「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【93】 大海のごとく広々と

Q:  人としゃべるのが苦手で、なんだか緊張するというか、敵意のようなものを持ってしまうことに最近気がつきました。慈悲の冥想をしたら心がきれいになると思ってがんばっているつもりなのですが、なかなかうまくいきません。

A: 慈悲の冥想というのは、「ああなりたい、こうなりたい」というやり方でやるものではありません。「もっと立派になりたい」とか「私のこういう問題を解決したい」とか、そういうことで冥想したところで、慈悲の冥想でも何でもないのです。

 慈悲を育てるというのは、そんなことはすべて完全に置いておいて、自由な思想家として、自由な哲学者として、世の中を完全に新しい目で見ることです。自分の生き方として、「生命はすべて平等で、みんなそれぞれ一生懸命に頑張っている。そちらには、私や他人や、そんな区別は何もない」と、非常に高いレベルでものごとを見ることです。そういう尊い、高いレベルの見方で生きるようになろうという気持ちで慈悲の冥想をやっていただけるなら、ほんの一日二日で、おっしゃるようなことは問題ではなくなります。そんな小さな問題はバカバカしく見えてしまうのです。

 例えば、自分には自信がないとか、怒りがあるとか、人とうまくしゃべれないとか、そういう悩みを解決する手段として、「だから慈悲の冥想をやってみよう」と思っても、何も解決しません。それは「ここらにちょっとゴミが入っているから、このゴミを洗おうか」という調子でしょう。問題はその辺なんです。「私のこの問題を解決したい」というのは「まあここらへんをちょっと直したいな」といった気持ちだから、「私は本当は完璧なすごい人間なんだけれど」という考え方が隠れているのです。謙虚の反対で、結局、ブッダの教えをバカにしている。そういう気持ちで真理の哲学に至るということは、あり得ないことなのです。

 慈しみの冥想は、自分が偉い人になるためにやっているわけではない。世の中に対する見方、自分に対する見方を、根本から洗うためにやるのです。慈悲の冥想をする人は、すばらしく優しい哲学者になってほしい。優しくものごとを見られる人間になってほしい。「個人的なケンカをなんとかしたいので慈悲の冥想をします」とか、そんなスケールの小さなものではないんです。慈悲の冥想というのは問題を解決するための原子爆弾のようなものです。すごい破壊力で、すべての人間の問題、汚れを全部壊してくれるのです。原子爆弾で蚊を殺そうと思うのは、おかしいでしょう?

 ちょっと人としゃべりにくいとか、ちょっと人間関係がギクシャクしているんだとか、友達とうまくいってないんだとか、そういうことで、「じゃあ慈悲の冥想をやってみよう」など、そんなレベルは慈悲の冥想じゃないんです。そのポイントをちょっと理解していただければ、なんとかなるだろうと思います。

 慈悲の冥想というのは、全生命、人類だけではなく、地球だけではなく、我々の見える生命であろうが、見えない生命であろうが、すべての生命に対して、「生命は生命である」と平等に見る、壮大な世界です。皆それぞれ自分の命を維持するために、死を避けるために、苦しみをできるだけ控えるために、一生懸命に生きている。それに気づいて、生命としての普遍的な真理を発見してほしいのです。

 どんな生命でも苦しみを嫌がるでしょう? たとえゴキブリでも「より幸福な生き方がないか」と探し求めているのです。アメーバであっても、自分にとって良い環境で生きていきたいと思っている。そういうところは、アメーバであろうが私であろうが何の変わりもない。その平等な目で世界を見てほしいのです。

Q: アメーバのことなどを考える時は自分の想像を使ってしまうと思うのですが、それは妄想ではないのですか。

A: ここでそういう話が出てくるのはおかしいのです。あなたは一生懸命にアメーバのことを妄想しようとしていて、慈しみを育てることをやってないでしょう。アメーバというのはただ例として言っただけ。どんな生命でもいいのです。

 自分の周りに生命はいくらでもいるでしょう。慈悲の冥想の時に「親しい人」を思い浮かべたりしますが、その人々も例として思い浮かべるだけです。「その人々が」ということではなく、誰でもいいのです。そこを理解しないと、海の水を手ですくって、それで海を語ろうとするような愚におちいるのです。海は海のままで語ってほしいのです。

 ほんの少しだけ海の水を手に取って、「海ってすごいものですねえ」と感心しても、それで海に対する智慧が出てきますか。まあいくらか、なめてみたら塩味だとか、ちょっと海の匂いもあるとか、わかりますけどね。それイコール海ということにはならないでしょう? 皆、いつでもそういう変な方向に慈悲の冥想を持っていこうとするのです。私は「海を見てください」と言っているのに、「はいわかりました」と言って、ちょっと海水を手にとって、「独特の匂いがありますね、かなり塩味がしますね」などと言っている。それは海の話ではないでしょう。だから、まるっきり話が通じなくなってしまうのです。

 別に難しいことではないんです。誰かさんに慈悲の冥想をするのはいいが、それが目的ではないのです。「慈悲そのものが何なのか」という哲学に来てください。「慈しみの生き方」という大きなところに来てほしい。

 これは、アメーバの研究でも、自分の周りの誰かさんの研究でもないのです。一人の人をサンプルにとって研究するのはいいのだけれど、そこから「これが普遍的な真理だよ」というところにまで、なぜ至らないのでしょうかね。慈悲は、ものすごく尊い、量り知れないほど大きなものとして、実際の生命にかかわる普遍的なものとしてとらえないと、意味がないんです。

 私が言いたいのは、本当の慈しみを育ててくださいということです。そうすると、今かかえているような小さすぎる問題は、あまりにも小さくて、問題ではなくなってしまいます。今は、自分があまりにも小さすぎ。人とうまくしゃべれないとか、緊張するとかね。相手もただの人間でしょう。自分もただの人間で。それでもしゃべれないというのは、あまりにも小さいからです。慈悲は、その小さな自分を、全生命を一体で感じられるような雄大な人間にしようとしているのです。

 ブッダは「それこそが生命の生きる道だよ」とおっしゃるのです。論理的に見てみれば、他に何か方法がありますか。生きるものにとっては、慈しみしか、他の道はない。どうせ誰でも死んでしまう。生きるということは、死ぬまでのことでしょう。それはほんの短い時間でしょう。生まれてから死ぬまで、人間らしく生きることができない? そんなことが言えますか。答えは単純です。論理的に考えましょう。「我々は短い時間しか生きていないのに、その間に喧嘩したり、戦ったり、憎しみあったり、相手を噛んだり、牙を出したり、そういう必要があるのか」と。

 そういうことですから、慈悲の冥想は、とてつもなく大きなスケールで、誰よりも高度で立派なレベルでやってほしい。そのレベルで慈悲の冥想をすると、何となく気持ちが変わって、今までの悩みがバカバカしくなるのです。相手が敵として行動してきても、「どうぞ」という気持ちになるのです。そういうふうになることが慈悲の冥想です。

 ですからある特定の目的を作らないこと。人とうまくしゃべりたいとか、そんなことではなくて、「海のように広くて大きな人間になるんだぞ」と決める。そうなったらもう、たとえ敵がいても、優しい気持ちになれるのです。

Q: 小さいことを考えていたら慈悲の冥想はできない、ということですか。

A: そんなのは慈悲の冥想の世界じゃないんです。

Q: 自分では大きくやるつもりでも、どうしても小さいことを考えてしまいます。

A: そこが問題です。でも自分にそういう大きい心になりたいという気持ちさえあれば、なれます。今はそうでないことは、別に、恥ずかしがることはないんです。人間の心がもともとすごく小さいということは当たり前のことであって、だから「大きくなれ」と言ってるんです。「大きくなれ」と言ったとたん、もう前提として大きくないということでしょう。それを別に隠す必要はないでしょう。何を隠すんですか。心が小さいのは当たり前のことなんです。そこを大きくするように頑張りなさい、海のように広い慈しみの心をつくりなさいと、お釈迦さまはおっしゃっているのです。

 仏教は実践する教えです。行動的な教えです。やることがあるのです。人をほめたたえるものではなく、努力して進みなさいと叱らなくてはならないのです。「尊い生命だ」「神の子だ」とは言わない。今はすごく小さい存在だということを認める。それから、「そんなことで止まるなよ」「いくらでも大きくなれるんだよ」と教えるのです。

 そういうふうに慈しみを育てた方がいいのではないかと思います。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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