「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【88】 善行為を身近に

Q: 「善とは幸せな結果を出す行為だ」と聞きました。善行為による幸福というのも頭ではわかるのですが、怠ける心地よさも捨てがたく、つい怠けてしまいます。

A: 確かに怠けるのは心地いいかもしれません。でも、だから怠けてしまうというならば、「大学に受かりたいけれども勉強はしたくない」というようなもので、話になりません。欲による快楽は新たな不幸の原因になるだけです。穏やかで、落ち着いて、楽しく安楽に暮らせるのが幸せなのです。でも、人々は大概、目先の快楽を求める道を歩んでいますね。だからわざわざ善悪のことを言われる必要が出てくるのです。因果法則が見えると、あれこれ言われなくても、善行為をすることが当たり前になります。だから心が成長したら、もう善だ悪だと言う必要もなくなっています。

 例えば、ご飯を食べることや呼吸することについては、善だとか悪だとか、誰も考えないでしょう? それは当たり前のことだと、皆、知ってるんです。お腹がすいたらご飯を食べること、息を吸ったら吐くことについては、誰も悩みません。そこには「法則に沿って行動する」という理性が働いているのです。

 因果法則は、すべての善行為に当てはまるのです。殺さないことも、盗まないことも、よこしまな行為をしないことも、息を吸うことと同じく、幸せに生きるための当たり前のことなのです。それを理解しているならば、理性がある人だと言えるでしょう。その人は別に善悪に悩むこともないし、善を行おうと踏ん張ることもない。悪をやめようと苦労することもありません。呼吸するごとく、普通に善行為をしているのです。

 すべての生命は本来「幸福になりたい」と思っているのです。だから理性があるならば、善行為をするのは、生命として当たり前の生き方です。しかし、皆、幸福になりたいくせに、自分の感情に操られてわがままな生き方をしてしまう。それが無知ということです。「不幸になる道を歩いて幸福な結果がほしい」というのはおかしい。もっと理性的になる必要があります。理性ある人は、感情ではなく法則に沿って行動するから、悪行為はしません。「こういう原因は苦しみを作る、こういう原因は幸福を作る」とわかって行動するのが理性ある生き方です。誰も法則には逆らえません。そういう意味では、誰も自由ではないのです。

Q: 智慧がある人は必ず善行為をするということになるわけですね。

A: まあそうなのですが、智慧がある人は、とりたてて「善行為」だとか思わないのです。呼吸するような自然な感じでいるのです。「私は呼吸しています」と胸を張る人は誰もいないでしょう? そのように、智慧が現れると善悪の対極性が消えて、善行為が当たり前のことになってしまうのです。だから「善行為をしなさい、悪を行ってはいけない」というのは因果法則を理解するまでです。それまでは善悪が対極的に感じられるのです。

Q: 善悪は、対極的ではなく相対的ではないのですか。これは善、これは悪と決められるのかどうか疑問に思います。

A: 対極的というのは白黒がはっきりしていることです。善も悪もきっちりあるという立場です。相対的というのは、白黒はっきりしません。長いものも、より短いものがあってはじめて長いということになるのだからね。相対的な考え方の方が何となくカッコよく感じるかもしれません。しかし相対的に道徳を論じると、善悪が論理学になってしまって、実際的ではなくなるのです。相対的に捉えると、全部が仲間になってしまう。例えば、「何でもすべては空だ」というと、結局、善も悪も存在しないということになる。道徳は成り立ちません。輪廻の世界も涅槃も差がないということになって、わけがわからなくなるのです。善悪を対極的に語ると「煩悩を減らして悟りを目指すべきだ」と簡単にわかります。道徳が成り立つし、修行も成り立つのです。

 お釈迦さまの道徳論は、実践という立場をとります。人は進化しないといけない、向上しないといけない、努力しないといけない、というモラルを徹底的に語られます。ですからお釈迦さまは、対極的に道徳を語られました。しかし、悪を絶対化することはしません。悪を実在する「悪魔」としては捉えない。すべては現象であって、一時的なものであって、原因がある限りにおいてものごとは存在する。そこは徹底しています。誰かが怒っても、永久的に怒りの種をもっているわけではないのです。ある条件の下では怒りが爆発する。別の条件の下ではニコニコしている。善も悪も実体としてあるのではなく、その時その時の、単なる「反応」です。心の機能をちゃんと見ると、ただの「反応」だとわかるのです。ある条件で落ち込む。しかし「永久的に落ち込む魂」などはないのです。

Q: 悪徳行為というのは簡単にわかるのですが、善徳行為というのはいつどういう時にどのようなことをすれば善徳になるのか、考えるとよくわからなくなります。

A: それはすばらしいことを疑問に思ったと思います。善徳行為とは何か、それが我々にわからないのが当たり前なのです。偽善的に考えればいくらでも思いつくでしょうが、まじめに考えると、わからないはずなのです。なぜかというと、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからです。いくら「善いことをしているんだ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりするとうまくいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。悪という材料で善をつくっている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかりで、よく見ると生命の役には立ってないでしょう?  皆、本当は「自分さえ良ければそれで十分だ」と思っているのです。自分の役に立つならば親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいいと。その本音を出すとうまくいかないんだから、本音は言わないだけです。

 そういう心で「善徳」を考えて何かをしても、汚れた思考や概念で考えた行為なのだから、すごい臭いゴミで芸術作品をつくるようなことになるのです。芸術作品だからそれなりの形はあるかもしれませんが、ゴミだから汚くて臭い。家には飾れません。では本当の善徳は何なのか。それを聞いても我々には理解さえできないと思います。今自分の頭にある概念で理解しようとしても、無理なのです。

 それでお釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と。それを見ると、「不」という否定形を入れただけです。それがすごい智慧なんです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が、いちばん具体的なんです。自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんばる。欲を抑えようとがんばる。だから本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です。自分の不善との戦いなんです。他は何もする必要ないんです。それだけでたいへんです。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると、私たちに、本物の善が経験できるのです。それが善徳になるのです。

 人に嫌なことを言われた場合は自然に嫌な気持ちがこみ上げてくるでしょう?  それを抑えるのです。嫌なことがあった時、私たちに自然に出てくる感情(一次的な感情)は、すべて悪い感情だと思って間違いありません。その一次的な最初の感情を出さないようにするのです。それは顔つきや言葉など表面的なことではなく、内心の、心の深いところで、怒りの感情が出ないようにがんばるのです。もちろん簡単ではありません。苦しいけれども、それで自分の悪と戦ったことになるのです。それがすばらしい善徳になるのです。その行為は汚れてないのです。「私が善いことをやるぞ」と思ってやる行為は、たいがい汚れています。名誉欲や、慢心や、競争心などが隠れているのです。だから、自己観察をしないと、人には善いことはできないはずなんです。

 感情は生きるエネルギーです。怒ると、「怒り」が生きるエネルギーになるんです。怒りが出ないようにしたら、「怒らないこと」が生きるエネルギーになるんです。それがどういうものか、自分でやってみないとわからないんです。でも、「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すごく元気で明るくなるということは言えます。すごく大人になれるのです。その精神的な強さが善徳なんです。その心の修行をする人しか、「善」は知らないんです。自分の悪を落とす道。仏教で目指すのは、その道です。それは、自分で経験して、理解するのです。善徳は自分で経験する。派手に、人にわかるようにやることではないんです。

 仏教を実践する人にしても、「善徳とは何か」と聞かれると、なかなか正しく答えられないと思います。お経を唱えたり法事や先祖供養をすること、お布施したり、冥想することでさえ、すべて形にすぎません。それらはやりやすいんです。心がいくら汚れていても、お経をあげてお布施をして格好つけることなどは、簡単にできます。それが善徳だと思うと真理にはならない。

 善と悪は、己の心を中心にして理解するものです。汚れた心は悪で、清らかな心は善です。しかし、智恵が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。それで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。その努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが、善というものです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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