「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【82】冥想って何のため?

Q: 社会の平和と秩序を守って道徳的な人間として生活するようにと教えられていますが、冥想実践は必ずやらなくてはどうにもならないのでしょうか。わざわざ冥想しなくてもいいのではないかと思います。冥想実践の必然性は何かあるのですか。

A: 道徳的な人間で正しい生活をするのは、思うほど簡単じゃない。人の気持ちは無常迅速にすぐ変わるものです。嘘をつかないと決めても、すぐ気持ちが変わって嘘をつくことになる。また、人は外の環境に激しく左右され、善い人間になろうとしても、社会からの誘惑には必ず負ける。結局は、道徳的な人間になろうと決めても、そう簡単にはなれないのです。心というのは、役に立たないほど弱いものです。にもかかわらず、善い人間になろうと努力すると、それは精神的な試練になるのです。また社会とも軋轢が生じるのです。ということは、安定した強い心を作らない限りは、完璧にはならない。従って、心を強くする冥想実践が欠かせない訓練になるのです。

Q: その話はよく聞いていますので、今はヴィパッサナー冥想実践にチャレンジしています。しかし、先が見えないので、真剣にはなれません。邁進できるように、何か指標があれば教えて下さい。

A: お釈迦さまは、指標などは、嫌になるほど語られていると思います。経典に書かれていることを現実的な問題として見ないで、宗教的な話だという概念で勉強するので、指標に気づかないのです。

 現実の問題として真剣に考えて下さい。冥想実践の指標は、生きる苦しみを完全に乗り越えることです。心の平安と安穏を得ることです。苦しみの原因である欲・怒り・エゴなどの煩悩を根絶することです。これが、仏道を実践する指標になります。

Q: 指標はよくわかりました。しかし、即座に悟りをひらき、心が完全に清らかな状態にはならないと思います。人は徐々に成長するというのも、お釈迦さまの考え方です。ヴィパッサナー冥想実践をするときも、徐々に成長していくのは当然な話です。でも、自分が今どんな段階にいるのかわからないんです。先生が「あなたは今このレベルにいますよ」と評価してくれるのか、それとも自分で「自分は今この段階にいる」と評価するのか、どっちでしょうか。

A: どちらの評価も必要ありません。そういう「評価」というのはとても危険なことです。自分の地位を確定しようとすると、ろくな結果にはならないのです。「私はこの位置にいる」と思うことで、自我・エゴが割り込んで来るのです。そうなると、実践は先へ進まなくなるのです。

 冥想は偉くなるためにするのではありません。偉くなるとか惨めになるとかとは関係なく、幸せで安らかな人間になることが大切なのです。悟りを開いた人にとっては、誰かが認めてくれても、くれなくても、そんなことはどっちでもいいことになるのです。自分自身は、平安と安穏を獲得しているのです。ご馳走を食べておいしかったならば、それで充分ではないかと思います。他人からの「汝、今食べたものはおいしかったことを証明する」という免許は要りません。他人に認めてもらうことを目標にする場合は、自分に自信がないという意味になるのです。しかし、皆他人に認めて貰えば充分だと思っている。それに依存している。世間を上手く騙すことが出来た場合も、世間に認められるのです。人は、世間の「評価」を得ようとすると簡単に偽善者・欺瞞者になりやすいのです。正直な人は少ないのです。これは、恐ろしいことです。

 自分を評価したくなること自体が煩悩なのです。「俺がいるんだぞ」という考え方(自我)が、問題を引き起こすのです。人間の平和を潰し、混乱や戦いを生じさせるのです。自我意識こそ不幸の元です。冥想は自我意識などない状態を目指しています。自分を評価してもらおうとすることは、自我意識を減らすのと逆方向でしょう。だから、冥想の評価などに気を取られてはいけないのです。どうしても評価したければ、「自分」という自我意識がどれだけ薄くなっているかとチェックしてみてください。

Q: 自我意識が薄くなったかどうかを確かめる方法などはありますか?

A: それも現実問題として、観察してみてください。機嫌が悪くなったり怒ったりする時は、そこに自我があります。自分の意見に反対されると嫌な気持ちになったり、怒りが出たりするでしょう。しかし、「自分」というものが存在しない人には「意見」はあっても「自分の意見」はないのだから、怒りは出てきません。我々は「自分に逆らった」と争うのです。

 「ほめられたい」という気持ちも自我です。とにかく、怒ったり、落ち込んだり、嫉妬したり、舞い上がったり、嘘をついたり、緊張したり、欲を出したり、そういう煩悩が強く現れるほど自我意識も強いんです。

「自分」という自我意識が減っているならば、生きるのが楽しくなっているはずです。ストレスはたまらないはずです。どんなことがあっても、なんのことなくそれに対応して進めるはずです。何にもとらわれないはずです。引きずらないはずです。ゆっくりと自我が減っているならば、ゆっくりと人生は楽になっていくはずなのです。

 自我というのは元々あるものではなくて、条件によって現れる化け物です。我々はあるときは怒り狂うのです。またあるときは欲に溺れて盲目になるのです。あるときは興奮する。またあるとき落ち込む。自分というものは、このように条件によって変わるものです。どんなときの自分でも、その瞬間だけのことなのです。「私はずっといる」と言いますが、現実的に見ると、その「私」は瞬間瞬間変身するものです。結局は、私が何者かと言えたものではありません。

 冥想すると、この自我意識が良い方向へ変わっていくのです。たとえば、食べ物を見るたびに欲が出て、ガツガツと食べていた人がいるとしましょう。食事の自己管理が、欲のせいでできなくなっている。ヴィパッサナー実践をしてみると、食べ物を見ただけで飛びかかって食べたくなる欲が減るかもしれません。毎日ほぼ同じものを食べているから、適量を食べればいいのではないか、と思えるようになる。この状態が、ある条件の中で自我が牙を出すことは無くなった、という意味です。しかし同じ人が、珍味に出会ったりする。その時は、いつものことではないからいっぱい食べるぞ、と欲の自我を出すでしょう。さらに冥想が進むと、たとえ珍味であろうとも適量しか食べない人間に変わっていくのです。怒りの場合も、これと同じくゆっくり減っていくのです。

 自我意識が減ったか否かは、このように自分が置かれているその時の条件から判断できるのです。といっても、以前なら怒っていた場面なのに気にしなくなったとしても、怒りの自我が完全に消えたと言えません。別な条件に出会ったら怒ってしまうからです。しかし、怒りの自我が減ったことは確かなのです。

 自我という気持ちが減れば減るほど、心は安らぎを感じるのです。葛藤が減るのです。冥想が進んでいくならば、欲・怒り・嫉妬・落ち込み・悩み・混乱・無知などの煩悩が牙を出す頻度が減っていくのです。代わりに、安らぎのレベルは上がっていくのです。

 自我が薄くなっているか否かを確かめる方法は、二つです。一つは怒り・欲・憎しみなどの煩悩の減り具合です。もう一つは、心の安らぎのレベルです。

Q: 冥想は自我をなくすためにやると考えてもいいですか。

A: 理論的にはそうなりますが、冥想を実践する人が何かの概念で頭を固めることはよくないのです。自我とは何かも理解していないうちにそれをなくそうとしても、単なる妄想で苦労するだけです。未だ発見もしていない敵を倒せるわけがありません。あれこれと目標を立てたりすると、かえってそれが自我意識を強化するのです。

 お釈迦さまが推薦するのは、ありのままの自分を観察することです。ヴィパッサナー冥想というのは、その手法です。考えること、妄想すること自体が、苦しみを作り、自我という化け物を出現させる根本原因なのです。ですから、今の瞬間・今の一秒を実況するというやり方で思考も妄想も出にくい状況を維持しつつ、ありのままの現象を確認するのはヴィパッサナーのやり方なのです。

 自我をなくそうではなく、痛い時は「痛み」、お腹が膨らむ時は「膨らみ」、お腹が縮む時は「縮み」というように、今の瞬間を観察していけば、徐々に人が目標に達するのです。

 自我などは、実はもともと存在しないものなのです。冥想実践で自我なんかはないことが発見できるのです。「自我というのはただの幻覚だ」とわかるのです。自分を観察して、自我という化け物が構成されるシステムを発見した人は、もうどんな条件のもとでも自我を作ることはありません。自我という妄想概念が破れたのです。それが悟りです。そうなったらもうだいじょうぶ。何があってもこころの葛藤は起こりません。

 冥想の目的は、幸福になることです。お釈迦さまは、何があっても動じない、いつでも安らかで幸せな人こそが偉い、とおっしゃっています。なぜならば、それこそ皆が望んでいて、なかなかできないことでしょう? しかし、その本人は、「私が偉い」とは思わないんです。

Q: 周りからいくら反対されてもこの実践を断固としてやると決めることも、自我の一種だと思う。どうすれば良いのでしょうか。

A: 世間が完全に賛成してくれると思うことは、勘違いです。世間では、満場一致はないのです。人の機嫌を取って、何にもチャレンジしないという立場も情けないのです。反対を振りきってチャレンジしない限りは、成長・発展というものはありません。しかし、極端さも要注意です。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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