが見えてきます。差別できるどころではなくなります。「わがままだ」と他人に指す指は自分の方へも向いているのです。(ですから親指と人差し指、両方とも伸ばして言ったほうが良いのです。そうすると、親指は自分を指していることが良く見えます。)

 なぜ生命がわがままなのかを調べると、人(生命)には自分のことしか理解できない、自分のことしか解からない、自分中心にしか考えられないという「認識的な欠陥がある」ことを発見できます。自分のこころで判断するものは自分の主観です。客観的な事実ではありません。私が「あの人は格好悪い」と思ったらそれは私の主観であって、普遍的な事実ではありません。その人もそのように思っているわけではないし、皆も必ずしもそのように思っているわけでもありません。また、私が「格好悪い」と思ったからといって、その人が格好悪くなるはずもありません。

 しかし、私には私の意見しか持てないのです。人の意見を理解したとしても、それも私の意見で処理出来たならばの話です。もし、他人の意見を私の意見で全く処理できないならば、堂々と「解からない」「理解できない」「認めない」「反対」云々と言うのです。ですから、「あなたの気持ちも解かった」と言う場合、それは結局自分の主観で処理できて自分の主観になったという意味です。

 人の気持ちなどわからないのです。私が知っているのは私の意見だけなのです。これは「認識的な欠陥」なのです。

 「私は知っている。私は正しい。」という自己中心的な誤った立場で世界を見ると、「信頼できない。わがまま。危険な人々。」という気持ちに必ずなるのです。(仏教では「邪見」と言うところの一つですが。)正しい言い方は、「私も、あなたも、他の人々も、皆総じてわがままだ、危険だ、信頼できないのだ、頼りにならないのだ」ということです。人はいつでもこの文書から「自分」を削除するのです。(そこまで、汚くてわがままなのです)。社会は信頼できない、私はいつも疑視をもっている、社会は嫌いだ云々と言っている人々は、正気ではないのです。他人よりも危険なのです。自分は他人に対してものを言える立場なのかと、全然考えていないのです。「社会には危険な人物もいる」というのは正しくないのです。生命は悉く危険なのです。そのなかの一人が自分なのです。

Q: なるほど。発想の転換をさせられました。では、ことごとく危険な社会の中で、うまくやっていくためには?

A: 他を騙して、脅して、抑えて、自分のわがままを通す方法もあります。それは俗世間が認める方法でもあります。何もしないで、控える人もいます。それは、チャレンジ精神がない臆病者のやりかたです。

 このどちらも仏教では認めていないのです。では仏教の答えは?
 子供を見てください。わがまま奔放です。しかし、上手く行っていますね。なぜかというと、大人がそれを悪いと思っていない。逆に眼に入れても痛くないと言うほど可愛いと思っているのです。それで、子供は自分の意見を通させてもらうし、大人も楽しみ、喜び、充実感を獲得する。互いに得をしているのです。しかし大人も、いつでも子供のわがままを聞いてあげるわけでもありません。やってあげるべきか、止めるべきかという判断はします。そのときでさえ、「子供にとって良い結果になるかならないか」が判断基準になるのです。やってもらわないと当然子供は逆襲する。それを知っている大人は「どうすればわかってもらえるかなぁ」と色々と工夫を考えるのです。親は子供の納得を得て子供のわがままを聞いてあげない結果を導きます。(子供の)わがままの世界で生き抜くための技がここにあるのです。同じ工夫が大人のわがままの世界でも通用するのです。

 子供のわがままを嫌がらないように、それが可愛いと思うように、社会の、他人のわがままも嫌がらないこと。結局は、皆わがままだから、それは可愛いと思うことです。社会のわがままを聞いてあげるか無視するかは自分で判断するが、相手に納得してもらうように努力をする。このような生き方で両方ともが得をするのです。用語を用いるならば「慈しみ(metta)」なのです。これしか、自分も幸福で、他にも幸福を与えて生きる方法はありません。

 慈しみのない人が自分の利益だけ考えて行動すると、確実に落とし穴に落ちるのです。騙そうとしたところで騙されるのです。あるいは社会を疑って疑って何もできない、暗い、不幸な人になるのです。騙し、騙される世界は、仏教は正しいと思わないのです。慈悲は答えです。慈悲で全てが解決できます。疑が消えます。楽になります。成功します。差別もなくなります。楽しいのです。

 別の方法:他を疑うこと止める。「皆信頼できるような人間になれ」と希望しても叶うはずがありません。アホな世直し思考を封じ、代わりに、自分が信頼できる人になります。疑われない人になります。人を騙せない人になります。そうなると他人が自分を信頼するから「騙される」ことはなくなります。それで、自分の人生も周りの人生も好転します。信頼できない世界で自分が信頼できる人になります。嘘をつく世界で自分が嘘をつかない人になります。騙す世界で自分が他を騙さない人になります。嫉妬する世界で自分が嫉妬しない人になります。恨む世界で自分が他を恨まない人になります。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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