「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【78】「罪を憎んで人を憎むな」は正しいか?

 
Q: 完璧な人間はいない、他人を認めなければならないというお話があったのですが、たとえば歩きタバコをしている人がいれば、その人の行為を憎むべきであって、その人を憎んではならないと思ったのですが、その「歩きタバコ」という行為は正さなくてもいいのでしょうか?

A: 「行為を憎んで、人を憎むな」というのは日本でよくうたわれている言葉ですが、やっている本人は自分のことしか考えてないですから、その立場で見なくてはいけないのです。本人は気分よくやっているものだと、そう見たほうがいいのです。そうするとどのように言葉をかければいいかがわかるはずです。行為を憎むと、結局それも怒りです。何一つ、憎んではいけないのです。つまり、「罪を憎んで人を憎まず」というのは成り立たない。人を憎まなければ、行為自体はどうということはないのですから。

 たとえば歩きタバコで人に迷惑をかけて、火事になったりもするかもしれません。そこで、その行為を憎むとすると意味がないのです。もし山火事になったら誰を憎むのですか? そういう意味で、行為だけを憎むということにはならないのです。

 ですから、歩きタバコで言うなら、本人が自分勝手に喜んで、楽しくてやっているのだから、「まー、よく喜んでやっていることだな」と思えば、もし何か言いたければ、何か言葉が出てくるものです。

 なぜ行為を憎むのですか。人も行為も、どちらも憎んではならないのです。
その代わりにやさしい心で見てみる。よく高校生がタバコを吸っていますね。私はそれを見ると、ある面ではかわいいなと思うのです。その連中は「何か悪いことをやるぞ」と思ってやっているのですから。彼らの世界から見ると、本人たちは一人前になってやっているつもりでしょう。でも吸えないものだから、涙は出るわ、鼻水が出るわ・・・。だから「あんたがたはまだ未成年なのにタバコなんか吸っているのか」と怒鳴るのではなくて、「おいおい、これは身体に悪いんだよ」とかね、「まだまだ成長する年でしょ? もうちょっと身体が大人になってからでいいんじゃないの」とかね。あるいは「君らはね、元気でいたくないの?」とかね。
タバコを憎んでどうするのですかね?
 やっぱり憎むときは、生命を憎んでしまうものですよ。犯罪を憎んで犯罪者を憎むなといっても、犯罪者がいなければ犯罪はないのです。人の行為だから、行為だけでは存在しない。
犯罪だけどこかにありますか? 怒りだけがどこかにありますか?
 ないでしょう。
人殺しや泥棒という行為が、あっちこっちにありますか?
 そんなものはないのです。人がやっていることなのです。だからその人そのものなのです。
たとえばここに何か物があって、それを誰かが持っていったら盗んだことになりますが、ねずみが3匹遊んでいてそれを持っていっても盗んだことにはならないでしょう。すごい風が吹いてきて、それが飛ばされてしまってもうない。結果としてはこの部屋の、ある品物がなくなった。もう二度と戻らないことになった。結果は同じですが、それを人が持って行ったならば盗みであって、風で飛ばされてなくなったら別にどういうことはないのです。
もし物がなくなったという「行為」を憎むというなら、風に飛ばされたときも憎まなくてはいけないのです。

だから、行為だけを憎むというのはあまり意味のないことです。
罪を憎んで人を憎まずという言葉はあまり使わない方がいいのです。正しくないのです。
それよりは、仏教で言う以下のような理解をした方がよいのではないでしょうか。
 みんな愚か者だから、みんな自分のことしか知らない。何かに夢中になってしまうと、周りのことには気がいかない。
たとえば小さな子供が遊ぶとすぐに夢中になるでしょう。危なくて危険で、ハラハラするでしょう。ボール遊びをしているときに、ボールが道路に飛んでいくと、平気で道路に走って行っちゃいますからね。その場合、子供を憎みますか?
 憎めないでしょう。子供は元気に遊んでいるのですからね。ただ夢中になっているだけだからね。「気をつけなさい」とか「危ないぞ」と言うしかないでしょう。
大人がやっていることも、だいたいそんなものですよ。たとえものすごく計画を立てて悪いことをしても、バカはバカなのです。そんなに計画を立ててまで悪いことをするというのは、この人たちは幸福になる道を全然わかっていないのだ、というふうに慈しみで見るのです。

Q: そうなると、具体的には、その人にどう接するべきなのでしょう?

A: どう話すべきか、話してもいいか、話してはいけないか、無視すべきか、その時点で分かるものですよ。決まりはないのです。
「歩きタバコをしている人を見たらすぐに注意しなさい」と言うと、世の中では、たびたび怒鳴られますよ。それなら「無視しなさい」と言うと、世の中、良くなるわけがないでしょう。だから、決めることはできないのです。
人が悪いことをしたとき、それを指摘すべきか言わずにいるべきかなんて、そんなことは慈しみがあれば、その場その場で答えが出てくるのです。そのように、我々の心は常に冴えた状態でいなくてはいけないのです。ある決まりに束縛されてはいけません。

 「悪いことを見たらすぐに言ってやるぞ」と決めてみてください。これから生きていけなくなりますよ。
みんな「あの人はうるさい」と言うのです。友だちもなくなるかもしれません。それで不幸になるかもしれない。自分がせっかくいいことをしようと決めたのに、結果として不幸になるのです。
逆も同じです。どんなに悪いことを見ても黙っているぞと決めたらどうでしょう。それでまたみんな、自分に対して信頼しなくなってしまうのです。だからどちらにしても正しい道とはいえないのです。

 人の悪いところを見たときにも、すぐに正してやるぞということでもないし、無視してやるぞということでもなくて、「人に対してすごくやさしい心で生活するのだ」とだけ思っていればいいのです。
その場合は何の悪い結果にもつながりません。
「これは言った方がいい」とわかったところで言う。そうするとみんなの役に立つ。あの人はずいぶん役に立つ人だ、立派な人だとみんなに認められるようにもなる。友だちがなくなるどころか、かえってたくさんできるようになります。

 それから仏教が強調するのは、人の悪いところを正そうとしていろいろ言うのではなくて、自分が悪いことをするな、怒るな、憎むなということです。いかなる場合でもです。

 たとえば自分の会社の従業員が会社のお金を黙って持っていってしまったとします。
その人は心に汚れがあって欲があるわけです。その人は勉強もしないで仕事もまじめにしないで、怠けてわがままに生きていて、お金がなくなったからといって会社のお金を盗む。結局は盗んだ人の行いが悪いのです。
しかし、その人が自分の会社のお金を盗んで行ったからといって「あいつのせいで自分の会社が損した」と強烈に憎しみを持つと、自分は何も悪いことをしていないのに、自分も罪を犯したことになるのです。
「私はずっとあの人の面倒を見てあげていたのに、私の会社のお金を盗んで逃げてしまった」と相手を憎むと、盗んで悪いことをしたのは相手で、自分は面倒まで見てあげていたのに、結局、自分が巨大な罪に汚染されてしまうのです。それはあまりにもバカバカしいことです。
ですからお釈迦さまは、人の悪い点を正そうとするのではなくて、自分が怒るな、憎むなと言われるのです。
論理的に、完璧に、矛盾が成り立たないように、教えたのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:舟橋左斗子)

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