「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【80】慈悲でガマンを忍耐に

Q: 仏教で忍耐を説いていますが、嫌なことを ガマンすると怒りになってしまうのではないですか。

A: 嫌なことをガマンするのは怒りですね。それは 忍耐ではないんです。だから「ガマンする」と いうことは、厳密に言えばよいことではないん です。「本当はやりたくない。それでもやっている」…それにガマンというんですね。やりたくないことを無理にやるのはよくないのですよ。ずーっとこころに怒りを育てることになるのだから、こころが汚れちゃうんです。

 忍耐というのは、怒らないこと。たとえば、何かしよ うとしている時に、小さな子供が来てジャマをしたとします。イライラして「ジャマしないで!」と言うのは怒 りであって、嫌なのをガマンするのも怒り。「勝手に遊んで」という感じで、子供が何をしても気にせず落ち着いて自分の仕事をする。子供のやんちゃぶりを、何とも思わず、自分は仕事に集中する…それは忍耐。忍耐は精神力を作ってくれる。ストレスにはならない。ガマンはストレスになる。好ましくない対象に対して、怒りがあるとガマンで、怒らないことは忍耐です。

Q: 今は忍耐するべきか、避けるべきか、どっちがいいのか迷う時があります。たとえばつきあいたくない人と、考え方を変えて上手くつきあっていくべきなのか、避けるのがいいか、迷ったりします。

A: 嫌だなと思う相手に対して、忍耐する、攻撃する、避けるという3つの態度がとれます。やり方さえ正しければその3つのどれでも良いのです。大事なのは自分のこころの態度です。怒りが、いらだちが、嫌な気分がない、明るい状態で対応できることです。

 1の忍耐する場合を考えましょう。相手の考え方、生き方は自分にとっては迷惑です。邪魔です。そこで、こ のように考えます。「相手にも、そのような性格で生きる権利があります。ただ私の性格に合わないんだからと思ってとやかく言うと、私がわがままで、相手の権利を奪って相手を邪魔している。相手は相手の生き方で生きているし、私はそれを邪魔だと思わないで淡々と私のやり方で生きてみます。互いに自由ではないか。」そう思うと怒りは起こらないし、人間の尊厳を守る人にもなっているのです。それで落ち着いていられる。周りは少々うるさいのに落ち着いていられることは忍耐の修行になるのです。

 次に、攻撃することを考えましょう。嫌な人に対して簡単に攻撃するならば、何の人格もない人間になるのです。嫌なことを何でも潰そうと思う場合は、怒りだけの感情で生きる人間なのです。精神的には決して健康的だと言えないのです。だからといって、世の中のいけないことを何でも放っておくと、それがエスカレートして危険な状態になる可能性もあります。また、仲間、後輩のいけないところを示唆する義務もあるのです。怒って「やめなさい」と言うと、相手も怒って、止めることを しないでしょうし、自分もその状態に更に怒って、仲間としての調和も壊れることになるのです。自分から考えると相手の生き方は簡単に無視できる。放っておくこともできる。慣れてしまうこともできる。しかし、その生き方は相手にとって良くないのです。教えてあげた方がよいのです。このように相手に対して慈しみがある場合 は攻撃的な態度をとれるのです。怒りがなく、慈しみで攻撃する場合は、喧嘩にはなりません。おもしろおかしくからかわれている、笑われている状態になるのです。 それで相手も嫌な気分を味わうこともなく、穏やかな気持ちで自分の性格を変えるのです。

 3番目の、相手を避けることも考えてみましょう。それは、もうつきあわないことです。しかし、怒りで喧嘩別れであるならば、きれいさっぱり別れたことにはならないのです。別れても、相手と一緒にいたときの嫌な感 情や怒りがこみ上げたりするのです。それが自分の足を引っ張ることになるのです。

 でも、自分と合わない人と色々調整しながらつきあおうとしても、自分の精神状態も悪くなるし、向こうにとってもたいへん状況が悪い。「だから一緒に行動しない方がお互いにいいから離れましょう」と仲良く握手し て離れるような感じであれば、気持ちもいいし、相手とつきあう必要もない。そういう避け方は悪くないんで す。

 もう一つ、自分に悪影響を与える人がいて、自分が弱 くて向こうが力強くてどうしようもないならば、その場 合は相手を避けるしかしょうがないんですね。相手にはとてもかなわない。どうしても相手に引きずられて苦しむようになる。忍耐もできない。ガマンもできない。その場合は慈悲か怒りかということではないんです。これは力の問題で、相手の強い影響から離れるしか方法はないんです。

Q: 自分の主観ではなく客観的に見て嫌な人には、どうしても怒りが出てくると思うのですが。

A: テレビなどを見ると、世の中には不正やおかしいことばかりでしょう。あるのはそれだけですよ。正しいことというのはまれなんです。だいたい人は自分に都合がよければ何でも やる。そういう世の中で、自分と関係のないところ で起きている不正について、たとえばニュースを見 て怒ったり不快になっていたりするときりがない。自分にどうにもならない不正は放っておく。

 自分に関係ある人々が不正的なことをしている場合は、何とかそれを正すために努力する。しかし、その時 も怒ったらどうにもならない。怒ったら、間違いを正すことはできなくなるんです。たとえば、誰かをいじめて いる子供をけっ飛ばしてやめさせても、その子を正したことにはならないんです。やはりその場合も優しいこころで何かしてあげるんです。怒ったら何もできなくなる んです。

 本当に「この不正を直してあげたい」という気持ちがあるならば、怒らないはずなんですよ。怒るのは「この 連中は嫌だ」と、自分が相手とは別の存在になって対立していることなんです。本当に直してあげたければ、怒 らないで、相手の味方になって、何とかしてあげる。別に直したくなければ放っておく。どっちにしても怒る必要はありません。

 慈しみがあれば、すごい智恵が出ますよ。我々の問題 は、すぐに怒りが出ることです。怒りの反対の慈しみは全く出てこないことが問題なんですね。不正を見たらつぶしたくなるんです。つぶすべきなのは行為や考え方であって、人じゃないんです。

 けれども、慈しみのこころで相手と向き合ったとして も、全く言うことを聞いてくれなくてどうしても直らない場合は、放っておくしかしょうがないんですよ。それも慈しみなんです。

 どんな場合でも、怒ったら負けです。怒ったら能力は ない。気に入らない人がいてもだいじょうぶ。こころが 優しければね。「気に入らない人も幸福でいてほしい」 という優しささえあればいいんです。皆、全員がお互いを気に入るということはあり得ないんですよ。気に入らない人がいても、こころの中で相手を心配する気持ちを育てるべきなんですね。

 相手をほめたりおだてたり、機嫌をとって八方美人になろうとすると、奴隷みたいになってしまうんです。 自分の権利はなくなってしまう。だから「皆と仲良くするべきだ」と思うあまり、相手にへつらって自分個人の権利をなくす必要はない。相手に対して優しさが あれば、「あなたの言うことは、ここが気に入りませ んよ」と堂々と言えるんです。「そんなことを言っても、言うことは聞きませんよ」と自分が言ったことを 断る自由が出てくるんです。お互いに「あんたの言うことは聞かないよ」と、認め合うことはないにもかかわらず、仲良くするのです。それが本当の人間関係です。支配したり支配されたりというのは人間関係ではない。それは恐ろしい支配関係です。仏教はそれに反対。正しいのは、自分は誰にも迷惑をかけない、他人も自分に迷惑をかけない、という関係です。

 ニュースなどで不正的な不公平的なことを聞いたり見たりすると、怒ってしょうがない場合もあり得る。 その時は客観的に見ているのに怒りが現れると思うで しょう。しかし、ものごとを客観的に見ると、決して怒りは現れません。では、ワイドショーを見てなぜ怒りが現れるのでしょうか。それは「自分なりの正義感」という主観で見ているからです。自分に直接関係ない世間にある不正・不幸・残酷な行為などが耳にはいったら、それを人間の無知な生き方を理解するための研究材料にすれば良いのです。

Q: 慈悲の冥想をやっていると、こころの底から言葉が出ずに人ごとみたいになっちゃうんで すけど、どうしたらいいでしょうか。

A: 慈悲の冥想はすごい呪文だと思ってくださ い。「すごく強力な呪文を唱えているんだ」 と思ってやってください。そして、自分自身のために、自分の幸福のために、と思ってやってくだ さい。実際、慈悲の冥想は自分のためにやってるんです。「嫌いな人々も幸せでありますように」と念じる ことが、自分のためになるんです。慈悲の冥想をして幸せになるのは誰ですか。自分なんです。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じている人は優しい人だから、皆に好かれるんです。皆が親切にしてくれる。だから得するのは自分でしょ。自分が幸せになる。慈悲の冥想で、自分を守ってくれるシェル ターができるんです。しっかりしたシェルターの中にいると、あっちこっちから弾が飛んできても、なんのことなくいられます。そういうことで、慈悲の冥想は真剣にやってください。

 他人が幸せでありますようにと念じることで、関係 ない人々に自分が良いことをやってるのだと勘違いす る人もいる。「私が念じた。世界は幸福になった」なんてことはあり得ない。ほんとうの結果は、「自分が善い人間になってしまった」ことです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(文責:早川瑞生)

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