「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【89】 立ち直りが難しい

Q: なぜ世界は悪くなる一方で一向に良くならないのか、というテーマについていくつか質問をしたいのです。
 世界はトラブル続きですが、人間は皆、立派な生き方をしたいと願っているのではないかと思います。なぜなら、悪い人間になりたい、悪人になりたいと、はじめから思っている人はいないでしょう。論理的に考えるとみんな善い人間のはずが、この世の中にはけっこう悪い人間もいます。私個人のことを省みても、悪人だとは思わないけれど、立派な人間だというには程遠いです。この現象をどう理解すればよいのでしょうか?

A: それは自分の期待を無視している、或いは忘れている、ということではないでしょうか。また、善い人間になる方法が分からないという場合もあります。善い人間になる道だと勘違いして間違った生き方をするケースもあるし、「善い人間の生き方」として挙げられた様々な意見を聞いて、混乱しているケースもあります。

Q: でも、そういう条件なら解決できると思います。忘れた人は思い出せばいいし、方法が分からない人は知っている人に訊けばいい。情報を聞きすぎて混乱している人は、ゆっくり考えてみて、納得できる結論に達すればいいし。でも皆が皆、それで上手くいくわけではありません。やはり、善い人間になるのは難しいことだと思います。

A: それは、表向きに何を言っていたとしても、心底真剣ではないってことじゃないですか。悪いこと、悪行為、不善な生き方が好きなんじゃないですか。

Q: そういわれると、何も期待できない気がして暗い気持ちになってしまいます。「人は善くならない」という前提で考えると、宗教も道徳も機能しない不必要なものになります。でも、一般的にはそんな風には思われていません。道徳や精神的な豊かさに、現代人がどうすれば興味を持つだろうかと悩んでいるところです。しかし、納得がいく解決方法は見つからない。いくら大事に育てて、レベルの高い教育を受けさせてあげても、子供まで犯罪に走ってしまう世界です。この問題はどう観察すればよいのですか?

A: まず一方的に、強引に、人に宗教や道徳を押しつけることは止めたほうがいいと思います。いままで、世の中はそういう押しつけ主義でやってきました。しかし、社会状況は一向に変わらないでしょう。一部の人々は犯罪を起こします。他の人々は、決して完璧というわけではないが、それなりに間違いも犯しながら何とか生きています。ということは、道徳などを強引に押し付けるやりかたは失敗だという結論になります。さらに失敗を続ける必要はありません。

Q: つまり宗教も道徳も教えてはいけない、そんなものは無意味だという意味でしょうか?

A: 違います。なぜなら、不道徳的な生き方では困るでしょう。人が皆、悪いことばかりしているとおっかないでしょう。安心して生きられないでしょう。宗教も道徳も必要なものでしょうね。しかし、押しつけは失敗だから止めましょうという意味なのです。

Q: 分かりました。では別な言い方、方法があるのでしょうか。その方法なら皆、見事に道徳的な人間になって社会全体が良い人間に溢れるという別の方法が。その方法、言い方というのは何でしょうかね。

A: 「治療すれば治る」といえば当たり前の話ですが、問題は、その治療には順番、段取りがあるということです。診断、原因の発見、適した治療方法、そしてその治療方法を実行することです。道徳には期待するほど効き目がない、人はなかなか善い人間にはなれない、などが病いの症状だとすれば(診断終了です)、病いの原因を探すのが次のステップになります。

Q: そうですか。ではなぜ、宗教家たちや道徳を語る人々がいくら踏ん張っても、口をすっぱくしていっても、われわれは、素直に良い人間にならないのでしょうか? その原因を明確に知りたいのです。

A: 言い方がよくない云々は前にも申しましたが、ただそれだけならそんなに問題ではないこともお分かりになると思います。原因はとても根本的で、根が深いのです。ズバリと一言で申しあげるなら、「人は本来悪いことが好き」ということになります。好きなことを簡単に止めてもらおうと思うことは、問題を甘く見ているだけです。
 道徳に対して、私が冗談っぽく作った定義があります。「人がやりたくて、やりたくてたまらないものは不道徳です。決してやりたくないもの、嫌がる行為は道徳です」と。ふざけた定義だから当てにならないけど、けっこう合っているでしょう。この定義が正しければ、人は素直に善い人間にはなってくれない。誰の躾も教えも、指導もなくても喜んで悪人として成長するということになります。

Q: なるほど。何か逆説を仰っているようですが、まじめに考えてくれていないような感じも受けます。もっと分かりやすく説明してもらえないでしょうか?

A: 「嘘をついてはいけない」と指示しても人は嘘をつく。これは、嘘をつく人に言っているのです。嘘をつかない人に言うと失礼です。「他を殺すなかれ」と殺意がある人に言う。しかし、守ってくれない。「タバコを吸うなよ」といっても、「麻薬を服用するな」といっても中毒者は無視してしまう。「無駄話をしてはいけません」などのいかなる道徳の場合でも、状態は同じです。
 もっと重要なことがあります。仏教では、「妄想」は悪行為の中で最も重い罪のランクに入ります。しかし、皆、喜んで自慢げにやっているのではないでしょうか? 分かっていても止められると思われますか? だからこそ、私は言います。「人がやりたくて、やりたくてたまらないものは不道徳だ」と。妄想のおかげで、精神的な正常を失う人々もいる。精神障害を引き起こす人もいる。人生を棒に振る人もいる。精神的に正常でない人に、「それは妄想の結果でしょう」と納得させた覚えも私にあります。本人も、何の疑いもなく原因を認めました。「では妄想を止めましょう、止める方法を教えるから実行してください」と勧めたところで、怒り出すのです。「坊主たるものは慈悲深い人だと思っていた私が悪かった」と私を「賞賛」して帰ってしまう。ですから、人は本来悪いことだけ好きで、不幸になることなら進んで実行するというのは明確な事実なのです。キリスト教では「原罪」という概念で言っているでしょう。「人間ならば罪人だ」と。たとえ赤ちゃんでも。

Q: なぜでしょうかね?

A: 悪い行為にも喜びがあります。快楽があります。だから止められないのです。嫌な人を殺してしまうと「やっつけてやった」という、「自分が勝ったぞ」という刺激があるのです。怒り、憎しみ、嫉妬などは強烈なストレスです。その感情を爆発させれば気分爽快です。悪行為が持っているこの誘惑、この未練は問題です。だから止められない。法律、社会、家族、仲間などが見張って、監視していないと悪いことを何の躊躇もなくする。
 「私は、瞬間の快楽に溺れて末永く不幸の苦しみの落し穴に落ちることはしません。後から来る不幸を考えると、今の瞬間の快楽は決して割に合うものではない。躾がなくても自然に悪いことなら出来る。タダほど高くつくものはない」と、合理的に考えなくてはならないのです。カボチャの種を食べると美味しいけれど、種を蒔いたほうが後でいっぱいカボチャを食べられます。残りを売るならば、別の必要な品も買えるのです。
 このわずかな努力、我慢、忍耐、精進、理解がないから、人は簡単に立ち直らないのです。

Q: 「わずかな努力」だなんて軽々しく教えますけど、実行しようと思ったら、やっぱり相当難しいんじゃないですか? 善い人間になろうと真面目に努力している人々にしても、けっこう時間のかかる作業をしてるんじゃないかなぁと見受けられます。世の中には、「あんた方の言う通りに実践してみたら、かえって自分の病状は悪化した」と文句を言う人までいる。最後に、こういう現状について何か意見はありますか?

A: 仏教では、生命は無始なる過去から無明に覆われて、苦を続ける生き方をしているのだと言っています。言葉を換えると、目の前の楽しみばかり目指して後の結果を無視する生き方は、つい最近に始めたことではなく、無始なる過去からやってきたことなのです。悪行為には瞬間的な快楽という誘惑があるから、止めたい気持ちにはなりにくい。人はたとえボロ家でも、長い間住んでいたならばその場所から離れがたいでしょう? 新築マンションに引っ越しても、落ち着かずに夜も寝られないことになる。しかし一方で、「住めば都」という言葉もありますね。こころが無始なる過去から習ってきた生き方も、変える努力をし続けることです。そうすれば、すぐ善い生き方に慣れてしまうのです。
 悪い思考のしすぎで精神病を発症した人々から相談を受けることがあります。彼らに「思考を変えなさい」と言うと激怒する。「誰よりも真面目にやっているのだ」と言うために、実践している振りまでする。ホントは自分を変えるつもりは毛頭ない。妄想に耽ってせっかく落ち着いて楽しんでいるのに、それを取り上げられるのではないかと思って、恐怖感に襲われているだけなのです。普通の人の場合、そういう問題はまったくありません。強いて言えば、やる気が脆弱なだけなのです。
 善い人間になろうと努力すると、最初は誰でも「自分の楽しみを取り上げられた」という気分になります。ただそれだけのことで諦めてしまうケースも多い。「一時しのぎの快楽を求め、後に無量の不幸に陥る道」を変更したのだと、代わりに「瞬間の快楽が無くても、末永く続く幸福の道」を選んだのだと理解すればよいのです。少々慣れてくると、善い人間になる道は、瞬間的にも幸福をもたらす、永々とした幸福ももたらすことを発見するでしょう。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 佐藤哲朗)

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