「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【92】 「怠け」の正体

Q:  仏教で「怠けてはいけない」という場合、我々が普通に言う「怠け」とちょっとニュアンスが違うようなのですが、仏教における「怠け」とはどういうことなのでしょうか。

A: 「怠け」には、世間的な意味と出世間的な意味とがあります。
 まず、俗世間の「怠け」の定義は、「今やるべきことをやらない」ということです。といっても、社会では、そういう定義におかまいなく、「怠けている」とか「がんばっている」とか勝手に言ってますね。
例えば、自分の子供が病気になったり母親が病気で死にかけていても休まずに仕事に行くと、「怠けずによくがんばるね」と言うでしょう? 本当にやらなくてはいけないことを置いてでも会社に行くような人を、「怠けない」とほめるんです。それは、怠けずにがんばることではないんです。その人は、やらなくてはいけないことをやってないのだから怠けているのです。それでその人の人生に、色々と損害が起きるのです。会社は、自分の命ではないのです。自分の人生とは何なのかという、そこら辺を考えてないのです。世間では、一般的な「怠け」についてさえ、ちゃんと理解していないということですね。

 本当にほめるべきなのは、「今、自分の人生にとってやらなくてはならない義務を果たしていること」です。今やらなくてはいけないことをやらないことが怠けであると、まずそれを覚えておいてください。

 仏教にはもう一つ、出世間的な「怠け」の定義があります。出世間の「怠け」の定義というのは、「感情に振り回されて生きていること」なんです。

 これが怠けだというのはわかりにくいかもしれません。だって感情に振り回されて生きていると、元気に見えますからね。遊びたくなったら遊ぶ。食べたくなったら食べる。怒りたくなったら怒る。しかしそれは、仏教から見ると、怠けているんです。それどころか、仕事を楽しくバリバリがんばっていることさえも、「怠け」になるんです。なぜかというと、それも結局は、感情に振り回されているでしょう?  商売がうまくいって、すごく元気になって、昼も夜も関係なくがんばる。店を一軒出して成功したら、二軒目も作る、三軒目も作る。そうやってドンドンお金儲けをする。そういうのもやはり、仏教の出世間的な定義では「怠け」なんです。

 わかりやすくするために世間的な例を出しましたが、バリバリ働くことを「怠け」というのは、出世間的な定義で見た場合の話です。お釈迦さまは、俗世間の人がバリバリ働くことについては、何も文句は言われません。ちゃんと働いて社会人として成功しているということは、決して悪くはないのですからね。しかし、真理の立場から見れば、その人が何かを得るのかというと、何も得ることはないのです。ただ、たくさんの店を作って、暇もなく忙しくなって、歳を取って死ぬ。それで終わってしまうのです。高額納税者になることなど、大したことではないのです。「自分のお金」など、結局はないのです。色々とあれこれ振り回されただけで、何も得たものはなく、死んでしまうのです。だから出世間的な視点で見れば、その人は怠けていたということになるのです。

Q: 「感情に振り回される」とおっしゃいましたが、その「感情」というのはどういうことですか。

A:  感情というのは欲と怒りと愚かさ、いわゆる「貪瞋痴」のことです。
 欲は好ましく思う感情。
 怒りは「嫌だ」と否定する感情。
 愚かさはよくわからない状態。
その三つが、色々と変身して、色んな形を取って現れるのです。
例えば、親しい人が死ぬと、すごく悲しくなるでしょう?
 その「悲しい」というのは、怒りが変身しているんです。そう言われても、本人は納得いかないでしょう。「なぜこれが怒りなのか。嘆き悲しむのは当然ではないか。優しさの表れではないか」と思うのです。しかし、悲しみとは「イヤなこと」に対して生じる感情でしょう?  だから悲しみは「怒り」のカテゴリーに入るのです。もしも自分の子供が車にはねられて死んだと聞いたら、悲しむどころか激怒するのではないですか。怒りをぶつける相手がない場合は、怒りが悲しみになるのです。そのように、欲も怒りも、いろんな形でとにかく我々に感情を引き起こし、我々を振り回すのです。

Q: 我々が普通の生活をしながら怠けないようにするためには、どうすればいいでしょうか。

A: 仕事をしながら家族の面倒もちゃんと見て、色んな徳も積んでいれば、怠けていないと言えるのです。戒律を守ったり、金儲け以外の時間を作って人を助けたり、冥想したり、お布施したりしているならば、自分が死ぬ時に持っていけるものを得ることをしているのです。仕事をしている時は感情に振り回されているかもしれませんが、その収入から一部を人のため、世の中のために使って何かをするならば、その時は感情に振り回されているわけではないのです。

 しかし、真理の目で見ると、私たちにある真の仕事はたった一つです。それは煩悩をなくすことです。それこそ、人間に生まれてきて、やらなくてはならないことです。貪瞋痴に振り回されて生きていると、永遠に輪廻のサイクルを繰り返すことになるのです。この世で生まれ、貪瞋痴に振り回されて生きて、歳を取って死ぬ。貪瞋痴というこころのエネルギーはそのままだから、死んでもまた再生する。そして、また貪瞋痴に振り回されて生きて、死ぬ。また、生まれて、貪瞋痴に振り回されて生きて、死ぬ。それを延々と繰り返すことになるのです。その悪循環にはキリがないのです。終わりなく、ずっと苦しみを味わっていくことになります。

 しかも、こころは、貪瞋痴の感情に操られていると、ドンドン次元が低くなっていくのです。だから人間に生まれたら、できるだけ気をつけて、よりレベルが高いところを目指さないといけないのです。例えば、欲を出すにしても、知識や技能を得ようとするなど、レベルが高いものを得ようとするべきです。怒る時でも、「今の日本人はもっとしっかりするべきではないか」などと怒るのならば、くだらないことに怒るよりは優れているのです。欲や怒りが良いわけではないのですが、せめてレベルが高い方を目指しておくのです。そうしないと、人は限りなく堕落します。貪瞋痴の感情に振り回されるにまかせていると、みるみるうちにだらしない人間になってしまうのです。

 ですから我々がやるべき唯一の仕事は貪瞋痴を減らそう、なくそうとすることであって、それをしないならば、怠けなんです。それが仏教の「怠け」の定義です。この場合、俗世間の定義も使えます。貪瞋痴をなくそうとしないことは、やらなくてはいけないことをやってないことになります。だからさぼっているのです。

 怠けというのは、人間には、どうしてもついているものなのです。冥想しようとしても、何かやる気が出てこないのは、貪瞋痴にやられているんです。感情にやられているんです。やらなくてはいけないことをイヤででもがんばってやろうとしているのに、そこに怠けが入って邪魔しているということなのです。

Q: こころを育てることが自分の唯一の仕事だというのは、死ぬ時に持って行けるという意味ですか。

A: それだけではありません。「こころは我々の管理者で支配者だよ」というのが、お釈迦さまの言葉です。生命はこころに導かれています。私たちはこころに引き回されているのです。「命あるものはこころの奴隷である」。これを覚えておくと、かなり頭がよくなります。他の色んなことは二次的なことで、こころを育てることほど大切なことはないのです。

 こころを育てない人は、自分のこころの中で、悪魔を大事に育てるようなものです。不幸はすべて自分のこころがつくるのです。不幸な人に「それは自分のせいですよ」と言うのはすごくきついように思うでしょう? 世間では「かわいそうに。そんなことで落ち込んではいけない。あなたは何も悪くないですよ」と言うかもしれません。でも、それは事実ではないのです。

 こころを正しく育てると、自分のこころが自分を幸福にしてくれるのです。こころは、ちょっと努力すると、いくらでも大きく育てることができます。自分のこころを自分の敵にしてはいけません。自分のこころを味方にするのです。そうすれば、どこまでも幸福になります。他人のせいで自分が不幸になるのであればどうしようもないけれど、自分のせいだから、何とかすることができるのです。

 こころは支配者です。幸福の原因も、不幸の原因も、こころにあります。善か悪かはこころが決めます。暗くて小さな狭いこころでやることは、何でも悪いのです。こころそのものが邪悪だと、しゃべっても、見ても、立っても、罪を犯していることになってしまうのです。悪い方向に堕落したこころがどれほど恐ろしいかというと、「そのこころがあること」自体で罪になってしまうのです。そのこころを、仏教の専門用語で邪見と言います。罪のリストの中でいちばん重い罪は邪見です。こころが大きくて広くて明るい時は、悪いことはしません。萎縮したこころはとても危険です。こころを育てないことほど危険なことはないのです。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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